池上直己「医療の政策選択」

  勁草書房 1992年 6月10日 初版


 1992年に書かれた本であるので、日本の医療費が非常に切迫した状態になることは想定されていない。
 
 医療の議論においては価値観から離れることはできない。
 「経済の論理」←→「医療制度の歴史」←→「医の倫理」←→「経済の論理」・・・
 ある人が医療を経済の論理で語ると、それに医療制度の歴史を知らない議論と反駁し、医療制度から語るものには事実ではなく医の倫理を語れという反駁が生じ、倫理を語るものにはそんなことは経済的に成り立たないと指摘する、以下循環する。

 「効率化」
 多くの医療従事者にとって「効率化」とは「医療費の削減」と同義語である。
 したがって、市場原理によって医療の効率性を追求することには非常な抵抗がある。(しかし、事実として、各国の国民の購買力平価と医療費はほぼ比例する。つまり、国が豊かになればなるほど、医療費は増える)
 医者と患者の間の情報の非対称性から、医者は患者のエージェントとなるので、その職業倫理に期待するしかないとする議論がある。
 しかし、医者の倫理には資源節約の概念が欠けている。したがって、そもそも費用の観点は無視される。医者は現時点で可能な最高の医療をおこなうという行動をとる。(医者は「患者」のことを考えるが「社会」のことはかんがえないという行動パターンをとる)
 また、医者は自己の効用を最大にする方向で行動する。これは必ずしも自分の経済的利益を追求するということではなく、仕事の対する知的興味を満足させるとか、医者仲間でいい評判をとるといった観点もふくんでいる。
 医療のもう一つの特異な点に、普遍平等性ということがある。
 社会保障は、最低限度だけを保障するのが通例である。しかし、医療に限っては、普遍平等という基準が当然とされている。
 これは、生命の尊厳という観点からであるが、しかし生命の存続に直接かかわるような医療場面は必ずしも多くはない。(もう一つ、国民に一体感を持たせる手段として有効という議論がある。しかし、自由主義の立場をとるひとは、こういう観点自体に反対するであろう。)
 この情報の不平等・非対称性と普遍平等性が医療に困難な課題をあたえている。この二つをくみあわせると、国は国民に最高の医療を提供すべし、という実現困難な目標がでてくる。しかし、一方では医者のおこなう医療は制度により様々な制約をうけている。医者はそれを不満に思っており、もし、そのような制約がなければ、コストはどこまでも増大していく可能性がある。
 そうであるなら、医者の行為が、本当に役にたっているのかを何らかの方法で検討しなくてはいけない。
 有効性の検討は治療行為よりも、予防医学のほうが検討しやすい。
 1979年イギリスで、ほぼ日本の通常の検診に相当する項目ををおこなった群とそうでない群を大規模比較したトライアルがある。その結果は、死亡率、有病率、生活機能レベルにまったく差はみられなかった。その結果、イギリスでは子宮頚癌と乳癌以外の検診はおこなわないことになった。アメリカでも同様の結果がでている。
 治療にかんしては、心筋梗塞について濃厚治療をおこなった群とすぐに自宅治療にきりかえた群の比較があるが、集中治療室治療のほうがよいというデータはえられていない。
 また重症火傷についても同様の比較検討があるが、集中治療室群は短期の延命効果はあったものの、長期予後にはなんら貢献していない。これはある意味では、死までの苦しみを伸ばしただけともいえる。
 またH2ブロッカーは確実に潰瘍の予後を変え、手術を激減させて、潰瘍にかんする医療費を減らした。しかし、同時にこの薬剤が広範な胃十二指腸症状に使われるようになったため、トータルでは、医療費が増えているかもしれない。
 アメリカのある州内での地域での医療行為の頻度を調べたところ、扁桃腺手術では最大12倍、痔の手術では5倍の頻度差があった。外科医の多くいる地域ほど手術の頻度が高い傾向がみられた。
 こういった背景からマネージド・ケアの考え方がでてきた。すなわち第三者が患者にかわって医療者側と医療のメニューを交渉するやりかたである。
 それでは質の評価をどのようにしておこなったらいいだろうか?
 質としては、医療機関の設備・人員、医療のプロセス、アウトカムの3つの因子がある。しかし、設備以外の評価はきわめてむずかしい。アウトカムの評価も難しいが、そのなかで一番、評価しやすいのが患者の主観的な満足度であるとされている。
 このようなマネージド・ケアによって医療が効率化するかどうかについては悲観的な見方も多く、医療費の適正化のためには、医療施設自体を減らすしかないとするものもある。
 そのなかで、ほぼ合意されていることとしては、頻度の低い医療技術については一ヶ所に集中させたほうが効率的であろうということがある。
 また、なんらか倒産を容認しないかぎり、効率化の追求は難しいとされている。

 日本の場合、医療の質の問題がほとんど考慮されていない。日本の医療保険のたてまえからいって、供給される医療は同質であることになっている(だから、誰が診療行為をやっても同一の医療費)。そうであれば、医療者側が情報を提供する必然性もなくなる。
 しかし、日本の医療制度が結果として普遍平等的になっているとしても、それは制度として追求して出来た結果というわけではなく、日本医師会医療機関の間に差をつけることに反対していきた経緯による。
 したがって、患者側が、医療は同質というタテマエを信じなくなれば、患者が病院をえらぶようになる。それが患者の大病院集中である。つまり、質にかんする情報がないから設備とか公的な病院であるといった外的な構造で選んでいるのである。

 「公平性」
 憲法第25条によれば、「国民は健康で文化的な最低限の生活を営む権利を有する」
 しかし、国は具体的にどこまでのものを提供すべきで、何を優先すべきかは合意がない。
 国民の側も健康なものとそうでないものでは要求が異なる。
 健康なものが病気になっても大部分の場合は一過性で、放置しても自然に治癒するものがほとんであり、その場合に医療にもとめるのは、それが重大な病気でないことの保障とそれによる安心である。しかし、十分な安心をもとめようとして、sensitivity をあげていくと specificity が落ちてしまう。検診を厳密にすればするほど疾患疑いの頻度が増え、”健康人”が減ってくる。
 一次予防、二次予防が有効かどうかは十分な検証がない。私生活に公が介入すること自体への原理的な反対もある。
 そもそも全員に「最高」の医療を受けさせるということには原理的な矛盾がある。しかし患者サイドからいえば、「最高」の医療をうけても駄目だったらあきらめられるという心理がある。
 一方、慢性の障害をもった「病弱者」に対しては、それが完全な回復が困難なものであり、それと今後づっとつきあっていく必要があるものであることを認めてもらうことが必要になる。
 しかし、このような完全な回復の見込みのない「病弱者」に対して医療を提供し続けることには、健康な国民からは支持があるとはかぎらない。
 このように、医者、健康な国民、病弱者の欲求はそれぞれに異なっていて、相互に重なりあうところは少ない。
 そこで原点にかえり、社会保障の目的は、ナショナル・ミニマムを提供することにあることをもう一度確認する必要がある。
 そうであるならば、すでに障害を有している「病弱者」が優先されるべきであり、健康者の<念のための重大な疾患の否定>といった欲求の優先順位は低くなるべきである。一般的に健康増進、健康確認的なものは医療保障の対象からはずしていくべきである。

 一般に、医療の世界では、投下した費用と効果は、効果の逓減の法則が成立する。毎年便の潜血反応をみるだけよりも、5年に一度でも大腸内視鏡をやったほうが大腸癌発見の効率はあがるが、内視鏡を3年に一度、毎年と頻度を多くすると少し効果があがるが費用は大きく増える。
 医療資源の制約下で最大の裁量権を与えられているのがイギリスの医師で、病院を受診していいかどうかはすべてプライマリ・ケアの医師が決める。そこでどこにも明文化されているわけではないが、50歳以上のひとは腎不全でも血液透析は受けられない。(イギリスではプライマリ・ケアの医者を選べるのは私費の患者だけであり、待ちでなく優先的に入院できるのも私費の場合だけである。)
 一般に医療で私費をみとめるか、どのような場合に認めるかはきわめて難しい問題である。

 日本の医療は、健康なひとにとっては優れた制度であるのだが、病弱者にとっては非常に貧しい制度である。(外来受診率は世界一、検診体制も世界一であるが)

 日本においては、さまざまな歴史的経緯から、病院が福祉機能を代替してきた。病院は疾患を治すというタテマエであるので、治癒しない障害あるいは死というものから目をそむけることになり勝ちであった。

 ここで書かれているように、医療において現在問題をされていることは、10年前から指摘されているわけである。それがバブルによって表面化しないでいて、バブル崩壊後も、またすぐに景気が回復すればなんとかなるとして、問題が先送りされたまま、今日にいたり、ようやく事態がどうしようもないことに直面せざるをえなくなっている。
 日本の医療の最善の部分といわれている部分、国民皆保険制度とアクセスの容易は、実は著者のいいかたによれば、健康なひとの健康確認のためには非常にすぐれた制度である。
 現在一番問題になっている急激に増加しつつある「病弱者」に対しては日本の医療は極めて貧困である。この基礎には日本の福祉の貧困(年金などに一部をのぞいて)ということがある。
 そして日本の経済の現状をみれば、これから福祉を充実させていく方向は絶望的である。
 そうであるならば、一定のパイをどう配分していくかという問題であり、優先順位の問題である。「健康者」から「病弱者」に資源をシフトしていくしかない。
 しかし「健康者」はすでに膨大な既得権をもってしまっている。しかも、「病弱者」をささえているのは「健康者」なのである。「健康者」に既得権を放棄させ、「病弱者」のためにさらに負担させることができるだろうか?
 むしろ、「自助努力」の方向で、「病弱者」切捨ての方向がこれからさらに進む可能性が高いのではないだろうか?
 問題は、「健康者」が将来自分もそうなる可能性があるということから「病弱者」を支えることを肯定するだろうかということである。それは余裕があるからこそ肯定されてきたのであり、余裕がなくなれば、自分が第一であって、「病弱者」などは抛っておけということにはならないだろうか? 「棄老」が日本の本音であって、たまたま余裕ができたので「福祉」という遊びをしてきたが、余裕がなくなれば、ふたたび「棄老」の伝統に戻るということはないだろうか?
 これは、日本が老人をどのように見る文化をもっているかということに帰着するのであろうが・・・。


2006年7月29日 HPより移植