猪飼周平「病院の世紀の理論」(3) 第3章「専門化する日本の医療」 第8章「医局制度の形成とその変容」

 
 この猪飼氏の本は今年3月にはじめに論じていたのだが、東日本大震災に遭遇して中断してしまっていた。改めて再開したい。かなり専門的な内容で医療者以外にはあまり興味がわかない話題であるかと思うが、もしも関心を持たれたかたがあれば、申し訳ないが、前段については3月初旬のエントリーにあたっていただければ幸いである。
 これまでのところをごく簡単にかいつまんで紹介すると、猪飼氏は、20世紀を「病院の世紀」と定義する。これは19世紀も21世紀も「病院の世紀」ではないというふくみで、19世紀の病院は医療をおこなう場ではなく、貧民や困窮者収容の場という色彩が強かった。本当の医療は患者の家でおこなわれた。医療にできることはごく限られたことだけであったという事情がその背景にある。しかし20世紀になり、ようやく医療にもある程度のことができるようになると、そのような医療を提供する場として病院が必要とされるようになる。しかし、感染症のような急性期の病気主体の医療から、長期にわたって継続的な医療が必要とされしかも老化に関連した病気のようにそもそも完治が期し難い病気が医療の中心になってくると、キュアの場である病院は医療の中心的な施設であるとはいえなくなり、21世紀はもはや病院の世紀ではなくなる。
 猪飼氏によれば、医療供給体制には、アメリカ型とイギリス型と日本型の3種類がある。それは医者に一般医と専門医の明確な区別があるか否か、医者が医療経営の主体であるか否かによって区分される。イギリスは一般医と専門医の区別が明確である。アメリカと日本はそうではない。アメリカでは医者が病院を経営するというようなことはない。しかし日本ではそれが多い。
 それでは日本はどうしてそうなったのか? ということで、この第3章では、日本の医者の養成制度の歴史がたどられることになる。
 
 一般的にいって、医者の臨床能力は、a)医学的知識の習得とb)臨床経験の二つから構成される。医学部の教育はほとんど前者にかかわるものであった。現在では医学部を卒業した段階では患者さんの身体に侵襲的なことをおこなうという意味での臨床の経験はほとんどゼロである(医師免許を取得していない人間は侵襲的な行為をすることができないから)。したがって医学部をでただけの人間はほとんど患者をみることはできない。
 それで著者は、1)医師免許取得 2)一人前という二つの時期を医者のキャリア形成の上で区別する。そして、この医師免許取得から一人前までの期間の教育に責任を持つ場として医局という存在があったとする。大学の臨床系の教室と医局はその支配下にいくつかの関連病院をもち、そこに医局員を派遣することによって医局員に臨床経験をつませる。そしてまあ「一人前」になったかと思えた段階で、その医師を関連病院の部長というかたちで就職させる、それが日本におけるおおまかな医師供給体制であったと著者はする。
 しかし明治期以前には医師免許が存在しなかった。したがって誰でも医者になれた。医者になるためには技術の習得が必要でそのための徒弟奉公的なものもあったが、極端な場合、漢文が読めれば医者になれた。
 明治にはいってそれが一変した。明治のはじめには医師免許を取得してすぐに開業することができた。つまり医師免許習得すなわち一人前とされた。しかし20世紀にはいるころから医師免許を取得しただけでは一人前であるとは社会がみとめなくなってきた。その卒業後の臨床教育とは専門医教育(内科とか外科とか)である。もしも一部の医者しか専門医教育を受けられない体制であれば、イギリス型の一般医と専門医の二種の医者がいる体制になった可能性がある。しかし日本ではそうはならなかった。それは大学以外に医学専門学校が並立するような体制とはならず、当初、専門学校として設立されたところも大学となり、医師供給の体制が一元化されたことが大きい。
 当初は医師免許取得後、数年の臨床経験をつんでそのあとは開業するのが一般的であった。また戦前は開業が主で、勤務医という選択肢は一般的ではなかった。
 
 ここまでの話は、主に戦前をあつかっている。現在の医局の問題などは第8章の「医局制度の形成とその変容」で論じられているので、4章以下は別にあらためて論じるとして、次に第8章をみていく。
 現在、医者のキャリア形成に対する医局の影響力はどんどんと減退しつつある。これは2004年から導入された卒後研修の必修化が主因であると一般にはいわれているが、著者はそれに賛成しない。それはきっかけではあったかもしれないが、潜在していたものを表面にださせただけであるのだ、と。
 従来、医局制度の力の源泉は医学博士号授与権であるとされてきた。しかし、博士号が目的であれば、それを取得したらすぐに医局を辞めてしまうはずである。しかし、実際にはそうなっていない。それはお礼参りなどともいわれているが、それは医局に残ることで臨床経験を積むことができるということが大きいのだ、と著者はいう。
 戦前は、医局には臨床経験をつませるという機能は期待されていなかった。戦前は医局の力の源泉は確かに博士号であった。だから博士号をとるとすぐに医局をやめていた。つまり戦前の医局は研究する場を提供していた。戦後すぐもまたそうであった。しかしそれが段々と臨床経験の提供する場となっていった。
 だが、臨床能力を検定するものとしての専門医制度については、大学は長らく反対していた。医師の専門性を担保する場が大学以外となることをおそれたためである。そもそも医者が専門医志向、臨床志向であることも歓迎されなかったので、大学では研究志向である医者を求めた。研究者する医者を医局にひきとめておくために、医局にいることが臨床経験もまた深められるという保証を提供したのであり、良い臨床医をつくろうという意思がそこに働いていたわけではない。市中病院で増大しつつあった医者需要に対しそれを提供したが、それは医局からのローテーションでありその身分は医局での研究者であり、それがたまたま一時期臨床をしているという位置づけであった。医師は臨床経験を求め、大学は研究者を求め、市中病院は労働力を求めるという三つのニーズをそれはうまく充たしていた。
 しかし、医者の専門性志向、臨床志向は強まる一方であり、80年代の終わりには専門医制度も大学の反対にもかかわらず次第に整備されるようになっていった。日本の医師がアメリカの医師にくらべて臨床の熟達度が低いといわれるのは、日本の臨床医養成が臨床と研究の両にらみであり臨床だけに注力できていないためである。
 卒後臨床研修必修化がもらたしたものは、市中の大規模病院が後期研修制度として、卒後2年の前期研修の後の専門性のある臨床の場の提供する体制である。これであれば研究などというものを中途半端にはさむのではなく、アメリカ的に臨床能力だけを集中して獲得することができる。医局は一部の研究志向の医者を引きつけるだけのものとなった。
 先端的な急性期病院でおこなわれている臨床は高度の専門性を必要とする。医局での悠長な能力形成をきらう若い医者たちが、医局にはいらず市中病院でキャリア形成をするようになった。
 そこで著者が危惧するのが、21世紀の医療はそのような高度の専門性を要求するような急性期医療は中心的な医療ではなくなり、もっと臨床各部門の協力が必要な一般医的な疾患が中心になっていくであろうと予想されるのに、そのような若手医師の専門医志向は時代錯誤になっていくのはないかということである。
 
 こういうことを書いているとどうしても自分のキャリア形成と比較してしまう。そして東大というところは特殊なところであるなあということも感じる。わたくしは一年浪人しており、教養学部から医学部に進学したときにいわゆる東大紛争で一年授業がなく、したがって医学部卒業が26歳のときで、大学で2年内科研修のあと28歳の時に内科に入局、ごくわずかの患者を受け持ちながら研究と称するものを開始、その後、一年間市中病院で一年さらに臨床研修、また一年間大学で後進の指導にあたった以外は35歳で今の病院に就職するまで研究を主にしていた。28歳から35歳までのあいだ7年の内、2年間の臨床であるから5年は研究が主である。それで35歳で学位取得したらすぐに就職してしまった。後進の指導の一年は医局に所属する医者が義務として交代でやっているという意識だったように思う。一年間市中病院ででたのも医局からの指示ではなく、自分の希望によってである(2年の研修では足りないと感じた)。それで残りの研究生活中の臨床といえば、大学での週一回くらいの外来と月一回くらいの当直以外はアルバイトでの外来診療だけであった。つまり大学にいる間、専門的な臨床教育はまったく受けていないに等しい。そしてそれを困るとも思わなかった。
 東大というところの(少なくともそのころの)意識は、臨床などは誰がやってもできる大して頭を必要としないそれほど勉強しなくてもいいようなものなのだから、いざ必要にせまられたらそのときにはじめても間に合う、大事なのは研究である、というものであり、だから臨床はこちらでは教えないから、自分たちで勝手に身につけろという姿勢であった。自分のことを考えてみると、本書でいわれているような臨床の訓練は35歳で市中病院にでてから実際にはじめたという気がしている(それまでしていたことは前期研修+後期研修という感じである)。本書によれば臨床医としての一人前というのは臨床経験10年くらいということであるから、今の病院に就職して5年くらいしてようやく臨床をまあまあできるようになったのかもしれない。自分をふりかえってもその頃から、少し自信めいたものができてきたような気がする。
 わたくしは同期のなかでも市中病院にかなり早く出たほうであり、例外的なケースではあると思うのだが、“後期研修”に相当する部分も、市中病院への就職も、医局からの斡旋ではなく自分で選択している。これはわたくしの所属した医局がほとんど人事権をもっていない医者への支配力がきわめて乏しいいところであったためなのだが、なぜそうなっていたのかといえば“東大闘争”の影響あるいは後遺症である。なにしろそれはインターン制度廃止、医局講座制解体の運動から出発したものであったのだから、当然といえば当然なのだが、本書における医局制度の変遷の歴史の検討において“大学紛争”の影響という視点があまりないように見えた点はいささか物足りなく感じた。
 しかしこれは多分に論ずるのが難しい点であるだろうと思われるので、同じ大学の中でも医局によって影響がまちまちなのである。わたくしの入局した医局はかなりラディカルに運動がおこなわれたところであったので、教授が人事権をもっていたのは助教授(当時)と講師までで、助手の人事は医局員の選挙でおこなわれていた(買収供応なんでもありなどといわれていた)。そうであれば医局員の市中病院での一時的な派遣などということに医局が関与できるはずもなく、おそらくそれはもっと小さい研究室規模での先輩後輩の顔のみえる人間関係のなかで多くはおこなわれていたのではないかと思う。わたくしの勤める病院でも内科の医師の獲得はそのような人のつながりを介した一本釣りがほとんどである。しかし同じ病院内でも本書にかかれているそっくりそのままに、部長人事からその下のローテ―ター・研修医まですべて大学医局がきめていて、こちらではほどんど決定権がない科もある。
 面白いのは(といってはいけないのかもしれないが)、当時精鋭に闘争の先頭にたっていた世代の先生がたが大学や病院の管理者となる年回りになってきていることで、そういう立場になると、大学医局に人事権がなく、関連病院への支配力が衰微していることははなはだ困ったやりにくいことと感じているようにみえることである。某新聞社の主筆のような絶大な権力をもっている教授もいまだにいるようであるが、もっと自分の思うようにできればいいな、昔はよかったと思っている先生方もあるようである。しかし、学位ボイコットといっていた先生方がいつのまにか学位をとっていて、医局解体を叫んでいた先生がある日その医局講座の長になったりしているのだから、あまり強いこともいえないのかもしれない。
 東大というところは不思議なところで、そこにいるかなりの医者がひょっとすると自分は将来の東大教授などということを思っているらしい。わたくしは父が小児科の病院勤めの医者であったので、なんとなく最初から医者のイメージが病院勤務医で、一度たりとも開業を考えたことはないし、また大学に残って教育職などということも考えたこともない。大学でしばらく研究と称することをやっていて、これはやばい、早く逃げ出さねばと感じるようになっていたので、学位がとれたの潮時に市中病院にでたというのが実態に近い。研究というのが研究まがいというか研究もどきというか、とてもまともなものとはどうしても思えなくて、こんなのを続けていくと臨床医としても中途半端、研究者としては4流5流、困ったことになるぞと感じた。
 博士号のなかでも医学博士というのは濫発されていて、非常にちゃちな研究でも博士号が授与されることは周知のことと思われるが(今は違ってきているかもしれない)、医学関係の研究をしているところとしては、医学部には基礎医学という教育と研究をもっぱらにしている部門があり、さらに医学部の外にも理学部というさらに研究専一の部門がある。理学部の先生は基礎医学のひとの研究を馬鹿にし、基礎医学の研究者は臨床家の研究を馬鹿にしているという話があった。臨床の片手間にする研究などというのが立派なものになる可能性はほとんどなく、大半は碌でもないものにならざるをえない。
 博士号をとったのは、30年位前にはなんとなくそうするのが普通とされていたからというだけなのだが、それによって得をしたということはない。わたくしの勤務する病院ではそれによって給与に差がでることもない(公的な病院では部長になるには博士号が必要というところもあるらしい)。学位が問題になるのは大学に残って教育職につくときで、それにはさすがに博士号が必要なことが多いらしい。東大の医者はひょっとすると俺は将来の教授などと思っているひとが多いようだから、それでいまだに博士号をとろうとする医師が多いようである。今は、わたくしのころのような論文博士というのはきわめて難しいらしく、大学院で5年の勉強が必要らしい。しかし、外科の医者が大腸癌発癌遺伝子発現の研究といったことをしても、それで手術の腕があがることはないだろうと思う。
 さすがに東大でも最近は配下の医者に何らかの臨床技法を身につけさせることは必要であると思ってきているようである。自分で勝手に勉強しろではなくなってきている。そのために市中病院に数年派遣ということをしている。大学の使命はあくまでも研究であるが、その研究が実らなかった場合、市中病院に出すときに何らか腕に覚えがないと出しにくいということ程度のことは考えるようになってきている。
 一方、大きな市中病院では、本書に書かれているように、後期研修プロプラムなどによって若手の医者を集めることに成功しているが、後期研修が終わった卒後5〜6年目からが問題になるらしい。あくまで研修医であって、その病院の将来をになう幹部候補生を採用したわけではないから、病院の労働力としてはきわめて貴重であっても、研修がおわったあとはお荷物になってくる。すべての医者が必要であるわけではなくなる。しかも、そういう大きな市中病院の部長職には大学人事として落下傘降下で人が降ってくることもあるし、さらには院長までが大学をリタイアした教授がきたりする。前期・後期の研修のあとさらに病院に残って中堅となって病院に貢献しても平どまりとなって、長として処遇されないという問題が生じてくる。これは今後しばらくすると顕在化してくるのではないかと思う。そういう医者は開業していくのだろうか?
 本書の主張の一つが、現在の医局は臨床経験を医者につませることを可能にする場として機能しているというものなのだが、東大は研究者養成志向がきわめてつよく、研究にくらべれば臨床などは特別な能力を必要としない誰でもできる簡単なことであるする傾向が強いので、ここでの論点が今ひとつぴんとこなかった。とはいっても、東大でさえ、医師に臨床経験をつませなければいけないと考える時代になってきていることは事実である。
 そしてここでも指摘されていることだが、現在の先端医療はどんどんと高度化してきており、若手の医師が早く身につけたいと思っている臨床能力もそれである。しかし、それらの高度な医療は大学病院というような高度先進医療をおこなっているところでこそ必要とされるが、現在の疾病の過半をしめる慢性疾患、生活習慣病、加齢にともなう疾患などにはまず必要とされない。そして本当のことをいえば、そういう高度先進医療を必要とされる患者さんもまた同時に慢性疾患や生活習慣病や加齢にともなうさまざまな問題をかかえていることが多く、ただ難しい病気を治せば事足れりとはならない可能性が高い。
 そういうありふれた病気への対応は誰でもできる大して頭をつかわなくてもいい簡単な医療なのだろうかということが問題となる。本書での論旨にしたがえば、イギリスの一般医に相当する医師があつかう範囲のことなのだろうかということである。わたくしは、それは微妙に違うように思う。
 そして、そのような現在の患者の大半である、華々しい医療とはほど遠い地味で成果がみえにく医者からいって達成感に乏しい“さえない疾患”をどうみていくかという教育については、まだほとんど萌芽すら見えていないように思う。著者が指摘するようにそれは本来医師のあつかうべき範疇ですらないかもしれず、さまざまなコメディカルスタッフの共同作業に委ねられるべきものである可能性も大きいのだが、問題は患者さんの側はあいかわらずそれも医者の仕事と思っていることである。医者はその期待にほどんと応えられていない。
 

病院の世紀の理論

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