竹内靖雄「衰亡の経済学 日本の運命 あなたの運命」 

  PHP 2002年4月30日初版


 著者も「あとがき」で書いている。「われながらよくも同じことばかりいいつづけてきた。」
 相変わらずの主張の最新刊である。基本は「日本型社会主義の終焉」。

 日本は太平洋戦争で緒戦には勝ったものの、ミッドウエーの敗戦以降は負け続けで、8月15日で憑き物が落ちた。
 戦後、日本は経済面で当初勝ち続けたが、バブルの崩壊以降は負け続けであり、早く8月15日をむかえて「負け戦」を終了させ、憑き物を落とし、敗戦処理をし、「戦後」改革をせねばならない。
憑き物とは「社会主義」体制であり、「戦後」改革とは「普通の資本主義」への移行である。
 現在の日本の体制は、資本主義ではなく、社会主義体制である。もっとも社会主義とは「国家独占資本主義」のことなのであるが。
 高度成長は民間の努力の賜物であったが、その成果は政府の手で再分配された。戦前の軍・官、戦後の政・官が追求した国家社会主義日本版(日本型資本主義)が完成したのである。
 しかし、こういう社会主義は経済・人口が成長する勝ち戦の局面でしか実現しえない。その成長がとまったのである。今後も「高度成長」の再現など、夢物語である。
 資本主義は、決して理想的なものではない。それには多くの「悪」がある。しかし、それにかわる体制はなく、また資本主義の「悪」を完全に除去する方法もない。
 政府にできることは、人々から税金をとるか借金をするかして集めた金を他の人々に分配することだけである。これは社会主義のやりかたである。
 これからの政府の仕事は、資本主義のゲームに必要なルールの整備と、自力で生きていけない人々の救済である。
 過去にデフレ下で構造改革をした国はない。インフレという輸血をしながらでないとできない。
 今までの日本の政治であった利益分配業としての政治は、分配すべきカネがなくなってくれば自然に成り立たなくなる。経済成長の終焉とともに「日本の政治」も終焉する。

 日本の赤字病の治療の方策としては、高度成長の再現などは考えられない以上、
 ①増税
 ②ハイパーインフレをおこして、借金を帳消しにする。
 ③現状放置で、いずれ踏み倒し
 の3つしかない。
 日本はまだ負担が少ない国であるから、いざとなれば増税すればいいと政府はたかをくくっているのかもしれない。増税すれば、政府の仕事はいつまでもあることになるから、政府はその方向を出してくるはずである。高齢化社会においては高負担もやむをえない、とか言って。
 もし増税しないなら②だが、それを信念をもって実行できるような胆力・知力・演技力のある「ワル」は日本にはいないだろう。
 ③の手本にイタリアがある。政府がお手上げになっても、国が滅びるわけではないことが、ここを見るとよくわかる。
日本の経済不況に対しては、
 ①とりあえずの痛み止めと栄養剤点滴(旧来の財政金融政策)
 ②緊急手術(小泉「聖域なき構造改革」)
 ③大量輸血(クルーグマンインフレ目標設定」)
 などのいろいろな提案がある。
 しかし、そもそも、日本を一人の患者のようにみたてて、その治療法を論じることにどのくらいの意味があるのだろうか?
 こういう議論には、優秀な医師なら正しい診断と治療によって患者の病気を治せる、医者が失敗すれば患者が死ぬというイメージがある。しかし、国家が死ぬというのはどういうことか? 国がなにかしてくれることを期待するのは、相変わらずの「お上」依存である。
 国に何かをしてもらうことではなく、自分が何かするほうが大事ではないか?

 高齢化社会になると今後国民負担が増えるのは当然であるとするものが多いが、本当にそうなのだろうか? 高齢者社会では「大きな政府」や「福祉国家」は維持できないのである。
 本来は「身寄りのないひと」だけが、国家の特別な保護の対象となるのである。しかし、「ゆりかごから墓場まで」という福祉国家は、すべての人間を「身寄りのないひと」にしていく方策なのである。老後は年金で、住むのは老人ホームで、病気は病院で・・・・。
 一人あたりのGDPが大きい国ほど子供が少なく、人口が減ってゆく。つまり、従来家庭でおこなっていたことを、すべてサービスとして外部から購入するようになるからである。そうなると、女性は自分で家事をしないための金を稼ぐために働くようになる。そして、それにはとんでもなく費用がかかるので、子供を作る余裕がなくなる。これはつまり先進国は、「貧乏」だから子供ももてないということなのである。これがさらに進めば、結婚すると「貧乏」になるので結婚しないことになる。貧乏だから結婚もできないということである。昔から所帯ももてないというのが、貧乏人の定義であったのに。もちろん、ここでいう「貧乏」とは、今までの贅沢が続けられないという意味での贅沢な貧乏なのだが・・・。
 福祉国家は、家族と家庭を崩壊させる。
 文明国では人口の減少は避けがたい。
 市場ではなんでも買えるが、一つだけ買えないものがある。それは人間である。市場の原理を排して、市場が入りこまない共同体をつくるのが家族なのである。

 医療にかかる費用は一人あたりの所得が増えるほど増加する。こういうものは必需品ではなく贅沢品である。怪我や急性の病気にたいする医療は必需品である。これをもし貧困のために買えないひとがいるならば、それを国が救済するのは正当である。
 しかしあらゆる医療を、すべてきわめて安価に、あるいは場合によっては無料で国が提供すべきであるというのは異常な話である。しかし先進国は、この異常な話を実現できると錯覚してきた。
 先進国では3つの医療制度がある。
 ①イギリス型:無料医療サービスを国営で(社会保険制度ではなく、税による)。これは日本の学区制による義務教育の無料配給に近い。患者には医療機関の選択の自由はなく、需要が多いので待ち時間も長い。医者は公立学校の先生のようなものであり、所得も高くない。
 ②アメリカ型:一見、市場型。そこで保険に入れないひとだけを社会保険がカバーする。しかしまだ保険未加入者が15%くらいあり、医療費がもっとも膨張している。
 ③日本・ドイツ・フランス型:社会保険制度による。
 日本はこの制度によって、かなりうまくやってきた。しかし、成功した制度であっても、状況が変れば失敗のもとともなる。高齢化社会では、こういう制度は維持できないのであり、小手先の手直しをしても、どうにもならない。
 それではどうしたらいいか? 社会保険制度をやめることである。贅沢品ではなく主食すら買えないひとにだけ、イギリス型のシステムで手当てする。大部分のひとは自由に自分のカネで医療を買う。それが不安なひとは私的保険に入る。
 このやりかたをしても医療費が増え続けるのであれば、それは国民がそれを望んでいるということなのであるから、少しも問題はない。国民は必要と思うものを自分のカネで買えばいいのである。

 日本には依然として、人治主義、あるいはその極端なかたちとしての徳治主義の考えが残っている。これは儒教の考えであり、人間は士大夫(エリート)とそうでない普通のひとにわかれ、前者は別格であるとして、それには道徳的に立派なひとであることをもとめる。しかし、誰もが自分の利益を中心に動くという事実から、目をそむけてはならない。政・官・財のエリートに徳をもとめても仕方がない。
 必要なことは法を整備し、反則には厳格なペナルティーを課すことである。
 談合がなぜいけないか? 入札価格が高くなって納税者に不利益をあたえることが大きな理由なのでない。正常な競争を阻害するから、禁止しなければいけないのである。
 儒教には「国法を破ってでも自分の親を守る」のが正しいという考えがある。自分の所属する集団の関係を最優先するというだけなら、どの社会でもみられることであり、ことさら特別なことではない。しかし日本の会社が組織としてあまりにも成功しすぎたために、会社のためならば犯罪を犯す会社人間がでてきた。これは組長の命令なら人殺しもするヤクザの世界と何らかわることはない。組員が罪をかぶって「おつとめ」をはたせば組が妻子の面倒をみるというシステムは、そっくりそのまま会社社会にもある。
 しかし、国のルールに反しないかぎりにおいて組織のルールにしたがうという当たり前の状態にしなくてはいけないのである。

 現在の不況は一過性のものではない。社会・経済が明治維新にも匹敵する地殻変動をおこしつつあるのである。その変化の一つが、武士の後裔である「サラリーマンの終り」の始まりである。
 今後サラリーマンは、
 ①独立事業主あるいは、会社の経営者になる。
 ②市場で自分の能力を売る。
 ③誰にでもできる仕事を低賃金でする。
 の3つに分極化してゆく。
 会社に仕えるという仕事以外になにかできなくてはいけない。会社からではなく、市場で評価されるような何かをもっていなくてはいけないのである。

 戦後の日本は初代の創業社長が裸一貫から奮闘して立派な事業と財産を残したが、息子の二代目はなんとかそれを持ちこたえただけであり、三代目の孫がつぶそうとしているような状態である。
 高度成長の間に完成した「社会主義」と「会社主義」は成長期にだけゆるされる贅沢だったのであり、これからは成立しない。しかしその贅沢になれたひとにとっては、それを取り除くのは大変な苦痛である。
 このままで無為無策でいったとしても、まだ20−30年は食っていけるだけの高度成長の遺産は残っている。それでよい、あとは野となれというのも一つの選択である。
 シュンペーターは、資本主義はその成功と繁栄によって官僚化し、その本来の活性を失い、終焉をむかえると考えた。成功が失敗の原因となるのであり、成功したやりかたに固執することが次の失敗を呼ぶのである。日本はその状態に陥っている。
 日本は普通の市場経済、普通の資本主義になるしかない。
 そして、その体制においては、いやでも格差が生じてくる。
 サラリーマンは消滅し、一億総中流ということもなくなる。
 この流れは、構造改革が順調にいこうが「抵抗勢力」によって頓挫しようが、いやおうなく進行する。あと半世紀すれば、日本はまったく別の日本になる。
 国は滅びても、個人は滅びない。
 日本の運命が個人の運命を決めるのでなく、個人の運命は個人が自分の責任で決めるのである。政府が何かしてくれて、みんなが幸せになるというようなことはもはやありえない。

 竹内氏は、今後日本が中年期の成熟経済期に入り、成長がみこめない時代になっていくならば、社会主義的な方策、「大きな政府」はなりたたない、という。しかし、不況の時期に「小さな政府」を実現することはできないというものもある。不況期とは弱者になにかをしなければいけない時期なのであり、その何かをできるのは国だけだからというわけである。
 不況というのが一時的なものであり、今なにか負債をおっても、好況期になれば、それを埋め合わせることができる、ということであれば、不況期に国がでていくことが正当化されるのであろう(国がでていくことが、景気を刺激する効果もあるという意味で)。
 しかし、現在の不景気のような状態が今後半永久的に続いていくとしたら(つまり、国の施策で動向を左右できるようなレベルの問題ではなく、構造的な問題として経済低迷がずっと続いていくとしたら)、竹内氏のいうように、できないものはできないということになる。
 日本では、「バブルの崩壊」と「高齢化社会の進行」がたまたま同時期におきてきたわけである。
 高度成長期には、その趨勢がある程度は今後も続いていくことが想定されており(年金とか社会保険の制度では、2−3%の「安定成長」が今後も続くものと想定されてた)、その想定のもとで社会福祉制度や社会保障制度が構想されている。(ついでにいえば、出生率もつねに実際より高目に想定されており出生率予想は常に下方修正をつづけている。これは、単に予想の間違いというよりも、そのような高目の出生率がない限り、現状の社会保障制度は維持できないからであり、社会保障制度を続けるという前提にたつかぎり、嘘とはわかっていても、そういう数字を出さざるをえないということがあったように思われる。ここにも問題の先送りがある。)
 したがって、今後高齢少子化の進行によって、社会のアクティビティが低下し、安定成長さえ期待できないのであれば、「大きな政府」は自動的に不可能になる(それでも、極端な高負担であれば、それでも可能なのであろうか?)。やりたくてもできないことになる。
 そして、これは日本で極端な形であらわれているとしても、先進国に共通の問題であるとすれば、どこにおいてもいずれ「大きな政府」はなりたたなくなるのだろうか?
 医療の問題も、竹内氏の主旨にそえば、現在の医療保険制度の維持はいずれ不可能になる。これはすでにかなりの健康保険組合の破綻・解散といったことに現実的にあらわれてきている。
 しかし、国民皆保険制度を廃棄するということは、およそ政治的にできそうもないことであるようにおもわれる。そして竹内氏の提案する方向はどちらかといえばアメリカの医療体制に近づけていくということになりそうに思う。しかし、アメリカの医療体制には問題が山積している。医療というのは市場制度の導入がもっとも難しいところのように思われる。できることは保険の給付範囲をせまくしていくことしかないのではないだろうか? しかし、実際それをどのように運営していったらいいのか見当もつかない。

 日本におけるサラリーマン社会の崩壊は急速に進行している。そして、それを推進しているのが会社側であり、抵抗しているのが労働者側であるように思われる。サラリーマン社会というのはやはり「社会主義」体制だったのであり、会社側は本来の資本主義に戻そうとし、労働者側は社会主義体制を残そうとしているのであろう。

 かつて、冷戦というものがあり、資本主義陣営と共産主義陣営が対立し、資本主義は自己防衛のために「福祉制度」を導入していった。それが東側の崩壊により、敵がなくなり、「福祉制度」をやっかいなものとしはじめたのであろうか?
 それとも、産業革命以来の「成長」が限界にきつつあり、成長過程のみでゆるされる「福祉制度」という贅沢がもはや維持できなくなったということなのであろうか?

 西側と東側の競争は、パイの拡大競争であった。結局、西側体制のほうがパイの拡大に優れていることがわかり、東側が敗れた。しかし、もっと大きなトレンドでみれば、もはや、パイの拡大自身が期待できない時代になってきたのであり、パイの拡大を前提とした「福祉制度」はなりたたない時代になっていくのだろうか?
ケインズ政策とは、もともと不景気が均衡から一時的なづれであるということを前提にしているように思われる。放置しておいてもいづれはもとに戻るとしても(しかし、「長い目で見れば、われわれはみな死んでいる」)、それには相当な時間がかかるから、それを人為的に早くもとの均衡に戻す手段として財政政策が考えられている。
 均衡が一定ではなく、つねに下方にずれていくような社会状況が出現したとしたら、永遠にケインズ政策をとりつづけなかればいけないことになる。あるいは、ケインズ政策をとることによって、かろうじて現状維持ができることになる。その結果、膨大な財政赤字が蓄積していく。いずれそういう政策は続行できなくなる。否応なく「小さな政府」になっていく。そういうことなのだろうか?
 共産主義とは「大きな政府」の失敗の壮大な実験だったのであろうか?


2006年7月29日