田中秀臣「不謹慎な経済学」

  講談社 2008年2月
  
 先週の金曜日に大学で、わたくしの出身の大学病院とそれと関連する病院の相互連携についての懇談会があった。そこででる話はおおむね悲観的なものが多く、現在の「病院崩壊」といわれる事態はもう10年ほどは続き、日本の医療がもう本当にどうしようもなくなった時点ではじめて、なんらかの具体的な動きがでてくるのではないかといったものが多かった。わたくしのいる病院もご他聞にもれず、医師不足に直面することになり、そのため、この二ヶ月ほどは、あまり本も読めず、ブログの更新も停滞することになった。
 日本の医療の問題は、「医療崩壊」ではなく、「病院崩壊」であって、病院という形態が成り立たなくなりつつあるというところにある。もともと病院経営自体はなりたたない状態が続いていたのだが、病院を構成していた医療者が病院からいなくなりつつあり、病院という形態が物理的にもなりたたなくなってきている。
 これからわれわれ団塊の世代が高齢化していくわけであるが、当然そうなれば、入院患者は増加していくことになる。一方、病院で働く医師の数は今後ほとんど横ばいでいくことが予想されており、一人の医師にかかる負担は当然増加し、病院の医師はますます疲弊していき、その結果、さらに病院から医師が去っていく、という悪循環が予想されている。
 一方、病院を去った医者の多くは開業し、診療所で働くことになる。診療所医師の数は増加していくが、診療所を受診する患者数は横ばいでいくことも予想されている。というのも患者さんの側は病院でなければ診られない病気でなくても病院を受診するという行動をとるからで、現在のフリー・アクセスを前提とした医療制度では誰もそれをとめることができない。
 病院は入院機能に特化し、外来診療は診療所が担当し、診療所からの紹介された患者さんを病院が診るというのが多くの国における病院−診療所の関係なのであるが、日本では病院の経営においても、外来収入がその3〜4割を占めているので、外来部門が病院から切り離されれば、現在でも経営の厳しい病院の多くは破綻してしまう。
 現在かなりの患者さんが病院の外来を受診し、その残りの患者さんを診療所で診ているわけであるが、診療所は以前ほど高収益ではなくなっているとしても、とりあえず昼間だけの業務で何とか経営が成立している。一方、24時間営業をしているにもかかわらず(あるいは24時間営業するための投資が収入にくらべて割が合わないので)病院の多くでは経営が破綻している。
 もし医療に投入される資源が一定であるのなら、パイの配分を診療所側から病院側に相当多く移動しなくてはならないことになるが、日本の医療制度について大きな発言権を持つ日本医師会は基本的に診療所を基盤とする団体であるから、自らへの配分を減らす提案を提言するということはありえないと思われる。とすれば、診療所への配分は現在のまま据え置いて、病院側への資源投入を大幅に増やすことしか「病院崩壊」を防ぐ手段はないことになるように思われる。
 しかし、日本の経済状態は芳しくないままであり、アメリカ経済のの先行きも不透明、という状況で、医療に投ずる資源を大幅に増やすということができるようにはとても思えない。しかも、病院への資源投入が増えたとしても、医者の数は当面同じままである。病院医師への報酬がある程度増えるというだけのことなのであり、病院の問題の抜本的解決にはなんらならないのである。
 医療をふくめた福祉などの方面に今後どのように対応していくのかという時につねにでいるのが、それには消費税の増税しかないという議論である。医療に携わっているという立場からすれば、消費税の増税に賛成しなければならないのだろうが、その方向が正しいのかどうか、わたくしにはそれがよくわからない。そもそも「小さな政府」「大きな政府」のどちらが正しいのか、それがよくわからない。医療の立場だけからすれば、高福祉、高負担を選択すべきなのかもしれないが、個人的にはシカゴ学派のほうに親近感を感じている。自分のなかで分裂しているのである。
 それでミルトン・フリードマンのことがとても気になる。その徹底した個人主義自由主義には大きな魅力を感じる。今の日本の医師不足の解消もフリードマンによればとても簡単である。フリードマンの論によれば、医師の国家試験など不要であって、誰でも医者になればいいのである。その医者を許容するか排除するかは患者の側がきめる。医者は自由に治療費を決めればいい、という多くの人にとってはあんまりと感じられるであろうような論である。国家試験制度というのは資格が国から保護されるということであり、フリードマンのような国に依存することを潔しとしない自由主義者にとっては耐え難い制度なのである。
 もっともフリードマンは企業の社会責任という考えを否定し、メセナとかフィナンスロピーとかに企業が金を使うのは背任であるというのであるから(それは金儲けに罪悪を感じるキリスト教的伝統における「罪滅ぼし」なのであるという)、企業の支えで生き延びているわたくしのいる病院などは存在自体を否定されてしまうのであるが。
 
 「不謹慎な経済学」の著者の田中氏は、大分前、経済学方面の本を少し読んでいたとき、いわゆるリフレ派の一人として記憶していた人である。巻頭に「経済学は、過度の競争が行われる世界や、弱肉強食の世界にならないような社会のあり方を考えるためにある。あるいは、「お金ですべての問題が解決するわけではない」ということを学ぶためにこそ、経済学の存在意義がある」というようなことが書いてあった。それで福祉の問題とかも論じらているのかなと思い買ってきたのだが、そこに「ノーベル賞受賞者は、なぜ人種差別主義者と呼ばれたのか」という章があり、フリードマンのことが取り上げられていた。
 巻頭の言からすると田中氏は反=フリードマン派であるように思えるだのが、内容はフリードマン擁護である。田中氏によれば、いまの日本はまさに「フリードマンの時代」に直面している。
 日本ではフリードマンは、レーガンサッチャー流の「小さな政府」の理論的支柱となったとされており、市場原理主義もそこに由来するとされている。しかし、田中氏によれば、フリードマンには「ケインズ主義的側面」もある。田中氏が強調するのは、「清算主義」を批判したのはシカゴ学派をもって嚆矢とするのであるが、今や世界で「清算主義」を信奉する経済学者など皆無に近くなっているのに、日本の経済学者だけは例外であるということである。「清算主義」というのは、低効率の企業を存続させないように金利を調整すべしという方向の議論である。前々日銀総裁の速水氏などは、そのような見解のひとであったようにも思える。バブルで大儲けをしたとんでもない企業が市場から退場するまでは景気が回復しないほうがいいとしていた節がある(この辺り、リフレ派の本から得た印象であるから、色眼鏡でみているかしれない)。
 田中氏のいわんとしていることは、日本の経済学は世界標準から外れているということで、明らかにフリードマンは世界標準の経済学を構築した巨人の一人なのである。現在、市場原理主義は、「過度の競争を強制し、弱肉強食の世界を肯定するもの、お金ですべての問題が解決するとする流儀と(日本では?)思われている節があるので、田中氏がフリードマン擁護の論を展開しているのが、いささか意外であった。
 経済学の立場から見れば、「資源は有限」であり、「フリーランチはない」のであるから、「大きな政府」というのはありえない発想なのであろう。それでも、ある時期、「大きな政府」が可能であるような幻想が生じたのは、高度成長からバブル経済という時期に、経済の拡大局面が永久に継続していくような錯覚が生じたからなのであろう。それとも経済の舵取りによっては、永遠に生産性の向上を続けることも可能なのだろうか?
 しかし、それが不可能であるのなら、「病院崩壊」をとどめる有効な方法はないことになってしまう。今の病院疲弊の原因のひとつは、日本人の多くが病院で亡くなくっているということにもある。アメリカなどでは、ケアハウスとかナーシング・ホームといった病院以外の場所か、自宅で亡くなっている。厚生労働省も懸命に在宅医療、病院以外での看取りを推進しようとしている。
 しかしアメリカのケアハウスとかナーシング・ホームというものの実態は悲惨なものである。日本の療養型の病床といわれるものに多くの問題があることは事実であるが、それでもアメリカの現状よりはずっと増しであるように思う。後期高齢者医療制度がはじまって「高齢者の切捨て」というようなことがいわれているが、アメリカではとっくに切り捨てがはじまっているように思う。日本でもいずれそうなっていくのは避けられないのだろうか。未来は暗澹たるもののように思える。
 日本の医療体制の分析として古典的な文献のひとつである池上&キャンベルの「日本の医療」(中公新書)は1996年に刊行されているが、医師の病院勤務医志向、それによる診療所医師の高齢化が懸念されている。医師はどんどん生産されてくるが、病院医師という受け皿は一定であるので、いずれ医師は病院に勤めたくても勤められなくなり、開業せざるをえなくなるから、診療所の医師もやがて充足されてくるであろう、というのがその時点での池上氏らの判断だった。
 わずか十年少しの間に、状況は一変してしまったわけである。この時点では、池上氏らは、病院に勤められるのに勤めない医者がたくさんでるという事態は想定さえしていない。ほんの少しの未来でさえ予想することは、われわれにはとても困難なのである。だからもう十年先の日本の医療体制がどうなっているかなど、まったく予想不可能なのであるが。
 内田樹氏もいっているように(「ひとでは生きられないのも芸のうち」)、「ある組織が円滑に運営されるためいは、組織の構成員の15〜20%くらいが「公的なもの」を支えるのが自分の仕事であると思ってくれていれば何とかなる。今まで病院はそれが何とか保たれていて、それでかろうじて運営されてきたのであろう。それゆえに、病院組織というのはいくら批判しても崩壊などするはずがないとみな信じていて、内田氏の表現によれば、《「公的なもの」は磐石であるから、いくら批判しても構わないし、むしろ無慈悲な批判にさらされることで「公的なもの」はますます強固で効率的なこもに改善されるであろうという楽観》から多方面らかの批判にさらされているうちに、その15〜20%を構成していたうちの数人がすっといつの間にか病院から消えてしまうということがおこり、気がついてみると、「公的なもの」を支えるのが自分の仕事であると思ってくれている人が構成員全体の5〜10%程度にまで減っていたという状況になってしまっており、それでいきなり病院の崩壊という事態が表面化してきたということなのではないだろうか。
 患者さんの経済状態によって、受けられる医療が違ってくるなどということはだれも直面したくない。しかし、そうかといって非常に高額な医療(それも根治ではなく、数ヶ月の延命効果)がどんどんと普及してきているのをみていると、早晩これは続けられなくなるなということも感じる。
 いまでは虫垂炎を疑うとまずCTをとる時代になった。整形外科や産婦人科はMRを持つかもたないかで診療レベルがまったく変わってしまうのではないかと思う。患者さんが病院におしかけてくるのも当然といえば当然である。どうすればいいのだろうか?
 

不謹慎な経済学 (講談社BIZ)

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