末永徹「日本が栄えても、日本人は幸福にはなれない」

 [ダイヤモンド社 2002年3月14日初版]

 著者の「戦争と経済と幸福と」が面白かったので、読んでみた。

 小泉首相は「米百表」の逸話によって構造改革の必要を説いた。これは戊辰戦争で荒廃した長岡藩に救援物資として送られた米百表についての話である。困窮していた長岡藩士は、それを当然自分たちが食べる権利があると思った。長岡藩士は地域住民である藩のひとびとに食べさせるべきものだとは始めから考えていない。藩を仕切っていた小林虎三郎は、藩士にも配給せず、それで学校を建てた。米で学校を建てるというのはどういうことか?、建築業者が食べたということである。いわば公共事業に投資したのである。
 長岡藩士は、救援米を自分たちが食べる権利があると思っていた。公務員の特権意識である。
 小林虎三郎は、教育が必要であると判断した。地域住民にとって何が必要か?それは自分が知っていると考えた。お上が民を善導するという思想である。
 構造改革とは「小さな政府」の追及である。しかし、「米百表」の話は公共事業をお上がおこなう「大きな政府」の話なのである。
 外務省の問題は、外務省が機密費で飲み食いする特権階級になってしまっているという問題である。田中真紀子がどんな問題がある人物であるにしろ、そういう外務省を壊そうとしたのである。それは将に「大きな政府」の解体の話なのである。
 明治維新という大改革にも「痛み」はあった。それは特権を剥奪された武士の「痛み」であった。

 60年代のケネディ・ジョンソン大統領の「偉大な社会」はケインズ経済学によるものであった。国の景気対策に頼るというのは日本だけの専売特許ではないのである。しかし、政府による景気政策は問題を先送りすることでしかない。アメリカはそのつけを70年代に「スタグフレーション」という形で払った。それは従来の経済学教科書にはない新しい現象であった。
 日本も80年代の繁栄のつけを、90年代のデフレという形で払っている。
 70年代にアメリカ人は、政府に景気をコントロールする力がないことを学んだのである。自由な市場における「見えざる手」にまさるものはないことを学んだ。
 マルクスの経済学もケインズの経済学も、ともに政府の役割を重視する経済学であった。シュンペーターハイエクフリードマンらによるシカゴ学派による自由主義による経済学は完全な傍流、マイナーな存在であった。それが80年代、サッチャーレーガンによって劇的に甦ったのである。
 冷戦時代、東西は分断されているように見えた。しかし、思想的にみれば、世界のすべての国が、政府の役割を重視する思想によって支配されていたのである。
 そういう世界においては、「優秀な人間は、政府の中枢に入って権力を振るったほうが、社会全体をよりよい方向に導くことができる」という思想が支配的となる。
 80年代にイギリスとアメリカで思潮が変った。社会に貢献したいと思うものは、社会全体のことなど考えずに、自分の稼ぎを増やすことにのみ専念すればいいことになったのである。
 イギリスもアメリカも80年代の改革以前には、学歴にもとづく年功序列社会であった。特に金融業はそうであった。規制産業で競争がなかったから、きちんとした身なりをして、顧客に礼をつくしていれば儲かったのである。
 1995年、イギリスの最高の名門マーチャントバンクであったベアリングは、一人のトレーダーの不正によって破綻した。そのトレーダーは高卒である。単なる遊び好きの悪餓鬼であった。80年代以前のイギリスでは、そのような学歴のものがベアリングで責任ある地位を与えらえることなどありえなかった。なぜ彼がそのような地位につけたかといえば、彼が以前、アメリカの証券会社でデリバティブ商品を扱った経験があったからである。イギリスの金融会社でデリバティブのことがわかるものはほとんどいなかったのである。実は80年代の後半からベアリングはその利益の9割以上を日本の株式投資からえていた。本国イギリスでは完全に競争力を失っていたのである。このトレーダーの不正がなくても、いずれ潰れることは免れない状態であった。
 イギリスは1986年の金融ビッグバンから10年もたたないうちに、すべてのマーチャントバンクが内外の金融機関に買収されてしまった。しかし、それはイギリスに悪いことであったのであろうか? イギリスの金融機関の資本は強化され、多くのイギリスの労働者が好条件の仕事に恵まれたのである。
 金融ビッグバン以前のイギリスの金融機関にあったものは、既得権益の配分だけであった。その人の学歴によってそのひとの生涯の収入は大体きまっていたのであり、学歴は生まれによってほぼ決まっていた。サッチャー以後、人は学歴や身なりによってではなく、会社にどういう利益をもたらすかにによって評価されるようになったのである。
 イギリスの改革の「痛み」は、オックスフォードやケンブリッジを出たが、会社に利益をもたらすことのできない人間を襲ったのである。サッチャー改革は特権階級を否定し、努力するものが報われる社会をめざすものであった。
 それならば日本は?
 日本はサッチャーが求めた社会をとうに実現していた。努力するものが報われる社会がすでにできあがっていた。ただその努力の評価は、18歳の大学入試と、22歳の就職試験のただ2回だけであった。
 それで十分であったのは、日本にはやるべきことがわかっていたからである。欧米を追いかけていけばよかった。1980年代までの日本にとって、年功序列と終身雇用はきわめて合理的な制度であった。
 今の日本は、十分に成長し、欧米の真似をしていればいい段階を過ぎた。企業が永久に存続することを前提とする年功序列がなりたつような安定した事業はもはや存在しない。そうであるならば、リストラされた中高年の「痛み」は甘受してもらうしかない。彼らは若いときに安い給料で働いてあとでとりかえすことになっていた。それは若い時には能力より安い給料で働き、歳がいくと、能力より高い給料をもらうということである。もはや現在の日本は能力以上の給料はだせない社会になっている。かれらは現在の能力に見合う給料を甘受するか、リストラを甘受するかどちらかしかないのである。
 もともと終身雇用など契約書にはなく、ただの労働慣行である。1999年ごろから裁判所も企業の解雇権を広く認める方向に転換してきている。
 これからの企業に必要なのは、奇矯なアイデアを次々に試してみて、駄目ならすぐに撤退するというような行きかたである。こういう社会が終身雇用とマッチするはずがない。
 1980年代、日本では「もはや、欧米に学ぶものはない」とさかんにいわれていた。その通りであった。もう欧米の真似をして豊かになれる時代は終わっており、どうすればいいか自分で考えなければいけなくなっていたのである。

 経済成長のためには政府は小さくしたほうがいい、それは確かである。では経済成長は必要なのか?
 明治維新において、特権を奪われた武士も大部分は社会全体が豊かになることによって、以前より豊かになったはずである。
 日本人の多くは、一生懸命に勉強した子供はご褒美をもらうべきと思っている。官僚の天下りはそのご褒美なのである。
 現在日本の規範は、富は学歴に応じて配分されるべきであるということにある。頑張って勉強して高学歴をえたひとが富んでも、多くのひとは納得する。
 これからの資本主義がむきだしになった社会では、学歴があるひとではなく、たまたま運がよかったひとに厚く配分されていくようになるかもしれない。それを多くの日本人は歓迎するだろうか? そういう社会は不安定なのである。天下り官僚がいる世界は安定している。
 構造改革が徹底すれば、社会全体の利益は増大し、長い目でみれば生活水準は向上し収入は増えるであろう。しかし、その収入は不安定である。今年1000万円でも来年は100万円かもしれない。短期的な変動はとても大きくなるのである。おそらく構造改革の初期には短期的変動は下向きではじまるであろう。「抵抗勢力」はそれを指摘する。その「痛み」はいずれ長期的には消える。しかし、社会の不安定という「痛み」はいつまでも続く。
 徹底した資本主義にはそういう不安的がかならずついてまわる。だからこそマルクスケインズが支持されたのである。
 1980年以降、アメリカとイギリスのGDPの伸びは他の先進国より高い。しかし両国において、貧富の差は増大している。
 アメリカは、能力があるひとを世界中から吸収している。能力がある人にとってアメリカはいい国である。しかしアメリカに生まれた能力がないにはいい国であるとはいえないかもしれない。アメリカは、ただアメリカに生まれたというだけのひとを優遇することはしないのである。
 そういう選択を日本はできるか? 大半の日本人はそういうことを望んではいないのではないか?

 通貨が強いということには二つの意味がある。一つは為替レートの値上がりであり、もう一つは流通領域の拡大である。つまり、質と規模である。
 為替レートの値上がり、値下がりが、どういうひとにどういう影響を与えるかははっきりしている。それにくらべて、流通領域の拡大の影響は見えにくい。
 為替リスクをなくすためには、貿易において支払い側と受け取り側が同じ通貨を使っているようになるしかない。
 日本の通貨をドルにしたならばということは、思考実験としては十分に考慮に値することである。

 完全な財政破綻状態の日本がなんとかなっているのは、「民主的な政府は借金を踏み倒さない」という神話によるのかもしれない。しかし、この神話はかつての「右肩上がりの土地の値上がり」と同じでバブルなのかもしれない。
 土地バブルの資金を最終的に提供したのは預金者である。現在でも国債を買っているのは、預貯金、生命保険、年金などからの資金である。しかし、預金しているものも生命保険の契約をしているものも誰も「国債が値下がりしたら」という危機感をもっていない。リスクを感じない社会は痛覚を失った動物と同じである。
 巨額の国債が発行されるのは、民間の消費が過少で、貯蓄が過剰だからである。これはアメリカの過剰消費と表裏一体になっている。このような相互のアンバランスはいずれ解消されざるをえない(いくら緊密であっても別々の国なのだから)。
 長期的には、日本の人口減少が貯蓄の縮小にむかいバランスがとれていくであろう。それまでの間、急激な変化がないことをのぞむばかりである。

インフレは政府にとって好都合である。名目収入が増え、累進課税で自動的に税の収入が増えるからである。したがって政府は物価の動向に中立的ではない。それが政府から独立した中央銀行が必要とされている理由である。
 われわれが無駄遣いしないから、政府が公共投資という無駄遣いをやってきた。同じ無駄ならば、一本10万円の高給ワインをのむほうがましではないか? 将来にそなえて貯金すると、国債の購入や公共事業につかわれてしまうのである。
 これからは道楽に金を使うしかない。自分の主観的価値観にしたがって浪費する断固たる精神が要求されているのである。それには将来窮乏しても後悔しない心の備えがいるのである。政府の普請道楽よりましな道楽をわれわれがもてるかどうかである。

 個人の自由がどれだけ守られれているかということを指標にすれば、オランダの先をゆく国はない。
 出生率の低下は繁栄する国で共通に見られる現象である。
 17世紀のヴェネチアでは成人男子の70%が独身であった。
 もし国がすべてのレストランで同じメニューの定食だけをだすように強制したら、その国の食事がまずくなることは明らかであろう。それなのに、義務教育や健康保険制度には多くのひとが疑問をもたないのである。
 市場メカニズムを見えざる手と呼ぶことは、人間は自分が何を欲するかは自分が一番よく知っているという心情の強烈な表現なのである。
 アメリカの外交予算は10年で半分になっている。しかし日本では逆に増えている。

 もしも福祉の切捨てができないならば、そして大増税をするような豪腕の政治家も期待できないとすれば、あと日本の残された対策はインフレしかない。
 年金制度はもはやねずみ講と化している。すべての先進国がそうであるが、日本が一番高齢少子化の進行が急であり、かつそれへの対策が遅れている。
 小泉改革は、20年遅れの正統経済学の理論の実践である。しかし世界の関心はすでに経済だけでは解決ができない問題があるのではないか?という方向にシフトしようとしているのである。

 いろいろ考えさせられる本である。構造改革によって利益をうけるひとと不利益をこうむるひとがいる。日本全体のGDPは増えるかもしれないが、貧富の差は広がる可能性が高い。そういう社会は著者もいうように不安定であろう。
 今までのやりかたではどうにもならないことをほとんどのひとが感じるようになってきている。しかし同時に今までの社会は安定した社会でもあった。これから出現してくる社会はどこかぎすぎすして不安定な社会なのであろう。今のままでは駄目だという意識と、今までの社会はぬくぬくと生き易かったという郷愁?のような感情の両方が日本を支配している。
 著者は有能で、間違いなくこれからの社会で上のグループにいくことになる人間である。既得権益の温存を志向する階層を嫌悪している。同時に、多くのひとにとっては今までの社会のほうが生きやすいのだろうなということも理解している。
 80年代までの20〜30年間というのが僥倖のような奇跡的な時代であったということなのであろうか? 丁度、その時代にわたくしは人生の一番大事な時期を過ごしたことになるのかもしれないのだが・・・。