内田樹「期間限定の思想 「おじさん」的思考2」

 [晶文社 2002年11月10日初版]

 あとがきによれば、ウチダタツル君は今年いっぱいで著述業を廃業して学者生活にもどるのだそうである。
 
 30代のばりばりのキャリア・ウーマンに心を病む人が増えている。人間が精神的に追い詰められるのは、「一人で生き、一人で運命と対峙し、一人で責任をとり、一人で問題を解決する」ことを強いられるときなのである、と著者はいう。したがって「自立した女たち」が精神に変調をきたすことになる。しかし、同じ環境でも変調を来たさない人もいる。それは「支えてくれる男がいるかどうかなのである(ウーマンリブが怒りそう(^^))。
 男が女を守るのは二つの仕方がある。「女の成長を妨げる」守り方、「女の成長を待ち望む」守り方である。そして人間の成長には終りがないのだから、「どこまでいっても人間は他者の支えなしには生きられない」のである。「男」とはメタファーであり、「私」というのは「自分の外部にあるもの」によって支えられない限り、立ち上がることができないということである。自立というのは、外部と無関係になることではなく、外部とかかわりをもつことなのである。
 重要なのは、「支えを求めるもの」と「支えるもの」の間のやりとりである。
 自立とは、独立して生計を立てているとか、一人で暮らしているとかいうことではない。それは自立の必要条件ではあっても十分条件ではない。われわれは自己責任においてものごとを決めなければならないという理念と、私達は何かに依存しなくては生きていけないという事実との間にどのような折り合いをつけるかということである。
 大人というのは、この理念と事実との間の矛盾に「同時に」応え、引き裂かれてあることから逃げずに生きているもののことである。
 自立しているひとは、周囲の承認と敬意を支えに生きている。ということは、自立しているひとは、他人に頼られ、すがりつかれる人なのである。どちらも自分以外のものを支えにしている。自立している人は、自分を頼ってくるひとの承認と敬意に支えられ、自立できないひとは、自立しているひとを自分の支えとするのである。

 大人とは子供から大人であると思われている人間のことである。
 あらゆる問いの答えを知っているものはいない。
 「私」は無垢であり、邪悪で強力なものが「外部」にあって、「私」の自己実現を妨害している、という発想をする人間は、みんな「子ども」である。
 「子ども」は自分の外部にいる「大人」がすべてをコントロールしているとかんがえる。
 しかし、あらゆる問いの答えを知っている「大人」などどこにもいない。それは「子ども」の幻想の中にしかいない。「子ども」がそれを知ったとき、「子ども」は「大人」になるのである。

 「仕事をする」というのは、「他者を目指して、パスを出す」ことである。「自分のために」するのではない。

 近代ヨーロッパには「遊民」すなわち「金利生活者」が沢山いた。それはデカルトの時代から第一次世界大戦まで(関が原から大正まで)貨幣価値がほとんど変らなかったからである。だから。先祖が小金をためれば、子孫は利子で暮らすことができた。

 フリーターの存在は、現在の失業問題を重大化させないための最大のクッションになっている。フリーター以外の「ほんとうは失業者なのに失業者であると気がついていないひと」としては、「家事をしない専業主婦」と「勉強しない大学生」がいる。

 日本の会社の二つの秘密。
1)日本の上司は、仕事のできる自立心がある部下よりも、バカな部下のほうが好ましいと思っている。だから部下を「バカ」化するために、「結婚すること」と「家を買うこと」を部下に勧める。妻子とローンをかかえると反抗できなくなるからである。
2)日本のサラリーマンは半径3m以内の女性のなかから配偶者を見出す。
 この二つが結びつくと、会社が既婚女性につめたくなる理由がよくわかる。会社が女子社員をやとう最大の理由がなくなってしまった人間なのである。
 しかし、社員をバカ化しようと努力してきた結果、社員は本当にバカになってしまった。バカ上司がもっとバカな部下をもつ、ということが数代続いていれば、企業は上から下までみんなバカである。そのような企業がつぶれるのは、歴史の鉄則である。
 また、おのれの両親や上司をみていて、結婚してもあまりいいことがなさそうなことを、みんなわかってきた。「半径3m」時代の終りである。
 とすれば、未婚女性を採用していた企業の戦略は無意味、無効になってしまう。
 そこで生じるのが、元気な女子社員である。彼らがかつての男子社員のあとを追っているのである。女子の有能な社員は有能な部下の女子社員を嫌うこと、かつての男性社員以上である。いずれ、会社が未婚男性社員を有能女性社員の配偶者候補として大量採用し、結婚後はいびって退職させるというようなことにならないことを祈る。

 世の中には、どうしたらいいか、判断できないけれども判断をせざるをえないことがたくさんある。その場合、判断をくだした人間が責任をとらない限りは判断に重みがでてこない。今の官僚に欠けるのは、その責任感と覚悟である。

 現代の向上心をもたない「ダメ」な若者は、80年代バブルの「金がすべて」的価値観へのカウンターパートなのである。80年代のクリスマスにはホテルで高級なデイナーを!という価値観へのアンチテーゼなのである。「歴史的補正」がおきているのである。だから「補正」期が過ぎたら、その後が問題である。かれらはまるごと捨てられる可能性が高い。3K担当のブルーカラーしかやれることはないであろう。20年後にはそうなる可能性がきわめて高い。
 そうなったときに、彼らが「だれのせいで何のせいで俺たちはこうなったのか?」という発想にいくことが怖い。

 今のフェミニズムは70年代末期のマルクス主義と似ている。どんなにマルクス主義思想が破綻しているように見えても、あんなものは似非マルクス主義である、として誰も責任をとらなかった。今のフェミニストは自分の責任という観念がない。みんな自分以外の誰かが悪いのである。自分の思想が広範なひとに影響しているという考えがない。

 以上読んできて、やっぱりカソリックだなあと思う。人間とは一人ではなくて、自分をこえる何かがあるということをわかってはじめて自分の位置を見定めることができる、という思考法である。以前、福田恆存を読んでいたとき、かれは自分を「カソリック無免許運転」と自称していた。信者ではないけれども、カソリックの思考に則るというようなことであったのだろうと思う。倉橋由美子チェスタトンを評して、全面的に賛成だが、彼の思考に本当に神が必要なのか? それなしでは成立しないものか、というようなことをいっていた。
 内田氏の場合は福田氏や倉橋氏よりももう少しユダヤ教的なものが血肉と化している印象をもつが、それでも神という言葉をもちださずに「神」的な機能の必要性を伝えるという作業はかなりのアクロバットであることを、読んでいて痛感する。宗教というのは、不合理なものであって「不合理ゆえにわれ信ず」ということが根底に要求されるものであると思われるが、現代において「不合理」を基礎におく思考というのは、どこかで破綻せざるをえないのではないかと思われる。
 そういう感想はあるが、そこを無視すれば、とても面白い本である。
 この本を読んでいても、フェミニズムというのは現代思想の躓きの石なのであるなあ、という思いを禁じえない。