竹森俊平「経済論争は甦る」

 [東洋経済新報社 2002年10月24日初版]


 日本の経済にかんする議論を、シュムペーターとフッシャーという二人の経済学者の学説の対立として整理したもの。
 最近、これくらい面白い本を読んだことがない。こちらの現下の関心とぴったり一致するテーマをあつかっているからなのであろう。
 以下、少し細かく読んでいくことにする。

 2001年4月に小泉内閣が発足したときになぜあれほどの支持をえたのか?
 それは、それまでの自民党政治と政策への批判による。
 自民党的「バラマキ」と「公共事業」「派閥政治」に国民はうんざりしていた。
 小泉内閣はそれへのアンチテーゼであった。
 「バラマキ」の対極が「構造改革」なのである。
 
 「構造改革」がなになのかはいまだに判然としない。
 戦後標準的とされているマクロ経済学によれば、不景気でデフレ状態にある国が緊縮財政を選択するというのは、ありえないことである。クルーグマン小泉政権の政策を、大恐慌時代のフーバー大統領の失敗の轍を踏もうとしているといって批判している。
 しかし、それならば、この10年、公共事業をいくら増やしても、銀行にいくら公的資金をつぎこんでも景気は回復せず、不良債権がへらなかったという事実はどう考えたらいいのか?
 
 非効率なものを経済から一掃すべきであるという経済思想は「清算主義」と呼ばれる。「清算主義者」は破壊を徹底することでしか次の「創造」は生まれないとする。その代表的経済思想家がシュムペーターである。かれは「創造的破壊」をとなえた。かれによれば不況は老朽化したもの、非効率なものを市場から排除する経済の新陳代謝に必要なプロセスなのである。小泉首相、竹中蔵相、速水日銀総裁の発言にはその影響が色濃くみられる。
 しかし、不況にポジティブな意味をもとめるというのは、現在の経済学においては非主流である。標準的な経済学においては、不況は有害なものであり、放置すればデフレスパイラルに陥るとする。これはフィッシャーによって唱えられたもので、「デット・デフレーション理論」とよばれる。(デット=debt 債務)
 
 平成不況はデット・デフレーションとして説明するというのが標準的である。その立場にたてば、「リフレ政策」によって「インフレ目標」をさだめ、それにむかって金融政策を総動員するという対策が必要となる。
 現在の日本の「構造改革」か「デフレ対策」か、という議論は、シュムペーターとフィッシャーの対立としてみると理解しやすい。
 
 「フィッシャーの理論」
 経済システムは大体において自己修復的にはたらくが、大きなショックによって綻びが生じ、一度生じた綻びが連鎖的にひろがるようになることがある。その原因が「債務」である。
 ある商店が年収1000万円であるとする。
 不景気でそれが900万円になってもどうということはない。
 800万円、700万円でもなんとかなるであろう。
 しかしその商店が銀行から借金をしていたとする。そうするとある年収以下では、銀行に債務を返済できなくなるという年収の臨界点が存在してしまう。
 もし、臨界点近くまで年収が減ったら、銀行に店舗を差し押さえられないためには、自己の資産を投売りしてでも、債務を返済しなくてはいけない。不況の最中の投売りは買い叩かれる。したがって臨界点に達すると、商店主の生活水準は年収の低下以上に大きく低下していく。
 このように「債務」が存在すると、経済主体に生じたマイナスは、ある時点から非連続的に大きくなると、フィッシャーは指摘した。
 あちこちにこのような商店がでてくると、それに債権をもっている銀行も大丈夫だろうかという疑念が生じてくる。銀行が取り付けをおそれるような事態になると、つぎには回収できない可能性がある「貸付」をストップし、流動性の高い、いつでも換金できる国債などを持とうという動きがでてくる(貸し渋り)。→ビジネスの資本不足。→投資の停滞→倒産の増加→銀行の倒産→投資の完全な停止。
 銀行もまた預金者に「債務」をおっていることが負担になるのである。
 
 現在においてフィッシャーの理論が正統とされ、シュムペーターに人気がないのは、大恐慌以来の経験がフィッシャー理論を支持しているようにみえるからである。
 
 大不況時代は金本位制であった。
 
 金本位制
 1920〜1930は金本位制の時代。
 1)40%が金準備の下限とされていた。したがってマネー・サプライの量が拘束される。
 2)公定相場。それぞれの国の金の値段からみた為替レート。
 もし為替市場でそれと大きく異なるレートになれば?
 例:公定相場1ドル=100円。為替市場1ドル50円(円高ドル安) 金はすべて日本に動いてしまう。(円でドルを買って、そのドルで金を買って、金を日本に輸出して、その金を円に替える) ドル高円安では逆に金はすべてアメリカへ。
 したがって金の輸出を禁止しない限り、為替市場が公定相場と大きく異なっていては、金本位制は維持できない。したがって、金本位制のもとでは、為替レートは公定相場の近傍で安定的になる。
 3)同様の効果は物価に対しても働く。両国で物価が大きく異なると(例、ペンがアメリカで100円、日本で200円→アメリカからの輸入は急増。日本製品はまったく売れなくなる。アメリカからの輸入にはドルが必要。ドル高になる。そうすると金はアメリカへ。それで物価上昇というインフレを消すためのデフレ政策が必要になる。したがって金本位制のもとでは物価は比較的安定的になる。
 しかし緊急に財政支出が必要な場合、また国内の不況が深刻な場合、国はマネタリー・ベースを増大してインフレを放置せざるをえないことがある。そのことによって金本位制は存続できなくなった。
 第一次世界大戦がその原因となった。戦争は財政を膨張させる。インフレになる。金本位制を続けたのでは、金は流出してしまう。そこで金本位制が廃止されていった(兌換の停止、あるいは輸出の禁止)。
 しかし、金本位制がなくなると、為替レートは変動し、インフレも進行しやすくなる。ドイツやフランスではハイパーインフレとなった。その結果再び金本位に復帰する国が続いた。アメリカ、ドイツ、イギリス、フランスに遅れて、最後に日本も1930年金解禁をし、金本位制に戻った。その時、旧兌換レートすなわち第一次世界大戦前のレートで復帰した。
 しかし世界不況、大恐慌の時代においては、マネタリー・ベースの増大が必須となったため、各国は再び、金本位制を廃止していった。
 
 近年、インフレ目標ということがさかんに議論されているが、それはフィッシャーの「コモディティー・ダラー」(ドルの購買力安定化)という議論にまでさかのぼることができる。これは1ドルで買えるものはつねに一定になるようにしようという発想である。フィッシャーはこれを1920年に提案しているが、この当時アメリカは金本位制である。それなら物価は安定的であったはずではないだろうか? しかし経済成長が金生産の成長を上回ると、貨幣不足が生まれてデフレになり物価の下落がおきる。物価があがったときに賃金があがることはみな当然だと思う。しかし、物価が下がったときに賃金が下がった場合はそうではない。これをフィッシャーは「貨幣錯覚」と呼んだ。これがあるために物価変動を中立的にあつかうことはできず、「購買力安定化」の施策が必要となる。
 大恐慌時代においてとられた政策は、その当時の経済学においては異端とされているようなものが多かった。赤字国債による公共事業というのはきわめて異端な発想であったのである。しかし、その異端の政策をおこなった国は景気が回復した。そして、その結果、シュンペーターの「清算主義」は経済学において傍流となっていったのである。しかし、現在、日本はシュンペーター主義をとろうとしている。
 
 現在の日本では、シュンペーター的な「清算主義」と、フィッシャー流の「リフレ主義」が争っている。
 大恐慌のときと違って、現在は「リフレ派」にとって、GDPの140%という巨額の政府債務があり、コールレートがほとんどゼロであって、常識的リフレ政策の余地はほとんど残されていない。現在主張されているのは、中央銀行が土地を購入するとかいったきわめて異端的なものである。本当にリフレ政策が必要であれば、異端的にでしなくてはいけないのではないだろうか? 一方シュンペーターの「清算主義」でいくというのもまたきわめて異端的である。
 つまり日本の現状は、どちらの道を選んでも、「実験」と「冒険」となるような状況なのである。では、同じ「冒険」ならどちらに賭けるべきなのか?
 
 80年代と90年代の日本型システムは同じものなのだろうか? なぜ前者がうまくいて後者がうまくいかないのだろうか?
 80年代のシステムはキャッチアップに適したものであった。この当時製品の品質をたかめることが急務であった。これに終身雇用制とメインバンク制が寄与した。従業員の技能を高めても、辞めてしまっては意味がない。そして、よくやっている社員にはむくわなければならないが、株式に依存していたのでは、業績がよくなっても従業員に十分に報いることができない。この点銀行からの借り入れなら利子の支払いは一定である。だが、業績が悪くなったときに株式なら配当の停止ですむが、銀行からの債務は返済しなくてはいけない。ここでメイン・バンク制が効いてきて、企業が危機に陥ったときに救済することがメイン・バンクの使命とされた。終身雇用制は、有能な社員が辞めないということであるから、今この危機をのりきれば業績が回復できるという見込みがある限り、救済することに意味があった。メインバンクを引き受けるのは、普段その会社がメインバンクに預金をするからである。5%の金利で借りた1億円を使うまで1%の利息で預けるならば、銀行はなにもしないでも儲かる。また大蔵省も、銀行を保護して救済役ができる体力を保てるように協力した。
 このシステムは製造業には有効であったが、非製造業ではかならずしもそうではなかった。しかし80年代中ごろになって、製造業の銀行離れがはじまったのに対して、非製造業は依然として。銀行に頼り続けることになった。
 銀行は借り手の質をモニターする機能と、流動性の低い長期の債権と流動性の高い短期の債権を仲介する機能をもつ。
 
 ▲レモン(ポンコツで使い物にならない中古車をさす米語)市場の経済学
 中古車を売りにくるひとは新車を買ったが出来の悪い車をつまかされてしまったと思ったひとである。そうすると中古車市場には悪い車ばかり集まることになる。売り手であるユーザーは自分の車のことはよく知っている。買い手はわからない。(情報の非対称性)
 そうすると中古車市場には、ユーザーが乗りたくないと思うようなポンコツばかりが集まってくる。これを逆選択という。通常の選択とはことなり、悪いものだけが残ってくる。
 これは健康保険などで問題になる。自分の健康をやばいと思っているひとだけが加入してくるなら、健康保険はなりたたない。そこで集団加入などが行われる。
 
 銀行が貸し出す場合、いちいち審査などしなくても利子を高くすればいいという考えもある。しかし有限責任の株式会社においては、株主や企業は自分の出資額以上の損をすることはない。極端な場合、元手がゼロのものはどんなリスクでもおかせる。したがってこの考えは成立しない。そこでモニター機能が必要になってくる。メイン・バンクは会社に役員を派遣し、金の動きを監視できるのだから、モニタリング機能にすぐれている。
 しかし、企業がうまくいくと内部留保が増えてきて、銀行にたよらなくてもよくなる。また業績をつみかさねていくうちに、情報が公開され、一般投資家も判断ができるようになる。その過程で一番優良な借り手が銀行の手を離れていった。
 
 ▲ホールド・アップ問題
 株主と企業の関係を考える。
 株主はいざとなれば企業家を首にできる。
 しかし事業情報をもっているのは企業家だから、それが辞めてしまえば、事業の存続が危うくなる。それを企業家は脅しに使える。一般には企業家のほうが強い。これは「ホールド・アップ問題」という。自分が情報を独占していることを利用して、相手からカネを脅し取るようなものだからである。
 しかし、ある条件を企業がみたさない場合には、すぐに倒産させ、所有資産を売却回収するという契約がある場合、ホールド・アップはできない。
 銀行にとって、預金者はすぐに金を引き出せるという点でホールド・アップを許さない立場である。銀行は企業情報を独占している点でホールドアップをできる立場であるが、流動性の高い預金にたよっているという点で、ホールド・アップをできないことになる。
 銀行がモニター機能と流動性仲介機能を併せ持つということは、以上の点によって合理性をもつ。
 
 日本型システムにとって、終身雇用制は要になるものであった。それは、1)企業は不況でも簡単にはリストラしない。2)それによる収益悪化に対してはメインバンクが守る。3)それで銀行が消耗するようであれば、大蔵省が守る、という三重の防衛線によって守られていた。
 そのような防衛線を信じて、80年代日本は暴走した。このことで個人消費の伸びの倍くらい設備投資が増加した。日本企業は資産に対して債務が多いので、設備投資がペイしなければ、重大な債務をかかえることになる。
 日銀もまた、長期に金利を低くすえおくという暴走幇助をした。
 しかし、もっとも暴走したのは銀行である。優良企業の銀行離れからいえば、ダウンサイジングが計られるべきであった。しかし逆に拡大主義に走った。
 そこでクラッシュがおきた。しかし終身雇用制のためにリストラができなかった。そのため企業に限界がきて、メインバンクにも限界がきて、企業自体が沈没しそうになっている。従業員は企業にしがみつき、そのためますます船は沈没しそうになってくる。
 
 企業家のもつ純資産価値が減少すると投資コストが上昇する。
 これが銀行の貸し渋りの原因にもなっている。
 
 現在、「構造改革」においては、現在の財政状態が将来への不安をおこしているから、財政の放漫化をこれ以上放置してはならないという議論がおこなわれている。
 ①現在の財政の状態は、将来の不安がおきて当然なほとひどいものなのか?
 ②たとえそうであるとしても、現在の緊縮政策はそれを解決するために必要な政策なのか?
 
 ▲財政破綻、財政危機とは何か?
 国は無限の生存期間をもつ。そのことによって、有限の寿命しかない個人の負債を考える場合とは、国の負債を考える場合には異なった考えをもつ必要がある。つまり、国には永遠の借り換えという手はあるからである。その前提は発行した国債が市場で消化され続けるということが必要になる。
 しかし、そのことは野放図におこなわれていいということではない。そこには「予算制約」が存在する。
 
 ▲予算制約
 「動学的な効率性」が充たされているならば、財政の長期の経路が「債務残高の現在価値がやがてゼロに収束させる」ものであるならば、予算制約がクリアされている。「ゼロに収束せず、無限大に発散する場合には、「動学的な効率性」がみたされていても、財政は破綻していることになる。
 
 ▲動学的な効率性の条件
 その経済における資本の収益率が、その経済のGDP成長率をうわまわっていること。
 この条件がみたされていないならば、すなわち、その経済における資本の収益率が、その経済のGDP成長率を下回っているならば、「債務残高の現在価値をゼロにする」必要がなくなる。この場合には国と国民の間にねずみ講が成立してしまうのである。GDP成長率を利子率とすることでそれが可能になる。
 本当の投資でえられる「利子」は「資本の収益率」である。それがGDPの成長率より低ければ、「ねずみ講」のほうが本当の投資よりいいということになってしまう。
 
 しかし、現在の日本では、「動学的な効率性の条件」はかろうじてみたされているようである。そうであるならば、「債務残高の現在価値はやがてゼロに収束させる」ことにならなくてはいけない。
 
 ▲「債務残高の現在価値がやがてゼロに収束する」ということ
 「一般政府債務残高」の増加のスピードが、ほんのわずかでも利子率を下回ればいい。具体的には、債務の利子支払い文を除いた財政収支(プライマリー・バランス)が少しでも黒字であればいい。
 そのためには「一般政府債務残高が増加したときには、プライマリー・バランスの黒字を増加させる」というルールが要請される。
 1980年代に日本は、この原則で運用されていた。しかし、1990年代では、一般政府債務残高が増大しても、プライマリー・バランスの赤字も増加するということになっている。したがって、今後もこの運営をつづけていくならば、一般政府債務残高の現在価値は発散をつづけていく。ようするにこのままでは破綻する。未来永劫に1990年代のやりかたを続けることはできない。
 
 理論的な予算制約ではなく、具体的な予算制約は、国債が消化されなくなることである。これがおきるかどうかを予測する経済理論は今のところない。銀行のとりつけがおきる時期を予想する理論がないのと同じである。
 
 財政危機になった場合、政府のとりうり施策としては、
 ①円を刷りまくる→ハイパーインフレ
 ②資産課税
  
 日本の国債は円建てで、大部分が国内で消化されている。
 それの大きな部分は銀行による。もし銀行がひきうけなくなれば、国債価格が下がって銀行は損をする。したがってひきうけざるをえない。銀行は国債と心中せざるをえない。 しかし預金者が円預金ではなく、ドル預金をするようになったらどうか? この場合には国債を買う円の資金が細るので、国債が消化できなくなるかもしれない。政府は外貨預金を禁止したり、資本輸出を禁止するかもしれない。
 
 結論から言えば、今の財政状況が大問題であることは確かであっても、破綻しているとまではいえず、現在の不況から脱した時点で、財政建て直しにむかうのがいいであろう。
 
 個々の企業が業績回復のためにリストラをすることは正解であっても、それが国全体にあてはまるとはいえない。
 
 デフレ政策と構造改革は両立しないのか?
 野口悠紀夫氏や速水日銀総裁はそう主張する。
 不況は経済を望ましい方向に調整するための必要悪なのか?
 この考えが現在の経済学で主流になっていないのは、1930年代の不況克服において、拡張的な財政金融政策をとった国だけが不況を終わらせることができたという経験があるからである。
 不況は新規参入を阻害するという「Chill(冷え込み)効果」があり、シュンペーター的な創造的破壊効果は現在では実証的にも否定的に考えられている。
 
 ▲「罪と罰」問題
 ドストエフスキーの「罪と罰」において、ラスコリニコフは、「一方になんの価値もない老婆が金をかかえていきている。他方に前途有為なものが金がないために空しく朽ちていく。その老婆の金を前途有為なものに転移することは、立派なことではないか?」という理論にしたがって行動する。
 これが現代日本における議論である。「むだ」に金をもっているひとから金を奪って、有用な目的をもっている人にあたえるようにしよう、ということである。「富の転移」である。債権放棄、資本注入、調整インフレ、みなそれをねらっている。
 現在の景気不振をフィッシャー的に見るならば、それが必要になる。
 「一般会計」は金を持っている。それを「企業家」にどうやってわたすか? 現在それがうまくいかなくなっている。それならば、一般会計から企業に富の転移を促すには? 過去であれば、それは「徳政令」であった。「債権放棄」とは現代版「徳政令」である。それをすると銀行の体力が落ちるから、「資本注入」をおこなう。「不良債権処理」は「ただ金を持っているだけの人間から、立派な仕事や計画へ金を転移させるという「罪と罰」問題なのである。
 しかし、インフレによっても富の転移はおこる。
 したがって、不良債権処理もインフレ目標も同じねらいのはずなのである。
 であるから、シュムペーター的立場のものは「デフレ対策」にも「不良債権処理」にも反対すべきなのである。
 しかし不良債権処理は政治的に敵がきわめて多いのに対して、インフレ目標にはそういうことがない。逆に不良債権処理においては、さまざまな人間の責任を問えるのでそれをシステムの改変に利用できる可能性がある。
 富の転移は政治的にはおこないにくい手法である。したがって富の転移ではなく、信用不安の解消という口実がつかわれる。
 逆選択の存在は社会主義的手法を経済学的におこなうことを正当化しうるただ一つの理論かもしれない。
 
 日本の銀行はもはや通常の利益では回復できない状況に追い込まれている。ハイリスク・ハイリターンをねらうしかない。しかしそのような投資先は今の日本にはほとんどない。ただ一つあるのが不良債権を持つ借り手への追い貸しである。そうしている間に景気が回復してその企業が返済できるようになるかもしれない。その可能性はきわめて低いからハイリスクである。しかしそうなれば、新たに貸した分だけでなく、焦げ付いていた債権も回収できるかもしれないのでハイリターンである。これが不良債権処理が遅々としてすすまない最大の理由であるかもしれない。
 
 デフレを終わらせる魔法の薬は存在しない。
 しかしこれ以上の金融緩和は可能か? 「デフレ対策」を有効にするためには銀行が機能しなくてはいけないから、銀行の「不良債権」をまず処理しなく点はいけない。「不良債権」を処理するためには、デフレの進行を止めなくてはいけない。これでは堂々巡りの循環論法である。
 インフレ目標はうまくいくか、2%のはずが20%にならないか? それはわからない。 しかしハイパーインフレの可能性はあまり高くはない。今の日本においては何をするのも冒険である。したがって議論はデフレを放置することの危険性とインフレ導入の危険性の相互のバランスの上で決められるべきものである。そして著者はインフレ導入を危険性を考慮にいれても、その道を選ぶべきであると主張している。

 昨今の議論をうまく整理したものとしてきわめて面白く読めた。
 ただこの本においては、構造改革が目指すであろう小さな政府という問題があまり視野にはっていないように思われた。サッチャーレーガンは経済学にはその政策がどう評価されているにしろ、ある思想的背景をもった路線であったことは確かであろう。そういう思想史的側面は無視されもっぱら経済学の問題として議論されている。
 国が経済に介入することによって経済に何かをすることができるかどうか、またするべきであるのかどうかという点については、議論の余地がないこととして問題にされていないように思われた。
 本書の議論に最初にあったように、「自民党的なもの」にみなほとほといやになっているということがあって、それが壊れるならば少々のことは耐え忍ぶという心構えになっているかもしれないからである。
 しかし、それは少々どころではない、大々的な破壊になってしまうのかもしれないのだが・・・。