森永卓郎「シンプル人生の経済設計」

 [中公新書ラクレ 2002年11月10日初版]

 森永卓郎さんは、専門の経済分野に関してはなんだかいうことが変で、神がかってきているが(自分を日銀総裁にしてくれたら、明日にでも日本の景気を回復してみせるのだそうである。最近政府の中枢にはいった木村剛氏がライバルであるようで、小泉政権が自分の主張ではなく、木村氏の主張をうけいれる方向でいこうとしているのに敵愾心をもっているようである)、そのことはおいて本書の主張をみれば、なかなか面白い本である。木村氏はよくもわるくもまともな人のようであるが、森永氏は変人である。変人の書く本は面白い。
 
 森永氏によれば、
 これからの日本は負け組が大多数になり、勝ち組は全体の10%以下、あるいは1%くらいになってゆく。これはデフレが解消し、日本が経済成長をふたたびするようになっても変らない。そういう変化は不景気によるのではなく、日本社会のドラスティックな構造変化によるのである。その流れの中で「中流」が消失していく。大多数の人間にとっては、日本の景気がよくなっても、自分の生活はよくならない。
 これからのサラリーマンはいくら努力しても勝ち組にはなれないのである。99%が負け組であるならば、負け組が普通ということであり、勝ち組をめざして努力するなどは無駄であり、人生の浪費である。
 以下のような質問にどう答えるか? 「あなたのライバルは誰ですか?」 会社同期を考えるひとはペケ、社内の有能な人を考える人もペケ、同業他社のエース級を考えるひともまだ合格点ではない。業界をリードする海外企業のリーディング・カンパニーのキーマンをライバルとして思い浮かべるひとだけが勝ち組である。もう一つの質問、「あなたには現在ヘッドハンティングの電話がかかってきていますか?」 いいえ、というひとはすべて負け組である。
 上の判定法で負け組とわかった人は、サラリーマンの出世競争から早々と降りるべきなのである。
 今、会社は「収入は保証しないが、会社に滅私奉公せよ。カネがほしければ成果をだせ」というとんでもないことを平気でいっている。この「企業主義」に対抗しうるのは「個人主義」だけである。
 欧米ではあくせくと働いているのは、将来の出世が約束された一部のエリートだけである。あとの人間は仕事は適当にして、あとは自分の人生を楽しんでいる。
 勝ち組をめざす不毛な努力から解放された人間を「ビンボー人」と呼ぼう。
 「ビンボー人」として生き生きと生きようというのが本書の主張である。
 イタリア人のようになろう。不景気だろうとなんだろうと、呑んで、歌って、恋をして、人生をエンジョイしよう。恋愛のドキドキ感をとりもどせ、サラリーマンよ、恋をしよう! 命短し、恋せよ!サラリーマン!
 そんなこといったって、リストラされたらどうするの?
 会社からリストラをせまられたら、安易に応じないこと。数年先に定年で早期退職勧奨という場合以外には応じないことである。
 しかし、リストラをせまられる可能性はいまやほとんどサラリーマンにあるのだから、それに備えておくことは必要である。まず仕事の不倫、すなわち副業である。かならずしも収入に結びつかなくてもいい。自分の好きなことを余暇でやってみることである。仕事帰りの赤提灯での上司の悪口など、非生産的な時間がサラリーマンには多い。時間はあるはずである。
 副業は自分の視野と人脈を拡大させる。
 サラリーマン人生の三大不良債権というものがある。専業主婦と子供とマイホームである。これをもたずに人生を送るのが理想である。
 まず、専業主婦をもっているサラリーマンは即刻妻を働きに出すべきである。これはリストラのリスクヘッジにもなる。
 子供をもたず、妻を働きにだすならば、生涯の可処分所得は1億円増える。
 子供は塾になど通わせない。いい学校、いい会社という神話はもはや崩壊している。
 マイホームが一番困るが、ローンをかかえているなら、それを誰かに貸し、それで家賃をローン返済にあて、自分は親の家に転がり込むという手もある。マイホームは、終身雇用と年功序列を前提としていた。もうそういう時代は終わったのである。
 とにかく身軽になり、好きなことをする人生を目指していこう!

 以上、森永流ラテン系でいこう!であるが、
 多分、その前提には、欧米風の労働観、労働は賃金をえるための苦行であるというのがあるように思う。しかし、多くのサラリーマンにとって仕事は苦行ではなく、自己実現の場、生きがいになっている、それが問題なのではないだろうか? だから仕事などという苦行をやめて自分の好きなことをしようなどといわれても、きょとんとしてしまうのではないだろうか? 仕事がないときには、テレビなどを見てボーっと虚脱しているのである。
 そして会社にとっても、仕事のことにしか関心のない、仕事が生きがいという人間が重荷になってきているのである。もっとさまざまなことに関心をもち、視野の広い人間が必要になってきているのである。そして、森永氏のいうビンボー人のほうが会社にとっても必要な人間なのかもしれないのである。
 もちろん、ビンボー人は上位1%の階層には入らないかもしれない。しかし、会社にしか関心がなく、会社が生きがいであるという人間よりも、会社にとっても好ましい存在である可能性もある。
 仕事からの逃避ではない本当の好きなこと本当に打ち込めるものをもっているひとというのは実は有能な人間なのであり、仕事をさせても有能なのではないかというのが本書を読んで感じた一番の疑問である。

 森永氏はハゲタカファンドが日本を襲うという陰謀史観的見解を披露している。この森永氏の著書も、その能力もないのに会社にしがみついている困ったサラリーマンたちに、もっと会社以外に目をむけさせたい、リストラが進む現状をやむをえないものとして受け入れさせたいという会社側の陰謀に「暗黙のうちに」共謀する結果になっているようにも思われる(「チーズはどこに消えた」というのは明らかにそういう本であった。世の中は変ったのだから、過去をなつかしんでばかりいないで、新しい変化をうけいれる人間になりなさい、という本であった)。
 森永氏はコレクターとしてはその道に知られたひとであって、ミニチュアカーのコレクションは2万台以上あるのだそうである。将来の夢が沖縄に「おもちゃ博物館」をつくることがそうで、そのための費用1億円をかせぐために営々と働いているのだろそうである。 
 自分の好きなことをもち、それを実現するための手段をもつ有能な人間である自分を基準にして、他の人間もそのようであれかしとしているところがあるように思う。
 もちろん、好きなことをやって年収300万円に甘んじているひとはいるであろう。その人は幸福なのであろう。しかし、日本中がそういうひとたちばかりになっても困るように思う。
 もちろん、森永氏がこういう本を書いたからといって、日本がどうなるというものではないから、会社から見捨てられつつあるのに、それと気がつかずに会社と心中しようとしている多くのサラリーマンへの警告としてこういう本を書いているのであろう。
 労働というのは他人の必要に応えることである。仕事があるということは、その人が誰かに必要とされているということである。好きなことというのは、誰がなんといおうと自分が好きなことであって、他人の必要とはかかわらない。それが問題なのだと思う。
 誰にも必要とされていない状態で、人間は幸福でいられるかというのが根源的な疑問であろう。個人主義がいわれるようになっても、会社という共同体の力があまり落ちないのは、今の日本で、他人との関係という場を提供できるのが職場以外にほとんどないからなのであろう。
 これからの時代に「個人主義」が必要とされることは間違いないとしても、人間は「個人主義」だけで生きられるのかというのは、これからのきわめて大きな問題であろう。