オスカー・ワイルド「まじめが肝心」西村孝次訳

 [新潮文庫サロメウィンダミア卿夫人の扇」所収 昭和28年4月10日初版]

 なんでこんなものを読んだかというと、graded readers の中に、これの焼き直し簡約版があって、それを読んでも内容がよくわからなかったからである。あとのgraded readersは内容がわからないということはなかったのに、これだけがわからなかった。
 それで翻訳を読んでみて、ようやく筋が理解できた。架空の人物が現実の存在になったりするふざけた話で、出てくる人物もすべて劇のなかでしかでてきそうもないものばかりである。その究極がアーネストという名前の男を愛そうという思い込みをもっているグェンドレンという娘である。Earnest という架空の名前の男を必要上でっちあげた男と、Earnest という名前の男を愛することを決めている娘のやりとりが筋を運んでいく。
 それで最後が、For the first time in my life I understand the Importance of Being Earnest. という台詞で幕を閉じることになる(ワイルドのもとの戯曲でも、ほぼ同じ台詞になっているのではないだろうか?)。これはその前で、もっとserious にならなければいけない、といわれたことへの返答なのだが、「はじめて、まじめが肝心であるとわかりました」と訳したのでは面白みがないので、「Earnest という名前であることが大事なんだということがよくわかりました」という裏がでてこない。つまり最後まで主人公は「まじめが肝心」などとは思っていなくて、不真面目なままでありながら、「まじめが肝心」などといっているという落語の落ち的な面白さが全然でてこない。どうも、この戯曲は翻訳したのでは面白さが全然伝わらないものであるようである。
 ワイルドというのは才子なのだなということはよくわかった。Well made play というものの一つの原型がここにあるのかもしれない。こういうものを読むことはgraded readers を読まなければまずしなかったと思う。そういう点でも、graded readers を読むことは無駄ではないのかもしれない。