酒井邦秀「快読100万語!ペーパーバックへの道 辞書なし、とばし読み英語講座」

 [ちくま学芸文庫 2002年6月10日初版]

 またまたこんな本。「ビッグ・ファット・キャット」の路線であるが、さらに易しい本の多読をすすめている。
 ネイティブ以外の英語勉強者のために、主としてイギリスの出版社、ペンギン文庫やオクスフォード、ケンブリッジなどから graded readers という読み物がでている。使用単語を限って gradeによって段々それを増やしていく構成になっている。はじめの grade などでは基本使用語が400語くらいであるから、すらすらと読める。それを10冊、今度は700語のものを十冊、さらに千語のものを十冊というふうにやって、100万語も読めばペーパーバックなどはすらすらと読めるようになります、というのが主張である。
 一冊の単語数が5千語から2万語くらいだから、そういうものを百冊くらい読めということになる。早速少し実験をしてみた。たしかにすらすらと読める。始めの grade では一冊50頁くらいで、活字が大きく挿絵も多いから30分くらいで読めてしまう。それで5日間で20冊くらい、約10万語くらいが読めてしまった。これから grade があがってくれば段々すらすらとはいけなくなるかもしれないが、いくらやさしい本とは言え、ほとんど日本語の本なみの速度で読めるのはなかなかいい気持ちのものである。もうしばらくやってみようかと思う。
 問題は graded readers が内容が興味深々とはいえないことで(「ビッグ・ファット・キャット」の推薦図書はみななかなか面白く、それなりに内容のあるものが多かった)、やはり限られた単語数では表現に限界があるということかもしれない。そのなかではオックスフォードのノンフィクションものとケンブリッジの創作物が比較的面白く読める。
 問題はめでたく100万語を突破してシドニーシャルダンなどが問題なく読めるようになるとして、われわれが英語を学んでいるのは、それが目的なのだろうかということである。著者は受験英語に徹底的に批判的で、著者の批判は一々頷けるものばかりであり、その主張どおり辞書なしで本を読むのは気持ちがいいが、それでも辞書をひきひき読まなければいけない本もあるのはないかという疑念は消すことができない。
 実は思うところがあってヒュームの「Selleted Essays 」をしばらく前から辞書を引き引き(1ページに10〜20語くらいわからない単語がある)読んでいるが、一ヶ月かかってもまだ半分も終わらない。日本がいくら翻訳王国だといってもちょっと専門的なものや時流からはずれたものは翻訳されていないし(ヒュームのエッセイ集は岩波文庫の「市民の国について」とかなりの内容が重なることがあとからわかった。しかしこの翻訳は、「ですます体」のかなり癖のあるものである)、そういうものに関心をもったら辞書をひきひきでも原語で読むしかないという事情があって、日本の英語教育というのはそういう事態を想定しておこなわれてきたのではないだろうか? そしてそういう事態に直面するひとは日本人のなかでもかなり少数であるのは事実で、英語教育は大多数の人間にとっては無用ものであったというのが日本の現状なのであろう。

 なんとかキングを原書で読みたいというのが私の願望なのであるが(まだ未訳のものが少なくとも3〜4冊あるはずである)、それはいつか叶えられるのだろうか?