E・O・ウイルソン「知の挑戦 科学的知性と文化的知性の統合」

  角川書店2002年12月20日初版


 「社会生物学」で一世を風靡した?ウイルソンの近著。
 人間は進化の産物である動物の一つの種であるということには多くの人は異論はないであろうが(とはいっても、アメリカではファンダメンタリストが五万といて、聖書に書いていることは一から十まで本当だとするひとが相当多数あるいは過半数?いるらしいから、ウイルソンもそれに随分と気を使って書いているが)、しかし人間の行動が、進化の過程で残ってきたさまざまな動物としての性質の影響をどの程度こうむっているかについては、議論がわかれるところであろう。
 人間の行動の大部分は文化的なものであって、動物としての制約はうけていないとするものも多いであろうし、そこまでいかなくても、確かに臍から下の問題はなかなか難しいが、それを頭で制御するのが人間の人間たる所以である、とするような見解は比較的多いのではないだろうか?
 あるいは本能によって行動できる人間以外の動物は健全であって、本能によって行動できなくなっている「本能のこわれた」動物である人間は「狂った動物」なのであるというような主張も多くなされている。
 ウイルソンは「社会生物学」で蟻の社会が生物としての条件に規定されているのと同様に、人間の社会もまた人間の生物としての条件に規定されているのだという主張をして、多くのひとの顰蹙をかった。
 ウイルソンは本来は昆虫学者・蟻学者なのであるが、蟻が蟻の社会を形成するのは蟻が文化的に社会構成を受け継いでいるのではなく、まったく遺伝的・生物学的に社会を形成しているのと同様、人間の場合も人間が進化の過程で獲得し自身の中に残してきている様々な生物学的な因子によって、われわれの社会は規定されているのだと主張した。
 通常われわれの文化や制度を研究する人文科学においては生物学が考慮されることはない。しかし、それが現在の人文科学がいきづまっている原因なのであり、人文科学と生物学の統合こそがこれからの緊急の課題であるということをウイルソンは本書で主張している。

 第一章は「イオニアの魔力」と名づけられている。イオニアの魔力とは「科学の統一を信じること、世界は整然としてわずかな数の自然法則で説明できると深く確信することを指す」のだそうである。この起源が紀元前6世紀のギリシャに起因することはよく知られているが、ポパーもいうように、そのような考え方が生じたというのは、説明することが本当には不可能な奇跡のようなものなのかもしれない。
 第二章の「学問の大きな枝」では、自然科学と人文科学の統合こそがつねに偉大な精神の課題であったとされる。
 第三章の「啓蒙思想」では、この統合の夢が17世紀から18世紀にかけての啓蒙思想においてはじめて花ひらいたことが主張される。
 フランス革命の30年前にJ・J・ルソーは「社会契約論」のなかで、「自由・平等・友愛」という概念とともに「一般意思」という概念をも提唱した。ロビエスピエールの恐怖政治はその忠実な実行である。ルソーは啓蒙思想家であるよりも、ロマン主義哲学運動の創始者であった。
 現在のポストモダニズム啓蒙思想の対極である。啓蒙思想家は、人間はすべてを知ることができると考え、ポストモダニストは人間は何も知ることはできないとかんがえる。
 第四章「自然科学」
 今日の人間社会にある最大の境界線は、科学文化と科学以前の文化の間にある。
 人間を進化の面から考えるとき、最大の問題はわれわれのもつ能力は生き延びるための必要を超えて発達したのかどうかということである。自然選択は、脳をこの世界で生き残るために作ったのだが、脳はその必要以上に世界を理解できるようになったのではないか?
 複雑さへの愛は還元主義をともなえば科学にいたり、ともなわなければ芸術にいたる。
 自然科学的思考はなぜか、たまたま西欧ではじまった。
 現在にいたるまで科学は、われわれが一番大事であると考える「こころ」について、その物質的基盤については、何も発言できないできた。それが、科学への信用を失わせた。
 第五章 アリアドネの糸
 生物学は物理学よりはるかに複雑で、芸術は生物学よりさらに複雑である。
 ある細胞のふるまいを、物理化学法則から予言することはほとんど不可能である。
 複雑なことを単純なことから予測することはできない。複雑なことを単純なことに分解して理解することはできる。芸術作品から生物学を研究することはできないが、生物学から芸術にアプローチすることは不可能ではないかもしれない。
 フロイトは夢についての説を提示し、後世に大きな影響を与えたが、それは大部分誤謬であった。それは最近の夢についての研究と整合性がないからである。
 第六章 心
脳は進化から見れば、脳自身を理解するための装置ではなく、生存のための装置である。生存のためには脳が自分自身がどのように働くかを知る必要はない。客観真理より、神話や儀式などのほうが適応上は有利であったのである。
 全般的意識は「やさしい問題」である。主観的経験は「むずかしい問題」である。これはわれわれがミツバチが磁力を感じているやりかたや、電気魚が電場を感じているということがどんなことであるのか本当には知ることができないことの反映である。われわれは彼らのように感じることはできない。科学は感じを説明するが、芸術は感じを伝える。
 第七章 遺伝子から文化へ
 われわれは進化の過程で脳に残されてきた後生則の支配のもとにある。ヘビに恐怖を感じるのは文化的なものではなく遺伝的なものである。われわれは文化を伝承するが後生則にも規定されている。
 第八章 人間の本性の適応度
 戦争は遺伝子と文化の両方から生じる。
 ウエスターマー効果といわれるものがある。これは幼児期に近い関係にあったものとの交配を拒否する傾向をいう。観察されている霊長類はすべてこの傾向を示す。人間でも確認されており、イスラエルキブツでも実際に観察された。これはインセスト・タブーの生物学的背景を説明するものであり、フロイトエディプス・コンプレックス説を否定するものである。
 第九章 社会科学
 社会科学者はおしなべて素朴心理学レベルの心理学で学問をしている。かれらは自然科学の成果を無視しているのである。
 文化相対主義はその結果である。文化人類学者はすべての文化は同等であるという。しかし、神権政治植民地主義奴隷制がいけないのはなぜなのか?
 経済学には、ニュートン信奉というなんでも説明できる単一法則への過剰な期待がある。人間の複雑さというものを理解していない。その結果理論としては一貫性をもつが、現実を説明しない理論が生まれる。経済学者は人間は合理的選択をすると仮定する。生物学的な後生則を理解していないのである。愛国心や利他心を経済学的にどう説明するのか?
 合理的選択よりも満足化という概念のほうがよほど現実にあっている。結婚年齢の男性は最適の女性を合理的に選択するのではなく、身近にいる女性のなかで一番魅力的と思う女性を選ぶのである。
 第十章 芸術とその解釈
 西洋文学は新古典主義ロマン主義の間をゆれている。
 第十一章 倫理と宗教
 超越主義者:道徳の指針は人間精神の外に存在する。
 経験主義者:道徳の指針は人間精神の産物である。
 ジェファーソンの「われわれは以下のことを自明であると考える。人間はすべて平等に作られ、創造主によって奪うことのできない一定の諸権利を与えられている」というのは超越主義の典型である。
 もし超越主義が正しいのなら、自然科学と人文科学の統合は絶望であり不可能である。
 超越主義者は精神的に充実しているようにみえる。人類の精神は神を信じるように進化してきたからである。
 第十二章 行き先
 これは最近のウイルソンの関心の中心にある環境と種の多様性の擁護の議論であり、全体とのつながりがはっきりしない。

 芸術から宗教倫理までを進化と生物学とのかかわりでかたろうというのであるから気宇壮大なこころみである。いろいろな分野の知識を渉猟している努力は大変なものである。
 しかし西洋の人間の議論であることをつくづくと感じる。
 キリスト教の神の観念と、神が人間を動物とは異なるものとして作ったという観念を相手に格闘している。われわれ東洋人には、ご苦労様という感じが強い。
 ウイルソンがいっていることはすべて間違ってはいないのであろうが、解説者も言っているように、それはあくまで頭での理解としての正しさである。日々の生活で実感できるものとしての正しさではない。それはまさにウイルソンがいうように、進化の過程でわれわれの脳は、理性的理解よりも実感に頼ることで生き延びてきたからなのである。