岩井克人 「資本主義を語る」

  ちくま学芸文庫 1997年2月10日初版 原著1994年刊


 雑文集+対談。
 これを読むと「会社はこれからどうなるのか」での岩井氏の議論は長年の論考の上になりたっているものであることがよくわかる。

 アダム・スミスが批判したのは商業資本主義的「重商主義」であった。重商主義とは、外国との貿易で得た利潤を溜め込むことが国富であるとするものであった。スミスはそうではなくて、産業資本主義であり、人間の労働こそが国富を生むとした。「差異の原理」→人間中心主義的「労働価値説」
 しかしポスト産業資本主義社会においては、再び「差異」が全面にでてきて人間が後退してしまう。これは一見「重商主義」時代への逆戻りのように見える。
 実質賃金率:単位労時間あたりの賃金/消費者物価
 労働生産性:生産された商品の総量/労働時間
 産業革命から最近まで、実質賃金率<労働生産性であった。
 実際には産業資本主義とは、この差を利用して利潤をえるのである。やはり「差異」を利用している。
 そうであるなら、資本主義の歴史の中で人間が主役であったことは一度もなかったことになる。

 進化論は経済学と通じるところがある。「見えざる手」は進化論における「自然淘汰」と通じる。
 もし自然淘汰万能説を採用するなら、それは現在の世界が最適な世界であることになり、結果的には神が世界を予定調和で創ったという調和説・決定論に通じてしまう。
 同様に「見えざる手」が万能であるならば、この世界は最適な世界であることになってしまう。
 「見えざる手」が働く余地があるということは「非効率」が存在するということであり。もし「非効率」が存在するなら「理性」をもつ人間はそこにつけこんで利潤を得ようとするであろう。それにつけこむ有能なひとが生き残るという社会ダーウィニズムである。
 もしもすべての人間や企業が自己の利益を最適化しようと行動していくと、システムは維持できなくなっていくことを経済学的に証明できる(岩井氏の仕事?)。しかし、システムがそれなりに安定的であるとすれば、それは「見えざる手」がすべてではないことを示している。

 古代的な共同体においては、モノにはそれまでそれを所有していたひとの霊魂が宿っていると考えられている。モノはヒトから分離していない。しかし共同体のなかに貨幣が入ってくると、モノがヒトから分離する。
 ミルトン・フリードマンは企業の社会的責任などはないと言い切る。企業の存在理由は利潤を生み出すことであるとする。しかし、日本には企業の社会的責任という立場が一般に通用する土壌がある。
 日本の(一時的な?)資本主義的な「成功」は、資本主義と近代の市民社会(自立した個人が自分の運命は自分で決める社会)とが必ずしも一致しないことを示した。

 近代の合理主義がいくところまでいくと機械に支配される恐ろしい世界になるという考えがある。「フランケンシュタイン」である。人間が自分の生み出したものに復讐される、自己疎外である。ロマン主義はそれへの反動である。
 高度成長期の日本を西欧が見る目は、(かつてのユダヤ人・・・髪の黒い東洋人とみられていた・・・に対するように)「フランケンシュタイン」であった。西欧的にいえば「機械」とは魂がないということである。
 西欧的にいえば機械文明とはその先のさらに高いステップのための過程でなければ意味がない。
 西洋人は自分は「人間」であるという普遍性を発見した。それと対立するものが「自然」と「フランケンシュタイン」。
 「人間」の原型はロビンソン・クルーソー。自分を自分ですべてコントロールして合理的に行動できる人間。それと対立するのが平家物語の「俊寛」。共同体からきりはなされると人間性が崩壊してしまう。大塚久雄らの近代主義者は日本の敗戦は日本人が俊寛であったからだと考え、日本人全体がロビンソン・クルーソーにならねばならないと考えた。
 このコントロールができないものは「動物」か「機械」。
 西洋人は自分たちを人間だと思っている。日本人は自分たちを日本人だと思っている。

 ハイエクはフランスの啓蒙主義者、合理主義に反対する。それらは「大文字の合理性」であるとした。ハイエクによれば、市場は個人を超えた合理性をもっているから(一種の恩寵論?)、個人はあまり合理的に行動しなくてもいいことになる。それが自由ということになる。

 (柄谷行人):ハイエクの考える「自由主義」はほとんどアナーキズムである。
 「弁証法」とは「始まり」が「終り」に規定されるような関係をいう。
 「自然法」と「国法」:貨幣の成立は自然法の成立に近い。
 「信用」は信仰に近い。しかしむしろ順序は「信用」が先であり、ユダヤ一神教は「信用」を宗教の形であらわしたものではないか?
 ユダヤ教は神が人々を選ぶ。通常は人々が神を選ぶ。
 日本の企業では契約という観念がない。労働は一種の贈与、どこかでお返しを期待した贈与なのではないか? お返しは金銭ではなく、会社に帰属している喜び、会社のために尽くしている喜び、そのこと自体がお返しになっている。
(岩井):従来の日本批判①階級史観からのもの、②大塚久雄丸山真男らの近代化論・・・これは資本主義の発達と市民社会の発達を同一視していた。市民社会の発達は資本主義に期待するのではなく、18世紀的な啓蒙主義に期待するしかないのかもしれない。

網野善彦):マルクス主義的な生産力史観は結局農本主義だったのではないか?

 最後の水村美苗との対談は変で、二人は夫婦なのだろうか? あるいは少なくともパートナー? She is my best partner, who happens to be my wife. というのはたしか梅棹忠夫氏が奥さんを紹介するときの台詞なのだけれども・・・。

 以上読んでいて、歴史を非常に巨視的に見る見方が随所にあり目から鱗の部分がたくさんある。
 それにしても、柄谷行人との対談など、スピノザとかライプニッツとかカントとかヘーゲルとかがまったく当たり前のようにでてくる。こういう思想家が実感として理解できていないといけないのかなあと思う。
 たしかフーコーだったかが吉本隆明のある論文を読んで「こいつは本当にヘーゲルをドイツ語で読んだことがあるのか?」といったという話があるけれども、こういうのを原書で読んでなければいけないのだろうか? 翻訳でさえ読んでいない(読みかけたことはあるが、もうまったく自分の問題とどこでどうつながるのか見当もつかなくて、読み通す動機がまったく存在せず、最後までたどりつけなかった)。困ったことである。
 しかしこの本などを読むとちょっととっかかりが見えてきたようにも思える。もう一度挑戦してみようか?