スティーヴン・キング「ドリームキャッチャー」

  新潮文庫 2003年3月1日出版


 なんだかキングも衰えたなあという感じがする。傑作「アトランティスのハート」の次に発表された長編小説であるが、その間に九死に一生を得るような交通事故にあっている。その経験は主人公の一人の設定にも反映しているが、それによって何かが変わってしまったのだろうか?
 読んでいくとああこれはあの話、これはこの話というようにキングの過去の作品が次々に思い出されてくる。「IT」「シャイニング」「ペット・セマタリー」「トミー・ノッカーズ」「スタンド・バイ・ミー」「グリーン・マイル」・・・。しかし、それらの作品を支えていた主人公の魅力がこの作品にはない。また「IT」[スタンド・バイ・ミー」「アトランティスのハート」などの魅力であった少年時代を描く詩情のようなものも枯れている。
 異星人の地球侵入と地球防衛のためそれに立ち向かう中年四人組というのが、物語りの枠組みなのであるが、語りたかったことがどうしても物語の枠組みの中では果たせなかったとみえて、エピローグにおける主人公たちの会話の中で、かなり直接的かつ露骨にテーマを語るという小説としてはルール違反のようなことをしている。
 「すべてがかくかくとなっているのは、そうなる偶然の集積とみえるかもしれないが、実は必然の産物なのだ」、下世話にいえば、すべて世の中なるべくして今のなるようになっているのだ、という話であって、今西進化論と宇宙物理学でいう「人間原理」(もしも今の宇宙の状態が偶然の産物であるとすれば、過去に宝籤で何回も続けて大当たりを引いたようなありえる筈のないくらいの偶然でしか説明できない。そうであるとしたら、現在地球という惑星に人間という知的生命体がいることは奇跡としかいいようがない。とすれば、宇宙はわれわれのような知的生命体を生むようにプログラムされているしか思えない、というような話)との混交のような話である。そして「人間原理」を受け入れれば、その発現の中に神を見る、というところまではもう一息であることになる。
 どうして西洋の人間はかくも神なしですますことができないのだろうか? なにしろこの小説の主人公は人類を救うための英雄たらんとするのである。自分がそのように役割として選ばれてしまったからには・・・。
 誰かが「ハリー・ポッター」の骨格にある「自分が選ばれてあること」への目覚めというのが西洋の病根なのだといっていた。
 「選ばれてあることの恍惚と不安」というのはヴェルレーヌだっただろうか?
 考えてみればユダヤの神様というのはとんでもない罪作りをしたものである。
 アメリカとイラクの戦争の背景にそれがあることはいうまでもない。世界を代表して悪を討つアメリカ・・・。「アトランティスのハート」を読んでも、ベトナムの経験からキングがそういう発想に辟易していることは明らかなのだが。人間が感情の動物であるということがわれわれの不幸(とそして栄光)の根源であるとキングがしていることは明らかで、そのためこの物語では異星人は植物のような知的生命体、感情を(そして感覚も)もたない知的生命体として設定されている。それが人間に寄生して次第に人間が感じる感覚と感情に快感を感じるようになっていくあたりがこの小説の一番面白い部分だろうか?
 しかし、知性とは中枢神経系の産物であり、中枢神経系は末梢神経系からの入力がなければなんら機能しないのであるから(中枢は末梢の奴隷・・・養老孟司)、植物のような知的生命体というのはそれ自体が矛盾であるとしか思えないのだけれども・・・。