山口宏「離婚の作法 終りなき男と女の紛争劇」 

  PHP新書 2003年3月28日 初版


 弁護士が書いた離婚についての本。離婚についての紛争に弁護士としてつきあってきて、馬鹿馬鹿しくてやっていられない!、一体日本はどうなっているのだ!という憤懣と憂国の書。

 男は男女関係は「文明の所産」であると考えている。女はそれは「本能」によると考えている。
 日本の文明としての男女関係は昭和30年代後半を境に変質した。
 昭和30年代後半までは、男にとって結婚は人生の一つの通過儀式であり、まあまあ稼げるようになった人間が当たり前にしなくてはいけないことであり、結婚したあと、もっと稼げるようになれば妾を囲うのが定石であり、そこで生じる女たちの嫉妬をさばくのが男の器量であり、そういう波風の中から家長としての風格が生まれてくるのであった、なんてことをかなり本気で書いているらしいから、こういう本をウーマン・リブのひとが読んだらどうなるか考えただけでも恐ろしい。著者は勇気のあるひとである。
 しかし現在では、男は給料を全額妻に渡し、家では煙草はすわず(すえず?)、へべれけになるまでは呑まず、食後にはサラ洗いの一つもする。しかしこれは男がしたくてしているのではなく、女の要求だけによって生まれたものである。
 夫婦像というのが文明の産物なのである。
 では現代の文明とは何であるかといえば、「官僚主義」なのである。伝統ときりはなされた決まりごとによってみんなが自己主張する社会なのである。昔は夫としてするべきこと、妻としてしてはいけいないことは伝統のなかでおのずと決まっていた。
 しかしそんなものはとうにどこかにいってしまった。そしてそれに代わるものが「法律」なのである。「もう我慢できない」「いや!」というのは感情であるが、それを「わたしには自由に生きる権利がある」「厭な環境を拒否する権利がある」というようになると・・・。
 しかし「法律」は伝統に依拠したものではないから、深くわれわれを納得させるものをもたない。
 たとえば「内助の功」というものがある。
 独身のビジネスマンが結婚したからといって、妻の存在が彼の仕事をより充実させるというようなことがあるだろうか? そんな実感をもっている男はいないだろう。ところが法律では、婚姻届を出した途端に、男の稼いだお金の半分は妻の功績ということになるのである。したがって離婚したら、その「内助の功」の部分は妻にかえさなければいけないのである。このルールに納得する男はいない。本当は女だって納得はしていない。それにもかかわらず、女が離婚にさいしてお金を要求するのは、お金を運んでくる男がいなくなったのだから、「私の生活はどうしてくれるの!」ということなのである。この要求は伝統的世界にもあった至極もっともな要求である。だから離婚の際にまとまったお金を男が女に払うこと自体はほとんどのひとが納得できることなのである。しかしそのことと財産分与という制度を支えている「結婚した途端、旦那の稼ぎの半分は妻の功績によることになる」というルールは別なのである。そして誰も納得していないこのルールが現在では唯一のルールになってしまっているのである。「わたしはこれから生活が大変だからお金が欲しい」、それは正しい要求である。しかし内助の功によって財産分与を請求する権利があるというのは? 魂の叫びがなくて、理屈だけがあるということでいいのか?
 昭和30年代までは、江戸時代以来の文化的遺産をうけついだ規範と明治以来の外来の輸入品としての法体系の二重構造になっていた。それが高度成長期移行、江戸以来の規範が急速に崩壊し、誰も本心からは納得できない「法律」だけが残ってしまったのである。
 昭和30年代まではなんとか夫婦関係を維持させようとした。現在ではすぐにわかれさせようとする。どちらが文明的なのか?

 ということで著者は怒っているのである。
 中ほどで渡辺京二氏の「逝きし世の面影」が感動をもって紹介されている。この本は江戸末期に日本にきたヨーロッパ人の日本への感想を集めたものであるが、当時の西欧の人間は異口同音に日本の庶民がみな幸福そうな顔をしていることに驚嘆しているのである。世界中どこにいっても日本の庶民ほど幸福そうな人間はいないといっているのである。この渡辺氏の本はまことに素晴らしい本であるが、異端の思想家としての渡辺氏がたんに昔はよかったなどということでこの本を書いているわけではなく、いわばヨーロッパのもつ根源的不幸に対するものの一つとして江戸末期の日本像が提出されているわけである。ドストエフスキーのスラブ、ロレンスのいう未開人などと対応するものとしての像である。日本でいえば石牟礼道子氏の世界。それらは、圧倒的な西欧の力を前にしてもう絶対にもどってこない、しかしそこにこそ真実があるのだという緊張感に支えられてはじめて成立する話なのである。どうも山口氏の話は昔はよかったという範囲を超えていない。
 ことろで「逝きし世の面影」にかぎらず、そのころ日本にきた西欧人が一応に驚嘆しているのが、その当時の女性の純潔観念のなさである。少なくとも庶民の世界においては、そんな観念はかけらもなかったのかも知れない。ここらは網野善彦氏の著作でもしばしば指摘されているようである。
 そして明治初期において日本の離婚率がきわめて高かったことも事実のようである。女性が我慢できなければ簡単に離婚していた。
 明治期以降西洋からキリスト教的文化が流入し、それとは別に、兵隊さんに安心して戦争にいってもらうため、戦後になれば企業戦士に安んじて朝から晩まで仕事に専念してもらうための官製イデオロギーとして「女性の貞操」ということが強調されだしたのであり、それはもともと日本の文化に根ついていない付け焼刃であったのであり、今われわれは江戸期の本来の文明にまた戻りつつあるというという側面もあるのかもしれない。
 どうも山口氏は昭和30年までの文化というのを美化しすぎているような気がする。