養老孟司 「唯脳論」(1)

   ちくま学芸文庫 原著は1989年初版

 
 養老氏の「バカの壁」がバカ売れしているらしい。養老氏が以前から言っていたことが書いてあるだけであり、とくに目新しいことがあるわけではないのになぜか急に売れている。ベストセラーというのはそういうものなのかもしれない。それで本屋に山済みにされている「バカの壁」のとなりに本書がおいてあった。原著がでたときに読んだはずなのだが、あらためて読み直してみた。ずっと前に「吉田健一の医学論」という文を書いたことがあって、要するに文科系の医学論といったものなのだが、この養老氏の論のまわりをぐるぐるとまわっていただけなのだなあ、という気がする。
 養老氏によれば文科と理科の掛け橋となるものが「脳」なのである。

 以下順をおって読んでいく。

 1)唯脳論とはなにか
 酒が肝臓にあたえる影響には脳はほとんど関係しない。しかし人が酒をのむのは脳のせいである。
 脳は身体のひとつの器官であるから、他の身体の器官と同様にその働き方には法則性があるはずである。ヒトの活動はしたがって脳の法則性に規定されているはずである。脳の法則性の観点からヒトの活動全般をみてゆこうとする立場を唯脳論と呼ぶ。
 ヒトは考え方の違いによって大喧嘩をし、ときには殺しあう。しかしその喧嘩をする双方ともに脳の法則性にはしたがっているはずである。唯脳論はその調停に道をひらく可能性がある。
 自然科学者は、考えているのは自分の脳であることをしばしば忘れる、あるいは無視する。そこから「客観性」が自分の外部・対象にあるとする。しかしあらゆる科学は脳の法則性の支配下にある。
 脳が小さい動物の研究をするのならば自然科学の手法のみでいい。そこにあるのは反射的な運動だけだからである。しかし、脳が大きくなると、シンボル機能をもつようになる。芸術や宗教がでてくる。人文科学がでてくる。しかし人文科学は言葉だけでなりたっているのに、言葉が脳の機能であることを忘れてしまっている。
 医学は文科と理科の間で立ち往生することが多い。それを結合させるのは脳しかない。
 これからしてゆく議論の前提は、ヒトの脳は形態学的には、つまり身体としてみると、ここ数万年変っていないという事実である。とすれば脳の機能もまたここ数万年かわっていないはずである。まして歴史がかかれたここ数千年で変っているはずがない。
 文科系は言葉万能←でも言葉は脳の機能でしょう!
 理科系は物的証拠万能←でもその証拠を証拠と思うのはあなたの脳でしょう!
 というところから文科と理科の間の溝をうめることはできないだろうか。

 ヒトがつくりだしているものは、ヒトの脳の投射である。
 理科系のヒトたちは真理は自分の外部にあると考える。自然科学の道具は数学である。では数学は自分の外部にあるのか? 数学を研究室で証明しようとするか? 数学とは脳の機能そのものではないのか?
 ヒトが何を考えるにしても、それは脳の機能形式にしたがうほかはない。数万年変化していない脳の機能とはどんなものか、それを探るのが唯脳論である。

 以上が最初の章。
 もしも地球に生命が生じず、その結果知的生命も生じず、地球が生命のない星であったとしても、宇宙はある法則にしたがって変化していくはずである。宇宙におけるある事実から、それを説明する法則を仮定し、その法則からはブラックホールというものの存在が予言され、そのあとからブラックホールが実際にみつかったというようなことがあった場合、それは真理が外部にあるということにはならないのだろうか? ある法則は人間がいようといまいと働くからである。
 宇宙のどこかに別の知的生命が存在したとしよう。その生命体の「相対性原理」理解はわれわれにはまったく理解できないはずである。なぜならその別の知的生命体の脳?の構造はわれわれのものとはまったく異なるから。
 われわれは数学をあるいは物理法則をわれわれの理解できるかたちで表現することができる。理解できるというのは脳の機能形式にかなうということである。数学はわれわれの思考形式のエッセンスでもあるのだろう。
 しかし、われわれに理解できないものは存在しないのか、ということを議論しはじめるとバークレイの観念論にいってしまう。あるいはカントの「物自体」。
  養老氏のこの部分の議論を読んでいると思い出すのが、ポパーのカント理解である。「果てしなき探求」の中でポパーは以下のようにいう。(岩波書店同時代ライブラリー版上巻p103)
 <科学的理論は人間が作ったものであり、われわれはそれを世界に押しつけようと試みる。−−「われわれの知性はその法則を自然から引き出すのではなく、その法則を自然に押しつけるのである」−−というのがカントの中心的な考えであると、私は間もなく判定をくだした。>
 わたしはカントの「純粋理性批判」に何回も挑戦してその度に挫折している人間なので、ポパーのカント理解の当否については何もいえない。しかしここを「科学的理論は脳が作ったものであり、脳はそれを世界に押しつけようと試みる。脳はその法則を自然から引き出すのではなく、その脳の法則を自然に押しつけるのである」とすれば、養老氏の見解そのものとなるのではないだろうか? 養老氏の主張は、カント哲学の変奏という部分があるように思われる。
 真理は外部にあるのではなく、脳の中にある、というのは、「われわれの外部にはある規則性がある。その規則性をわれわれに理解できる言葉、すなわち脳の規則性に合致した表現で表したものを真理と呼ぶ、ということなのであろう。しかしそもそも外部に規則性があるという信念をわれわれが持つのも、脳の機能形式が外部に規則性をもとめる構造になっているからだ、というのが養老氏の主張なのであろう。そのような脳の機能形式がなければ、われわれは外部の規則性を発見することさえできない、ということになるのだろう。しかしそこにはダーウインの進化論をトートロジーであるとして批判する立場−最適者が生き残るというのは今生き残っているものが最適者であったということで、何も言っていない−と同じ批判がおきる可能性がありそうである。われわれが・・・するのは何故か? それは脳がそのようになっているからである、というのは何かを説明したことになるだろうか? われわれの脳の働き方をまったく物理化学的なもので説明して、その物理化学的過程がわれわれの外部の認識過程と平行であるという証明がなされない限り、養老氏の説はトートロジーの嫌疑を免れることは難しいように思われる。

 2)心身論と唯脳論
 脳という物質から心がでてくる、そんなことはありえないという議論がある。脳をどのように分解してしても心などどこにもないではないか?そのような主張が多い。しかし、それが構造と機能の関連の問題であるとわかれば消失するはずの議論である。
 心臓は循環の基本をなす。しかし心臓のどこにも循環はない。心臓は「物」だが、循環とは「機能」である。心は脳の作用であり、機能なのである。「物」として見えないのは当たり前である。問題は、脳の場合は、ヒトは心については非常によく知っているにもかかわらず、脳についてはまだあまりよくわかっていないという点なのである。われわれは尿についてはよく知っている、と同時に腎臓についても非常によくわかっている。しかし脳の場合にはそうはいかないのである。
 もう一つ問題がある。「脳が脳を考える」という奇妙な性質があることである。脳が他人の脳について考えるのはどうということはない。しかし、脳は自分自身についても考えるのである。これを意識という。これは他の臓器ではありえないことであるし、(おそらく)一定以下の大きさの脳をもつ動物でもおきていないことである。
 さて人間が「構造」と「機能」をわけて考えるのは何故か? それはわれわれの脳がそのような見方をとるように構築されているからである。構造とは視覚にかかわるものであり、機能とは聴覚・運動系にかかわるものである。
 さてそれならば、死体は「機能」がなくなって「構造」だけになったものか?

 ここでの養老氏の議論の論点は二つある。「構造」と「機能」の問題と、「自己言及性」の問題である。「構造」が視覚系の問題であることはいい。問題は「機能」が聴覚運動系としていいかである。視覚は時間にかかわらず、聴覚は時間にかかわるとしていいのだろうか? もちろん養老氏は、この両者を厳密にわけているわけではなく、「構造」はどちらかといえば視覚系、「機能」はどちらかといえば聴覚系というのであるが。
 ここで養老氏が「構造」というときには氏の専門である「形態学」「解剖学」のことがどうしても頭にあるだろうと思う。ホルマリン固定された死体というのは時間がとまったものであり、それは「機能」をとめている。しかし、解剖学は固定された形態から「機能」を推定するためにおこなうものであろう。われわれは「機能」についても大幅に視覚に依存して理解している。たしかに循環は「機能」であろう。心臓をいくら切り刻んでも「循環」はでてこない。しかし、動脈を切れば血が噴き出す。それは眼に見える。問題は心が眼にはみえないことである。それならば心は耳には聞こえるか? われわれは心をどうやって知るか? あるいは猫や犬に心があると考えるかないと考えるか? それはどのような理由でか? それは他人が表出したものあるいは猫や犬が表出したものによってであろう。運動によってである。そして多くの場合、その運動を見て聴くことによってわれわれは心の存在を知る。「機能」は運動にかかわる。しかし運動は「視覚」「聴覚」両者によって理解されるのである。「視覚」は「構造」ばかりでなく、「機能」理解にも重大な役割を演じている。「視覚系」と「聴覚・運動系」を分けて議論する養老氏のやりかたは相当強引であり、かなり無理がある。それは後段で、言語を視覚と聴覚を(そして触覚)結びつけるものとして議論する布石でもあるからであり、仕方がない面もあると思われるが・・・。
 心身二元論の問題が、心と身体というのは一つのものをまったく違った視点から見ているのだということを忘れることによって生じるのだというという指摘はその通りであると思う。しかし心身症をそのような観点から扱えるかといえば大きな問題であろう。
 もう一つの「自己言及性」の問題は、おそらく論理学上の最大の問題点であるのだろうが(「ゲーデルエッシャー・バッハ」)、脳が自己言及的であることが、論理学の破綻を導くのか?、自己言及性そのものが論理学の隘路なのであり、あらゆる自己言及的言辞は破綻を免れないのだが、たまたま脳も自己言及的であるので、脳もまた一種の矛盾を避けられないのか、養老氏は前者であるというのだろうが・・・。
 論理学とりわけ数学がわれわれの脳の働き方を外部のとりだしたものであることは間違いないのであろうが、片方にゲーデルの「不完全性定理」があり、もう片方になぜかそういうものである数学が宇宙に適応できるという不思議があり、だからポパーのカント理解のようなものが生まれるのだろうが・・・。
 3)の「モノとしての脳」と4)計算機という脳の進化 5)位置を知る、は省略。

 長くなったので稿をあらためる。