養老孟司 「唯脳論」 (2)


 6)脳は脳のことしか知らない
 デカルトは cogito ergo sum 我思うゆえに我ありといった。これは「私は脳であり、脳は存在する」といったのである。デカルトの時代に脳の知識が十分であれば、そういったはずである。
 数学の規則は脳の規則である。ユークリッドの公理は脳のなかにそれと対応するものがあるから、われわれに理解できるのである。
 脳が脳の機能を知るということが最大の不思議である。
 言語はあるひとの脳内過程を外部に表出する。それを聴いた側が似たような脳内過程をもつ場合には「理解」ということがおきる。脳が脳を知る機能をアナロジーと呼ぶことにする。
 ヒトの脳は外界だけではなく、自分の脳に気がついてしまった。それは気がついてみたらそうなっていたのである。脳の細胞同士は近接しているから末梢神経を介さずともお互いを知ることが可能である。それが意識である。しかし意識の発生は進化の上で必須のものであったのかどうかは疑問である。単なる過剰・余剰であった可能性は高い。
 7)デカルト・意識・睡眠
 意識というのは不思議なものであるが、それは脳が脳のことを知るあり方とみれば、それほど不思議でないともいえる。
 「・・・が考える」という場合、・・・は脳で、考えるも脳である。cogito というラテン語が便利なのは、I think, Je pense ということが一語でいえる点である。
 8)意識の役割
 神経系には支配すべき末梢をもたない中枢は退化してしまうという法則がある。ヒトの進化の過程で脳が大きくなったのであるが、支配すべき末梢が増えたわけではない。それを解決するために神経細胞同士がつながりあうことによってそれぞれの末梢が増えたのではないか? そしてそのような神経細胞同士のつながり意識というものなのではないだろうか? ネオ・ダーウィニズムにおいては、外界への適応ということが決定的に重視される、しかしそのような外的な必然性だけでなく、機能の維持という内的な必然性もまた進化ではきわめて重要だったはずである。
 9)言語の発生 10)言語の周辺 11)時間 12)運動と目的論
 聴覚言語と視覚言語に関しては、聴覚言語が本来の言語であるという主張が多い。しかしある時代までは視覚言語がなかったのは単に技術的な問題なのではないだろうか? なぜなら、視覚言語発生前と発生後で人間の脳に変化がみられないからである。
 われわれが聴く言語と見る言語をともに言語と称していることは考えてみれば不思議である。視覚は瞬間にかかわり、聴覚は持続にかかわる。それが一つのものになることは不思議である。われわれが構造と機能をつねにわけて考えるのは、構造が視覚にかかわり、機能が運動にかかわる、そういうものを言語で統合する無理からくるのではないか?
 光は粒子であり波動であるというのは、人間の認識の無理を表しているのではないか? 粒子は視覚であり静止している、波動は運動である。どちらか一面からみれば、そうなる。
 「飛んでいる矢は止まっている」あるいは「アキレスは亀に追いつけない」という背理もここにかかわっている。
 構造主義とは視覚主義なのである。
 基礎医学では、解剖学は視覚主義、生理学は聴覚運動主義なのである。
 本来、視覚と聴覚とは別物であるのにそれを無理につないでいるため、心身論、構造と機能、粒子と波動といった逆理がでてくるのではないか? 
 脳の中で視覚と聴覚をつなぐことには必然性はなかったかもしれない。それは脳の都合でおきた。それができたときに言語が生まれた。
 視覚が関与しなければ時間は自然に流れるはずである。霊長類は哺乳類のなかで例外的に視覚系を重んじる。その無理がいろいろのところででてくるのである。
 風にゆれる葦というようなパッシブな動きではなく、動物の運動は目的をもつ。目的論は動物の運動から導かれてくる。

 13)脳と身体 エピローグ
 書いてみて自分が脳を論じる理由というのが、解剖学とは何か、という疑問から発したものであるということがわかった。
 脳は身体を制御する器官である。文明とは脳化である。脳化した社会は身体を禁忌とする。しかし、脳も身体の一部である。脳から身体性を排除するという極端なことが現在(の日本では)おきている。身体の思想をもたないからである。個人主義とは身体性の認知ということに過ぎない。それが日本ではきわめて弱い。
 自分が解剖学をやってきてつねに感じている「日本においては身体性はいまだに禁忌である」という理由を考えようとして、自分は脳のことを考えるようになったのである。

 読んできて、とにかく大変な問題をよく一人で論じているなあということを感じる。一つだけとりあげても哲学史上の大問題であるようなことをいくつもとりあげて一冊の本にしてしまうのだから大した力技である。

 ここでは、以下二つの問題を考えてみたい。
 A)数学とはなにか?
 1,2、3というような自然数概念は人間以外の動物はもたないのではないだろうか? 猫は「魚が二匹いる」とか「人間が三人いる」とかいうことは考えていないであろう。もちろん「魚が二匹いる」とか「人間が三人いる」とかいうのは言葉であるから、言葉をもたないものがそのような概念をもたないのは当然として、1とか2とか3とかの区別をしていることはないように思われる。
それについての厳密な実験は難しいであろうが、それはおいておいて、人間が自然数概念をもつことは確かである。それではわれわれが自然数概念をもてるのは脳の中に1、2、3・・・というものに対応する何かが存在するからなのだろうか? 自然数というのは1、2、3・・・というものが自然に存在するからである。しかし自然に存在するものは一匹であったり二本であったり、三人であったりであって決して1、2、3という数字自体ではない。1、2、3という数字自体がすでに抽象の産物である。人間は抽象的にものを考えることができる、その一つの系として数学があるのではないだろうか? 零という数は自然には存在しない。それはある時誰かに発見される。それをわれわれが発見できるのは零に相当するものが脳に存在するからなのだろうか? さらに負の数がある。自然数のなかである演算の規則ができる。10個あるりんごを3個食べれば7個残る。10−3=7 10個あるりんごを13個食べることはできない。10−13という事態は自然にはおきない。しかし演算の規則がどこでも通用するようにするためには10−13=という計算もできなければならない。負の数が必要になる。10個のリンゴを二人でわければ、一人5個づつ。三人でわければ、3個づつあまり1個。10÷2=5 10÷3=3余り1  しかし演算の規則の連続性を保つためには、10÷3=3+1/3という分数・有理数をつくらなければならない。二等辺三角形の対辺はすでに有理数でもあわらすことができない。√2という数が必要になる。無理数がでてくる。二次方程式がいつでも解をもつためには虚数が必要になる。
 それでは、負の数、有理数無理数虚数というものをわれわれが理解できるのは脳のなかにそれらと対応する何かがあるからなのであろうか? 
 脳の中にあるものは、抽象的なことを理解できる能力と論理的な一貫性とは何かを理解できる能力なのではないだろうか? 論理的一貫性と数学とはほとんどパラレルなのかもしれないから、数学とは脳の規則であるとしてもそれほどは間違いではないのかもしれないが、外界のある事象が数学の表現で示しうるということは、外界が脳の規則にしたがうということではなく、外界の事象をわれわれの理解できる言葉で表現しうるということではないだろうか? 数式も一つの言葉、非常に雄弁な言葉なのである。不思議なのはわれわれが外界が理解できるということであり、外界の事象がある規則性をもっているということなのである。
 ユークリッド幾何学も非ユークリッド幾何学もそれぞれの体系内で一貫性をもつ。しかしユークリッド幾何学はわれわれの視覚の直感に合致するのに対して、非ユークリッド幾何学は直感しづらい。それは曲面の幾何学を直感することが困難なためで、われわれの視覚は平面を理解しやすい脳の構造に対応しているのかもしれない。そうだとすればわれわれの脳の機能に対応しているのはユークリッド幾何学だけであり、非ユークリッド幾何学はその延長としての論理的一貫性だけで脳とかかわることができるのかもしれない。

 B)視覚系対聴覚・運動系
 情報の入力と出力ということを考えれば、視覚も聴覚も入力系であり、一方運動は出力系である。それを視覚は瞬間にかかわり、聴覚・運動は時間の流れにかかわるので、それらが対立するとするのはかなりの無理があるように思われる。
 写真は瞬間をきりとる。しかし動いているものを見ているとき視覚もまた時間を見てるのではないだろうか? 
 あるいは何もみていなくて何もきいていないときでもわれわれには時間を感じとれるのであるから、聴覚とは別ななにかがそこにあることは確かであると思われる。
 時間感覚というのは、視覚・聴覚とは独立した別の感覚なのである。
 猫があるものが落ちてきたのを見、それが壊れて大きな音をたてるのを聞く。その場合、猫は目でみているものと耳で聴いているものをまったく別々の現象であると思っているのであろうか? かならずそれは同一の現象であると理解しているはずである。視覚と聴覚を結びつける機構は人間以外の動物においてすでに成立しているはずである。
 言語が聴覚言語からはじまったことは確かであろう。しかし人間が「木」という言葉を得たとき、「き」という音と対象である視野の中にある木を結びつけたはずである。そこにおいて視覚と聴覚は連携している。あるいは木という言葉を発するとき、頭のなかで木の映像を想起したはずである。
 あとから視覚言語ができ、文字ができたとき、また文字と対照は結びついたはずである。文字と音が結びついたのではなく、文字は対照と結びつき、また対象は音とも結びついているので、結果として、文字と音が結びつくようになったのではないだろうか?
 対象をもたず、ただ文字と発音のみをもつような言葉はあるだろうか? そういうものがあれば、視覚と聴覚が言語において結びつくことの不思議というのが理解できるのだが・・・。
 養老氏がいうほど、視覚と聴覚は対立したものではないように思える。養老氏が視覚という場合多分思い浮かべるのは、ホルマリン固定された死体なのである。しかし、視覚の例としてそのようなものを思い浮かべるひとはきわめて少ないであろう。
 「冬の朝が晴れてゐれば起きて木の枝の枯れ葉が朝日といふ水のように流れるものに洗はれてゐるのを見てゐるうちに時間がたつて行く。どの位の時間がたつかというのではなくてただ確實にたつて行くので長いのでも短いのでもなくてそれが時間といふものなのである。」(吉田健一「時間」新潮社 冒頭)
 ここにあるのは視覚であるが、視覚がそのまま時間と結びついている。
 絵は瞬間であり、音楽は時間である、といえばその通りであろう。しかしわれわれは絵ばかりを見ているわけではないし、音楽の中に構造を見ることもする。音楽の構造というのは確かに眼にみえるものなのである。そうでなければソナタ形式などというものは成立しえない。

 養老氏の「唯脳論」での議論はかなり強引な仮説のもとになりたっている。しかし生産的な議論で重要なのは、問題を提出することであり、正解を提示することではないであろう。この本は問題の宝庫である。われわれはここから無限に思考の材料をえることができる。
 丸山真男氏の「歴史意識の古層」論と今西進化論が結びつくなどというアクロバットは養老氏以外のひとにはよく期待できないものであろう。
 「おわりに」で養老氏が書いているように、この本は内容が凝縮され「骨だけ」になった部分があり、氏の主張のエッセンスが詰まっている。すぐれた本は単純なものでもあると思うが、この本が知的な刺激に充ちた本であることは間違いない。