茂木健一郎 「意識とはなにか −−<私>を生成する脳」

  ちくま新書 2003年10月10日初版


 クオリアqualia について論じたものである。
 クオリアは「質」を意味するラテン語で、最近の脳科学における最重要論点の一つであるらしい。ラマチャンドランの名著「脳のなかの幽霊」の最終章「火星人は赤を見るか」においてもクオリアの問題がとりあげられている。ラマチャンドランによれば、「私は赤を見ている」(一人称)と「彼は、彼の脳のある経路が600ナノメートルの波長に遭遇したとき、赤を見ていると言う」(三人称)との関係が宇宙の中心的な謎なのである。<主観>の問題である。脳のニューロンという微細なゼリーの中の単なるイオンの流れや電流が、なぜ赤いとか痛いとか暖かいとかいう主観的世界の感覚を生み出せるのか? また、われわれは電気なまずやこうもりが外界をどのように認知するかを理解することはできるが、電気なまずやこうもりがどのように感じているかは理解できない、ということである。
 しかし、ラマチャンドランは、この問題は言葉の問題に過ぎないという。われわれは感覚を言葉によってしかあらわせない。しかし、相手の脳に対して自分の感じているのと同じ刺激を与えることができれば、主観的経験は主観ではなくなるのだという。しかし、これは単に赤いという感覚の伝達の話である。例えば、わたくしがある人に感じている淡い愛情といったものもまた、脳と脳を直接接続することで伝達可能なのであろうか?
 クオリアからは二つの問題が生じる。<主観的な体験>と<それを体験する私>である。
 これまでの科学は<客観>をあつかってきた。しかしクオリア問題は、科学が<主観>を扱おうというのである。
 茂木氏は脳科学者である。その氏が<あるもの>が<あるもの>であるというのはどういうことか? <わたくし>が<わたくし>であるというのはどういうことか、という問題はクオリアという観点からまったく新しく見ていくことができるのではないかということを論じている。
 その意気や壮であるが、この道は泥沼なのではないかという気がする。
 ラマチャンドランもいうように、この問題は言語の問題と深くかかわる。とすれば、これは古来からの哲学の問題の蒸し返しにすぎなくなるのではないだろうか? 主観の問題はポパーのいう「世界2」である。言語の問題に首をつっこむと無限後退に陥るだけである、というポパーの警告がここでも生きてくるように思う。大事なのは「世界3」なのではないだろうか? 
 脳科学という理科の学問をしてきて、<わたくし>とか<主観的経験>というそれまで考えてもみなかった文科の問題とぶつかってわくわくしている。しかし、気がついてみれば、それは古来から未解決のままできた問題、少しもあたらしくない問題であるということはないだろうか?
 氏はクオリアこそがその難問を解く魔法の鍵であると信じているのかもしれないが、それはあまりにもナイーブなのではないだろうか?