福田和也 「悪の読書術」

   講談社現代新書 2003年10月20日初版


 「成熟した大人になるには、読むべき本と読んだら恥ずかしい本がある」と表紙にある。これを氏は<社交としての読書>というのだが、要するに他人との付き合い、会話の中で、どのような本は話題にしてもよく、どのようなものはいけないか、という視点からの読書論である。ちなみに、「悪」とは、自らの無垢さ、善良さを前提とする甘えを抜け出し、より意識的、戦略的にふるまうためのモラルなのだそうである。
 ロークラスの本を面白いと思うことを恥ずかしいと感じなさいという。ではロークラスでない本とは? 例えば、須賀敦子であり、白州正子であり、塩野七生なのだそうである。
 それで宮部みゆきとか高村薫はどうか、それは大人の匂いがしない、悪の香りがしないという。
 で、山田詠美は○。恥ずかしくない本。村上春樹はすぐれた作家だけれど、それをストレートに賛美するのは子供だよ。ちょっとひねった線をねらいなさいともいう。
 それで、できる男と思われるためには、「資治通鑑」とかギゾーの「ヨーロッパ文明史」とか「ヘンリ・ライクロフトの私記」なんかを読んでいるといいのだそうである。
 以上のことは旧弊な教養主義と誤解されるかもしれないが、そうではなくスノッブな意味での向上心が大事なのであるという。そしてスノッブであることの前提は文化的な格差、位階が存在することを認めることであるという。ここがおそらく本書の最大の眼目なのであろう。これがいきつくとリラダンになってしまうのかもしれないが。「生活などは召使にさせておけ!・・・」
 ちょっと渡部昇一の「知的生活の方法」を思わせるところもある本である。Make one's own library ! 蔵書を見ればその人はたちどころにわかる。
 さて、わたくしがここでとりあげている本には、恥ずかしい本が多くて、未熟な子供であることを天下にさらしているのであろうか?