倉橋由美子 「老人のための残酷童話]

  講談社 2003年9月30日 初版


 書き下ろしとある。
 倉橋氏は体調がよくないらしく(もともと丈夫でないところにもってきて、ひどい耳鳴がおきているらしい)、長編を書ける状態ではないらしい。それで最近でる本は「大人のための残酷童話」「倉橋由美子の怪奇掌編」「よもつひらさか往還」といった短編集、あるいは短編連作のみである。
 それで、これも短編集というか童話集というかである。でも子供が読む本ではなく大人のための本である。「老人のための」とあるのは老人向けの童話ということではなく、老人が主人公になっているということのようである。
 わたくしが倉橋由美子氏に関心があるのは、文学者が吉田健一信者になるとどうなるのかということの典型例がそこにあるように思うからである。
 倉橋氏が吉田健一に深く影響されていることは、「城の中の城」あたり以降の氏の文体を見るだけであきらかだろうと思う。「城の中の城」「シュンポシオン」「交歓」などのいわゆる桂子さんものは(「夢の浮橋」をのぞけば)、吉田氏の「瓦礫の中」や「絵空事」に触発されたものであることは一目でわかる。倉橋氏は文学青年的なものがとにかくきらいで、その対極を吉田氏に見出したのであろう。反=文学青年のもう一人が三島由紀夫で、倉橋氏は吉田健一三島由紀夫の二人の神輿をかついでいたが、三島の死とともに吉田氏のみに帰依することになった。
 問題は倉橋氏が、吉田氏を反=文学青年の安心立命した人とみている点にあるのだと思う。しかし、吉田氏は晩年、確固たる自己の立場に到達していたのだろうか? 漱石が則天去私といったとしても、その心境にたっていたとはいえないように、吉田氏があのように書いたといっても、そう本当に氏にそう信じられていたとは断定できないのではないだろうか? 吉田氏が晩年にあれだけ沢山の著作をものにしたということは、何か異常なものがあるのではないだろうか? そして晩年の極端に句読点の少ない文体もどこか異常ではないだろうか?
 晩年、氏に萌した考えがあまりに風変りなものだったので、氏自身も容易に信じることができなかったのではないだろうか? それで次から次へと書いていないと自分でも納得できなかったのではないだろうか? あの文体も氏の持続感、時間観を表すものだったのだろうが、そういう奇矯に近い文体でしか表せないほど氏の晩年の想念は微妙で伝達しにくいものだったのではないだろうか?
 丹生谷貴志氏に「奇妙な静けさとざわめきとひしめき」という妙な題の吉田健一論がある。「奇妙な静けさとざわめきとひしめき」というのは、精神分裂病統合失調症)の発病直前に訪れる「奇妙な静穏期」をあつかった精神科医中井久夫氏の論文の題名なのである。通常、この静穏期はごく短期間しか続かず、すぐに発病にいたってしまう。しかし、まれにこの静穏期を努力によって維持できるひとがいる。高名な文学者や哲学者にその例をみるという。たとえばヴィットゲンシュタイン。そして、丹生谷氏は吉田氏晩年の文体が、「奇妙な静けさとざわめきとひしめき」を表したものだったのではないかという。
 丹生谷氏は吉田氏が狂気の直前にいたというのではない。吉田氏が近代の病を乗り越えようとして努めた過程で見出したもの、それを吉田氏は現代というのだが、それが「奇妙な静けさとざわめきとひしめき」にきわめて似ているというのである。
 わたくしも吉田氏にあったのは、<正気であり続けようとする意思>のようなものであったのではないかと思う。何よりもあの膨大な晩年の著作はその意志の表れなのではないだろうか?
 しかし、倉橋氏は吉田氏をなによりも<正気>のひとであるとしたのである。<正気>でないひとばかりがひしめいている文学者のなかで例外的に<正気>のひとであるとし、それについていこうとしたのであろう。
 そして、吉田氏を師とすることにしてから、倉橋氏にとっては世界がわかったもの既知のものになってしまったのである。倉橋氏の以前のエッセイ集の題名に「わたしのなかのかれへ」というのがある。エッセイを書くとは、自分の中の第三者に語りかけ問いかける行為であるとの言いである。そこでは問いかけがあり、対話があった。しかし、もしも世界がわかってしまえば、書くというのは、そのわかったことを単に紙に写すだけの行為になってしまう。そこでは書くという行為を通して、はじめて発見される何かがなくなってしまう。
 倉橋氏が最近短い話を書くのは、単に体調のためだけでなく、自明のことを紙にうつすというやり方では長編小説はかけないからといういうこともあるのではないだろうか?
 倉橋氏の努力は、何かを書きながら考えることにではなく、読者に自分の考えをいかにおいしく食べてもらうかということに注がれる。そして、そういう観点から見れば、この「老人のための残酷童話」はきわめて上等のお菓子ばかりが収められている。なかでも「天の川」「臓器回収大作戦」「老いらくの恋」など、本当においしい。おそらく、背景にはボルヘスとか中国の古い奇談とかいろいろの隠し味があって、それがわかればさらに美味しいのではないかと思うが、知識と教養が足りなくて、そこまで味わえないのは残念である。