菊地哲郎 「常識の壁」

   [中公新書ラクレ 2004年1月10日 初版]


 われわれ日本人が閉塞感にとらわれているのは、日本人がとらわれている常識のためであって、それをとりはらってみれば未来はばら色である・・・、ということなのだが、ほとんどただのおもいつきと屁理屈みたいなものの述べただけの本である。たとえ薄い本であっても、一冊の本をそういういい加減な論で作ってしまう度胸というのは、大したものである。
 著者はほとんどわたくしと同い年、同世代である。団塊の世代の何か一番悪い部分がここにあるように思う。
 著者は養老氏の「バカの壁」を引き合いにだして、われわれにあるのはバカの壁ばかりでなく、常識の壁もあるなどとわかったようなことをいっている。養老氏のいっていることに賛成するにしろしないにしろ、養老氏の書くものを見れば、氏が何を大事と思っており、何を基準として、どのような価値観から自分の議論を引き出してきているかは自ずと明らかである。
 しかし菊地氏のこの本には、そういうバックボーンが何もない。わざと一般論と反対のことを言ってみているだけで、いっていることを本人さえ、信じているようにはみえない。あるいはひょっとするとおそろしいことに信じているのかもしれないが、それが自分のどのような信念から発しているのかが少しも明らかではないので、まるで説得力がない。
 おそらく氏の一番根っこにあるのは<シニック>という語に近い何かである。何事も本気では信じられない。だから議論がどこか遊戯的で軽い。議論の根拠などどうでもいい。利用できるものは何でも利用する。だから、その議論を支えるのは耳学問的な雑学だけとなる。当座の議論に役に立つのであればどんなものでもいい。その背後に確固とした信念がないから、書いていることが相互に矛盾し支離滅裂となってしまう。
 それともう一つが軽薄な本音主義。思っていることをいって何が悪い!という開き直り。
 まあ、もちろんそういう人がいてもいっこうにかまわないのだけれど、驚くのは氏の経歴である。毎日新聞に入社後、エコノミスト編集部、東京経済部長などを経て現在、論説委員長とある。であれば、当然経済についてはプロでなければならない。それなのに氏の論じている経済論は、経済学音痴のわたくしからみても不勉強としかいいようがないとんでもない代物のようにみえる。ほとんど素人の議論としか思えない。こういう人が大新聞の論説委員長をしているのであるから、日本の新聞の知的レベルの低下は、もはや救い難いもののように思われる。

 以下、本書の記載にそって。
 「バブルの時は楽しかった。あんなに楽しいことはなかった。どこが悪いのか? あれが永続したら最高だったが、永続しなかったのだけが残念。われわれ団塊の世代はあれを味わうためにこそ頑張ったのだ。あれはわれわれの頑張りにたいする報酬である。だから口では、あんなことは二度とあってはいけないなどといっているが、本音をいえば、もう一回やってみたい。
 バブルは夢のような時代だった。ああいう夢はあったほうがいい。頑張ればああいう夢のようなことも経験できると思えば、みな頑張れる。今日本が停滞しているのは未来にそういう夢がないからである。先に楽しいことが見えないから、もう誰も一生懸命には働かなくなってしまった。頑張ってもしかたがないと思うから、怠惰でずるく要求だけする、大変なことは自分でやらずに誰かにやってもらうことを期待する、何か困ったことがあったら人のせいにする、そういう醜い日本人になってしまった・・・。」(p5〜9)
 わたしはバブルの時にこんな世の中が長続きするはずがないと思っていた。普通の人が一生働いても家一つ買えず、地上げとかいうことが横行し、某大銀行の頭取が行員に向こう傷は問わない、すなわち、少々乱暴なことをしても法律にふれなければいいなどということをいい、それをマスコミが名頭取と評し、というような時代がまともな時代であったはずがない。
 将来バブルがもう一度おこせると確信できれば、また日本人は働くようになるというのだろうか? その時の日本人が美しく、今の日本人が醜いのだろうか? もちろん、バブルの時代はとんでもない時代であったので、現在の不景気状態のほうが人間的にまともな生活なのであるという「清貧のすすめ」もまたおかしいのであるが。
 そして、この著者のわからないのは、本の後段で清貧のすすめみたいなこともいいだすことである。今の老人は年金が減るのは許せないというが、年金などというものは最低限の生活を保障すればいいものであって、豊かな生活を保障せよなどという要求ばかりする日本人は醜いという。でもその豊かな生活というものを教えてしまったのがバブルの時代なのではないだろうか? バブルの時代がいい時代であったのなら、それの維持を要求するのもまた正当なことなのではないだろうか?
 「失われた10年というけれど、ぜんぜんそうは思わない。せいぜいお金と土地の値段が失われただけ。大地主でもない限り、土地の値段が下がって困るひとはいない。
 失われたという言葉は受身で主語がない。誤魔化しである。本当は失敗した10年である。自分が失敗したのに、自分は悪くない、だれかのせいで失われてしまったという言い方は、日本人の一番の問題点である《他人のせい》路線である。」(p9〜12)
 普通、失われた10年という言葉を使うときに、お金とか土地が失われたと解釈するだろうか? そうなら主語がないではなくて目的語がないというべきである。失われたの目的語は10年であって、10年という時間が失われたと解釈するのが普通の語感なのではないだろうか? 無為の10年、何もしないままの10年ということではないのだろうか? 本当は、いろいろなことができたはずであり、しなければいけないはずの10年であったのに、何もしないままで過ぎてしまったということではないだろうか?
 この人は日本語がおかしいように思う。こういう人が新聞で記事を書いたり論説を書いたりしていていいのだろうか?と思うが、わたくしの日本語感覚のほうがおかしいのだろうか?
 「年金制度は、たかだか本当に整備されたのはこの20年である。これは経済の大きな成長と老人が適当に死んでくれることが前提だった。経済が停滞し、老人がなかなか死ななくなった現在においては、制度の前提が根本的に変ってしまった。これはもはや維持できない。それと同時に、40年先などという推測のしようがない先に年金がもらえるかどうかを心配している若者もバカである。」(p15〜19)
 ここは同感。でも毎日新聞にそんなことが書いてあるのなんかみたことない。書いてあるのは、年金制度など先行きが不安なので、国民は安心できない。国民が安心できるような抜本的な年金改革案を提示せよ、というようなことだけである。この制度は維持できないとはっきり宣言せよなどという論はみたことがない。
 「少子化は絶対に続かない。50年前は人口が増えすぎたらどうしようと心配していた。またその内かならず増える。まあ見ていなさい。いまは将来の見通しが暗いから、みな子供をつくらない、なんていうが、大体本当に不況なのか? 不況だということ自体が何かを他人の責任にする態度である。個々の個人の景気や特定の会社の景気はある。しかし国全体の景気なんてものはない。日本は豊かなのだ。毎年毎年前年よりいいということがづっと続くことを期待するほうがおかしい。景気が悪いから自分の仕事がないとか、不況のせいで自分の会社が経営不振などといっているやつはみんな、自分に責任はなく、他人のせいであるという日本人の悪い思考法におちいっている。お前があ就職できないのは、だれもお前を必要としないというお前の能力のなさのせいなんだ、お前の会社の状態が悪いのは、経営者を含めたお前の会社で働く人間が無能なためなんだ。日本の景気のためではない。ひとのせいなんかにするな!」(p19〜26)
 このひと本当に経済学を勉強したことがあるのだろうか? これはケインズ以前の古典派経済学である。失業者というのは存在しない。会社が払うという賃金と自分が欲しい賃金が折り合わないため自発的に職についていないひとがいるだけという議論である。こういう議論がなりたつなら政府も中央銀行も一切いらないことになる。
 「少子化のせいで年金制度が崩壊するなどという。これも他人のせいにする態度だ。少子化になれば、受験戦争もなくなる。今の若い人間はパソコンでインターネットから情報検索などあっという間にしてしまう。昔1日かかったことが今では一瞬である。その効率を考えたら、子どもの数が半分になっても、一人一人の効率は10倍である。全然心配することはない。高齢化時代の年金なんか余裕で彼らが負担してくれる。高齢少子化、恐れるに足りず!」(p27〜33)
 ???。人間のやる仕事は情報の検索だけではない。IT革命とかさんざん言われたが、ITの導入によって生産性は全然改善していないというのは周知の事実である。インターネットの情報は99%がくずである。そこから有用な情報を拾い出すことは容易ではない。
 「今は将来の不安でみんなが貯金しすぎ、消費をしないことが問題になっている。それなら万一の時には国がみんなタダで面倒をみてあげるって国が保障すればいいではないか? そうしたらみんな安心して貯金せずにお金を使うようになって、あっという間に景気は回復!」(p41〜42)
 ????。万一の時には国がみんなタダで面倒をみます。→これすなわち、空前の大増税である。たちまち個々人の収入は大幅減となる。そんな状態で各人安心して消費を増やすだろうか?
 「年金支給額を半分にすればいいではないか。これで年金問題は解決! それで食えない人だけ別の生活保護システムをつくればいい」(p42〜43)
 正論である。しかしそれを提案する役人や政治家はいるだろうか? 提案した政党は全員落選。自動的に廃案である。第一、まっさきに新聞が反対するのではないだろうか? 弱者云々といって。
 「年金が必要となったのは、子どもが親の面倒をみないようになったからだ。年金なんかたくさんだすから、親の面倒などみなくていいということになってしまった。」(p44〜51)
 結婚しないひと、こどものいないひとは誰が面倒をみるのだろうか? 人間は結婚し子どもをつくるべきであって、そうしない人間はペナルティとして将来路頭に迷っても自業自得ということなのだろうか?
 「デフレがどうして悪いのか? デフレは貨幣の価値があがり、物価が下がることである。万々歳である。デフレが悪いっていうのは明るい未来を示せない政治家の責任転嫁の言である。みんなデフレはいいと思っている。みんながいいと思っていることを、学者の議論などでくつがえせるわけがない。インフレ・ターゲットなどといっているひとは何を考えているのだ。本当は東京の家の価格などまだまだ高い。飛行機で韓国に往復するよりも成田から都心までタクシーに乗るほうが高い。まだまだ日本の価格は高すぎる。」(p52〜56)
 この人、経済学を勉強したことがあるのだろうか? 「合成の誤謬」というようなことを考えたことはないのだろうか? 個々のものの値段とデフレーションは全然関係がないということがわかっていないのだろうか?
 デフレがよくないというのは金融政策が効かなくなるからである、というのは経済学のイロハであると思うのだが。「急速な物価水準の低下は、経済に大きな影響を与える。たとえば債務者は実質単位では最初考えたよりも大きい金額を返済しなくてはいけなくなる。もし物価水準の下落が予想されていなかったならば、債務者は返済できなくなり破産に陥り、経済を大きく崩壊させるかもしれない。物価水準が下落しても、賃金は同じようには下落せず、実質賃金は上昇するかもしれない。そのため企業は雇用する労働者の数を減らそうとするだろう。すなわち失業増加が生じる可能性がある。また物価水準が下落することは実質利子率が名目利子率よりも高いことを意味している。したがって名目利子率が0にまで下がったとしても、実質利子率は十分に高いままであり、投資を抑制するかもしれない。名目利子率を0以下にすることは困難であるから、政府は金融政策を用いることができなくなる。」(スティーグリッツ「入門経済学」第2版 東洋経済新報社 p423)
もっとも、この人は国の景気などというものはないという立場らしいから、金融政策も財政政策も一切必要ないと思っているのかもしれないが・・・。
 「現在の保守的でリスクをとらないやりかたが日本の低迷の根本原因である。」(p64)
 あれ? 国の景気なんてものはなく、日本は豊かなのではなかったっけ?
 「日本はここ数十年で、怠惰でずるく要求ばかりする、悪いのはみな他人という情けない人間になってしまった。年金生活者の多くは元気で働けるのに働かずに遊んでいる。まあそれ自体はいいだろう。自分だって遊んでくらしたい。でも年金制度はもたない。国の税収入は支出の半分しかないのだから。これは政治が弱くて無能で税金をとれないからだ。税金をちゃんととれないような頼りない政府だから、人々は不安なのである。でもいずれとらなければいけなくなる。税金を3倍にしなければいけなくなる。収入の七割から八割を国にもっていかれる時代がくる。ではどうしたらいいか、現在、国は税金半分、借金半分で暮らしている。それを全部借金にすればよい。国を民営化し、税金をゼロにし、すべてを借金にすればいい。
 現在の国の借金の倍の貯蓄を国民はしている。だから国民の貯蓄を半分、国が税金としてとりあげてしまえばいい。その結果、国民の貯蓄は半分になる。でも国の借金はゼロになる。増税に反対する人間はすべて自民党の見方である。しかし、そういう民営政府に金を貸す人間がいるだろうか? だが、税金はゼロなのである。あまったお金はどこかに投資しなければならない。民営化し、効率的になった政府は魅力的な投資対象になるのではないか?」(p67〜98)
 ばかばかしいので、まともに議論しても仕方がないのかもしれないけれども、著者は大きな政府がいいと思っているのだろうか? それとも小さな政府がいいと思っているのだろうか? 本当は強い政府、強大で強制力を行使する権力が大好きなのである。どんどん増えていく借金をまずいと思いながら、国民の顔色をうかがって税金もとれない情けない政治がきらいなのである。それで可愛さあまって憎さ百倍、いきなり究極の小さな政府にいってしまうのである。フリードマンのような信念、スミス・ヒューム以来の自由主義のバックボーン、そういったものはないもない。ただ、あれが駄目ならこれでいこう、という乗りである。
 床屋政談である。呑み屋で日本の政治を悲憤慷慨している、あるいは日本改善の珍説を披露している変なおじさんの議論である。新聞の論説委員長が、そのレベルでいいのだろうか? 
 単なる冗談で書いているならいい。しかしどうも本気なようにも見えるのである。この人、政府税調の特別委員もやっているらしい。心底、やばい、と思う。

 とまあ、悪口ばかり書いてきたが、著者もいうように、今から数十年前には年金なんてものはなかったのである(厚生年金は昭和19年から。これは積み立て方式で、要するに国に貯金するかたち。国民年金が昭和36年からで、このあたりから賦課方式になってゆく)。この制度ができる前はみな老人が行き倒れていたわけではない。家族制度がしっかりしていて、当然の義務として親を子が扶養してからであろうか? 日本の年金額は欧米の倍くらいあるらしい。それをもらうのは当然の権利であって、それがもらえなければ、安心して快適な老後がおくれないなどというのは変な議論である。
 この議論はすぐに医療ともつながっていく。高齢者が十分な医療を安心して受けられる体制をつくらないと、高齢者は安心して暮らせない、という議論もまた高齢少子化になればなりたたなくなるのは自明なのである。昔はこういう部分も子どもがみていたのであろうか?
 どうしてもこういうことを議論していくと、日本が世界一の長寿国であるというのが果たしていいことなのか、という方向に議論が進まざるをえなくなってくるように思う。著者は日本の高齢化は秦の始皇帝以来の人間の悲願の達成でこんなにめでたいことはないという。ここでも合成の誤謬が働くことはないだろうか? 個々にいいことであっても全体としてみると悪い、というような。それともみんなの間では、本当は高齢化なんかうれしくないなというのが常識になっているので、その常識の壁をやぶるためにあえて高齢化万歳といっているのであろうか?

 蛇足ながら、p153では、アインシュタインエーテル仮説をとなえたことになっている。しかし、相対性原理によって、それまでのニュートン力学では説明できなかった事象の説明のためやむなく導入されていたエーテルというものの存在の仮定が不要になったのではないだろうか。アインシュタインエーテルを不要としたのである。また、エーテル暗黒物質とはなんの関係もない。この辺りのことは物理学史のイロハであると思うのだが、誰も原稿をチェックしないのだろうか?
 なんだか日本の本づくりはどんどんとレベルが落ちてきているような気がする。日本人が怠惰になってきていることの現われなのであろうか?