町田康 「パンク侍、斬られて候」

   [マガジンハウス2004年3月18日 初版]


 これを読んだのは加藤典洋の「小説の未来」(朝日新聞社2004年)に町田康がとりあげられていて面白そうだったのと、朝日新聞(だっかな?)の書評で高橋源一郎がこの「パンク侍・・・」を絶賛していたからなのだが、初めて読んだ町田康の小説はべらぼうに面白かった、とはいってもこの面白さが何であるかを説明するのはきわめてむずかしい。というか、そう簡単に説明できてしまうのであれば小説など書く必要はないのであって、ここにあるのは間違いなく小説という形でしか表現することができない何かなのである。といってしまえば読むしかないということになり、ここに何か書くのは無意味であることになるので、とにかく何か書くとすれば、「ある程度家柄がよい彼らにとって、名や実は努力して守るべきものではなく、空気のように存在するあたりまえのもので、この偉いボクが名や実を他よりも多く得るのは当然じゃん、だってボクはボクなんだよ、と思っているというか、それは、自分は男である、女であるというのと同じくらいに自然なことでこそさらそのことについて考えたり議論したりすることはない。つまり、彼らは上司の命令を断ったことによって自分が名や実を失うとは露ほどにも思っていない。なぜ、そう思わぬかというと、泰平の世に生まれ、親にも世間にも大事にされて育ってきた彼らは、いわゆる銀のスプーンをくわえて生まれてきた存在であると信じて疑わないからだ。そしてこのことは各方面に軋轢を生み、結果的に藩政をうちから腐らせ、彼ひとりおのれの自意識をまもって恬然としているうちに藩政は無茶苦茶になり、財政等も破綻して藩は滅亡、彼も上司もみな牢人をする。はは。おもろ。と俺などは手に職があるから思うが、彼なんぞはそんなことは考えたこともないのだろうな。そうなったときの狼狽ぶりを見てみたいとも思うが、しかしそれはまだ先のこと、いったいいまどうしてくれようかな・・・」なんていうのが時代小説かということがあって、もちろん町田康は時代小説を書く気などはさらさらないのだが、さりとて現代をパロって茶化そうというのでもない、今のわかものを慨嘆するのでもない。そもそも町田康は慨嘆されるべきわかものでもあって、慨嘆するものがまた慨嘆されるものでもあるという構造がこの小説のキモなのである。人間は愚かなものであって、また愚かであるということのゆえに健気でもある。愚かであるが故に罰せられるべき存在であり、しかし愚かであるが故に許されるべき存在でもある。この処罰への希求と許しへの希求の二重性がこの小説の構造を支えている。とすれば、これは現在では珍しい宗教的な小説でもあることになる。ここで罰するのは一神教的な神ではなく、因果は応報されるべきであるとでもいうべき感覚であり、許しは遠藤周作的「沈黙」的母性的神からくるのではなく一切衆生悉く仏性ありとでもいうような汎宇宙的な感覚からくる。とすれば、これは仏教小説なのであろうか? そしてバスの旋律は、罰せられるべき悪をなしてもなお許されることはできないだろうかというものであれば、悪人正機説なのだろうか? 20ページで主人公は悪人とされ、21ページには「蜘蛛の糸」の話があり、最後314ページには因果が語られる。パンク野郎に救いはあるのか?
 というような難しい小説ではこれはないです。つかこうへい的な言葉遊びや悪ふざけと「万延元年・・・」から「海辺のカフカ」までのパロディーを楽しめばいいようにできている。

 「ふっ、ふっふっふっふっふっふっ、ふうっ。ちょっと疲れた。しかしながら俺の秘剣『悪酔いプーさん、くだまいてポン』をかわすとはお主、できるな。・・・」・・・
 「おほほほ。あなたに拙者が斬れるかな。というかこちらからいくよ。・・・僕の秘剣、『受付嬢、すっぴんあぐら』を受けてみよ」
 じゅらじゅらじゅら、ぎゃあああ、なんてなんて凄い顔。ぽっすーん。怖ろしい気合で迫ってくる十之進の剣を間一髪でかわした真鍋は言った。
 「うむむ。まじできるな、お主。それでは今度は俺の秘剣、『蜂蜜ハッチの目って狂気的だよね』を受けてみよ」
 「メルヘンで攻めてくるな、君は。こいっ」

 なんてのをまじめに読んでいたら馬鹿です。
 でも世の中には冗談でしかいえない真実がある・・・、って本当かな?