橋本治 「上司は思いつきでものを言う」

   [集英社新書 2004年4月21日 初版]


 「停滞した日本のサラリーマン社会はなんとかならないのかよ?」を考察する本、とはいうものの。
 最初のほうの「埴輪の製造販売」を業務としている会社(美術品としてではなく副葬品としての埴輪を売る会社)における業績回復のための議論なんていうのは抱腹絶倒で、若手の社員の「最早古墳が作られない以上、美術品として売るべきである」というまともな提案に対して、上司が「死者とともにあってしかるべき物を、部屋に飾るなどというのはいかがなものか?」といいだし、議論が混乱したところで、別の上司が「いっそ、わが社でもコンビニを始めたらどうでしょう?」といいだすというシュールな展開など、橋本治は頭がいいなあと感嘆しきり。
 あなたが業績の傾いてきているある会社で働いていて、上司から、かくかくのことについてどうしたらいいかアイデアを出しなさいと言われたとする。十分に考慮して、議論の余地にない立派な提案をしても、考えてもみない理由で否定されてしまう場合がある。それは提案が暗に今まであなた方はなにをやっていたんだという疑問をふくんでいると上司が思うような場合である。自分が無能だといわれていると思って、とんでもない難癖をつけて、提案を否定するのである。上司は業績悪化の原因は自分たちにはなく、外部にあると思っているのである。
 上司というのはただの立場である。ただ位が上がれば上がるほど「現場」から離れてしまう。だから上司には「現場」がなくなって、自分の立場だけになってしまう。
 日本の会社の会議は、結論を出すだめのものではない。みんなうすうす思っていても口にださないことを皆で公に確認する場なのである。
 会社は利潤を追求するために存在する。だから、「会社を豊かにするため、現場は努力せよ」は間違ってはいない。しかし、これを一方的に会社がやれば「現場」がやせる。
 景気がいいときの会社には何も問題がおきない。
 しかし会社には大きくなろうという動機に歯止めをかけるものがないのが問題である。いくら動機がなくても、歯止めをかけたほうがいいなら、かけないのは馬鹿である。
 会社は大きくなると「現場」をあつかわない部署をつくる。「総務」である。「総務」とは「会社における専業主婦」である。
 
 民が頑張ったのは大きな顔をしている官を見返したいという動機が相当部分あったのではないか?「官」は会社でいえば国の「総務」である。「埴輪の製造販売」を業務としている会社(美術品としてではなく副葬品としての埴輪を売る会社)というのは「民」であればありえないが、これが「官」ならありえるのである。上司には「現場」がなくなって、自分の立場だけになってしまうというのは会社が官僚化してきているということである。
 上司が思いつきでものをいうのは、上司が「現場」からはなれてしまっているかであり、そういうことが許容されるのは、会社が大きくなって官僚化しているということなのである。
 官というのは、原則上、「現場」「下から」の声をきかなくてもいいのである。なぜなら、官は上からいわれたことをやるものだから。
 根本は会社が大きくなることをめざす時代は終わったである。だから、21世紀の経済は別の方向をめざすべきである、は正しい。しかし、誰も21世紀経済のめざすべき方向はわかっていない。そんなしょうもないことを考えるのではなく、目の前の現実に対応することが必要である。
 では、どうしたらいいか、上司が思いつきでいい加減なことをいったら、「ええーっ?!」とあきれればいい。反論するのではなく、ただあきれるのである。これができないのは相手に失礼と思うからである。しかし上司はあきれられる経験をしていないのである。ようするに悪いのは相手であって自分ではないということを確認しておかなければいけないのである。
 逆にあなたが上司であって、俺には碌な部下がいないと思っているのならば、あなたには「上司としての徳」がないのである。
 ここで儒教のことを考えよう。儒教によれば上司は部下よりもえらい。しかし儒教によれば、上司は上司であるがゆえにえらいのではない。上司は徳があるからえらいのである。
 企画書を書く前提:上司をバカにせず、しかし上司はバカであるかも知れない可能性を考慮すること。これは仏教でいう慈悲のこころである。思いやりである。
 まれに「バカにせず、バカでない可能性を考える」ことが必要な場合がある。「尊敬」である。
 「他人を思いやる」ばかりをしていると、他人のなかにある「自分よりすぐれた分」が見えなくなる危険がある。
 民主主義では、すべての人は平等である、だから「人をバカにしてはいけない」は簡単にでてくる。民主主義でなければ、「人は生まれついた身分によって異なる」となる。
 上司という身分のゆえにえらいのであれば、それは民主主義ではない。
 上司というものを特別なものと考えるというのは実は身分を前提にする考えである。
 儒教聖徳太子の十七条憲法にまでさかのぼる。聖徳太子は冠位十二階」もつくった。
 この「十二階」では、上から、大徳、小徳、大仁、小仁・・・・と続いていく。これはやがて、正一位従一位、正二位、従二位・・・と名前は変る。
 身分制度儒教が合体すると、容易に、「上のものには徳があらねばならない」が「上に立ったものには徳がある」に転化する。
 そして本来、官の制度である「冠位十二階」が近代になって民間の会社にも適応されるのである。
 日本にはヨーロッパのような領主貴族はおらず、官僚貴族しかいない。
 ヨーロッパでは、領主貴族が株主で、王様は株主に承認された会社の経営者である。その伝統のない日本で、株式会社が根付くか?
 日本で領主貴族的なものがいるのは乱世である。戦国大名は領主貴族に近い。しかし、もしも織田信長上杉謙信も天下を統一していたら「官僚」すなわち天皇の臣下になっていたはずである。
 日本に官僚制がない時代:1)官僚制以前の古代、2)戦国時代、3)幕末維新。日本人はこの時代が好きである。この時代には「自由」があるのである。
 ところで、平安時代は「実務は事務方にまかせて、上はしたいことをして」いた。
 実は上流は特別で、別格が当然という考え方は、聖徳太子のころからある。冠位十二階のトップは大徳だが、蘇我馬子は大徳ではなくその上にいる。
 序列の上には特別な人がいる、というのが日本の制度の基本である。さらに序列の下に「その他大勢」がいる。
 大衆化とはその他大勢を序列にくみこんでいく過程である。当初官僚だけにあった身分は江戸時代において「士農工商」という形で拡大された。江戸の儒教は修正主義の花盛りである。儒教国学により衰退化したが、それでも明治でも残った。「天子の徳」を説くものだから。
 明治は儒教的原則はすたれないのに儒教はすたれていく過程であった。
 世界大戦敗戦の結果、儒教は完全に忘れ去られる存在になった。
 日本の儒教は本当の儒教ではない。なぜなら王朝の交代がないからである。「日本の天子は勉強をする」、これが要である。「ご学問をなさいませ」である。中国の悪人は天子に「酒色」をすすめる。天子を愚かにして天下を簒奪する。ところが日本では天子を賢くしようとしたのである。日本では政治の実権を握るものは、その徳に自信がなかったのである。これが日本で実力主義が根付かず、年功序列が残る理由である。
 ところが民主主義というのは実力主義なのである。上司だから、年上だからえらいは民主主義ではないのである。
 日本人は能力主義とは弱肉強食で全員平等の民主主義を脅かすと考える。しかし、この考えは全体主義なのである。いつも平等というのは立場固定主義で、全員同じ身分であるべきという、身分主義なのである。一億総中流というのはその最終形態であった。それでは人は能力を発揮する余地がない。人の能力は平等ではない、それが平等である、というのは人の「努力」を黙殺するものである。
 日本では親子の問題はようやく解決してきている。親だから偉いという考えはなくなってきている。しかし、会社では上司だから偉いがまだ手付かずで残っているのである。
 そうではあっても、そのへんてこりんな組織によって「世界一の経済大国」になったのである。
 日本の問題は自分達は先進国といわれる国とはちょっと違ったことをしているということを明確に理解していなかったことである。
 軍隊というバックをもたずに工業製品を世界中に売ることに成功した国は日本だけである。それは「現場」の声に耳を傾けたからできたのである。ここで明らかになったのは「現場の声をきかない会社はだめになる」なのである。21世紀の現場はやせてきている。そのやせた現場の声をきくこと、それがすべきことである。

 最初、高橋伸夫氏の「できる社員は「やりすごす」」(日経ビジネス文庫)などを思い浮かべながら読んでいた。これは中間管理職(昔の係長、今は主任?)を論じたもので、上からの不条理な指令を適当に「やりすごす」のができる社員であることが指摘されていた。ここでも上司の思いつきに振り回される「係長」の姿が描かれている。「係長」は上司の指示を適当にやりすごし、部下のミスの尻拭いをし、泥をかぶる。しかし高橋氏の本では、なぜ上司がそういう指令をだすのかという視点はない。ただし、橋本氏と同様、「現場」を離れること、「現場」から遠ざかることが関係しているであろうことは指摘されている。しかし「現場」は現実的な「現場」であって、それが抽象的に扱われることはないので、それが日本の官僚制に結びつき、聖徳太子から天皇制の特質にまでいたるというアクロバットは行われない。それは高橋氏が日本の会社の内側にいるのに対して、橋本氏はそとにいるからである。日本全体の中での会社というものを考えるからである。
 これを読んでわたくしは儒教の信奉者なのだなと思った。年功序列能力主義よりいいと思っているのだから。年功序列のいいところは、自分の位があがってもそれが自分に能力があるためであるなどという誤解をしないですむ点にある。自分はたまたまそのような地位にあるのであって決して能力によるのではないと考えるのは精神衛生上たいへんよい。つまり自分に自信がないから。そして部下もあいつは年功であの地位にいると考えたほうが精神衛生上いいであろう。あいつが能力があるなどと思われているのかと思えば頭にくるであろう。
 しかし、ということはわたしは上司をぜんぜん偉いと思っていないのである。たまたまあの地位にいるだけと思っている。ということは儒教の信奉者ではないのだろうか? 親孝行しようなどとも全然思わないし。
 たしか江戸時代にも「主君の押し込め」などということがあって、困った殿様は平気で臣下が「押し込めて」しまうのである。藩が第一で、藩に役にたたない主君は排除される。つまり日本の社会はうまくいっているときは無能の上司でいいのである。むしろ無能のほうがいい。よきにはからえ!が名君である。若いときの働きに対するご苦労さんという地位であり、誰も的確な指示など期待していない。「ピーターの法則」における無能レベルに達していても誰も困らないのである。
 うまくいかなくなったときのみ有能な上司が要求される。そして、橋本氏もいうように、高度成長期などは誰がやってもうまくいったので(なぜなら「現場」が優秀だったから)、現在のようなもはや成長が期待できない時代において(そして今後21世紀以降の時代においてすべて)、はじめて無能な上司はありえなくなるのである。無能な上司とは現場を知らず、会社の内部しか知らない人間である。これは太平洋戦争のときからそうだった。無能な上官と優秀な兵士たち。
 この本の凄いところは民主主義は能力主義であり、みんなが同じという平等主義は間違っていると言い切る点である。橋本氏によれば、平等主義とはみんなサラリーマンになって、みんな適当に出世することを要求するものなのだという。サラリーマンになりたくない人間はどうすればいいのか?と。人間はみな違うのだ、能力というのも一本の数直線の上での数字の多寡ではなく、さまざまな指標があるのだと。ここら辺、村上龍的かもしれない。

 大きな会社には、上に役員がいて、その下に月俸者がいてAの1とかBの2とかいう序列がついている。その下に組合員である従業員がいる。まさにこれ、上に特別な人たちがいて、その下に冠位十二階があり、その下にその他大勢がいる世界そのままである。聖徳太子、おそるべし! で、現在でもときどき主君押し込めがおきる。かつて三越でそういうことがあった。最近の日経新聞社などもそれに近いのであろうか?
 著者によればアメリカの日本への言い分もしばしば、思いつきでものをいう上司なのだそうである。それに対して日本は、「ええーっ?!」といえばいいのだそうである。
 「ええーっ?!といえる日本」という本を誰か書くだろうか?