橋本治「小林秀雄の恵み」(3)

      
 小林秀雄は、本居宣長から遡って、近世における日本の学問の誕生を中江藤樹にみる。橋本治は、それはそれでいいとしても、それ以前の日本の「学問」は仏教からくるものしかないということ(小林秀雄はまったく指摘していない事実)を指摘する。それを中央公論社の「日本の名著」や岩波書店の「日本思想体系」から確認するのであるが、確かに「古事記」と「聖徳太子」のあとは最澄空海になり、以下、源信法然明恵親鸞道元日蓮・・・である。なぜなのか? 橋本治は、以下の小林秀雄の文を引く。

 戦国時代を一貫した風潮を、「下克上」と呼ぶ事は誰でも知つてゐる。言ふまでもなく、これは下の者が上の者に克つといふ意味だが、この言葉にしても、その簡明な言ひ方が、その内容を隠す嫌ひがある。試みに、「大言海」で、この言葉を引いてみると、「此語、でもくらしいトモ解スベシ」とある。随分、乱暴な解と受取る人も多からうと思ふが、それも、「下克上」といふ言葉の字面を見て済ます人が多いからであらう。「戦国」とか「下克上」とかいふ言葉の否定的に響く字面の裏には、健全な意味合が隠れてゐる。恐らく、「大言海」の解は、それを示してゐる。歴史の上で、実力が虚名を制するといふ動きは、極めて自然な事であり、それ故に健全なと呼んでいゝ動きだが、戦国時代は、このう動きが、非常な速度で、全国に波及した時代であり、為に、歴史は、兵乱の衣をまとはざるを得なかつたが、それも現代人の概念からすれば、まるで仲間喧嘩のやうなものだつた。・・なるほど武力は、「下克上」の為には一番手つ取り早い手段だつたが、この時代になると、武力は、もはや武士の特権とは言へなかつたのであり、要するに馬鹿に武力が持てたわけでもなく、武力を持つた馬鹿が、誰に克てた筈もなかつたという、極めて簡単な事態に、誰も処してゐた。武士も町人も農民も、身分も家柄も頼めぬ裸一貫の生活力、生活の智恵から、めいめい出直さなければならなくなつてゐた。

 ここで言われている「下克上」は俗世の話である。近世になるまで俗世には学問はなかったと、橋本治はいう。なぜなら『近世になるまで、著作に結実するような思考をしたのは、僧籍にある人間だけだったのである』から。俗世にいる人間は馬鹿なままだった。「下克上」によって、はじめて俗世からも知性が生まれることにことになったのだ、ということである。
 なぜそうなったのか? それまでの日本は、「実力が虚名を制する」ではなく、「虚名が実力を制する」世界であったから、俗世の知性は活用の場がなかった、と。「愚管抄」で慈円は『保元々年七月二日鳥羽院ウセサセ給ヒテ後。日本国ノ乱逆ト云コトハヲコリテ後。ムサノ世にナルニケル也』と書くが、《武者ノ世》を到来させた原因については指摘していない。《武者ノ世》の到来こそが下克上の時代の淵源である、と橋本氏はいう(この辺りの分析は本書よりも「権力の日本人 双調平家物語ノート?」(講談社 2006年)に詳しい)。
 聖徳太子の時に仏教と儒教はともに日本に入ってきたのに、なぜその後の思想は仏教だけになるのか? 平安までの時代が官僚社会であったからである。そこで必要なものは秩序で、そこに求められるものは、礼式作法であり、有職故実である。「摂関家」などという「后を出す家」が力をもった。「虚名が実力を制する体制」である。「下順上」、「下が上にしたがう」の社会である。
 そういう社会では、前例のないこと、秩序を覆すような事態は存在しないことになっている。だから、前例のないことが生じると手も足もでないことになる。「下克上」の世の中になって、あらためてそこに秩序を構成しようとすれば、儒教の読み直しが必要となる。なぜなら、日本で生活現実を生きるためのテキストとしてあったのは儒教だけだったのだから。仏教は、仏教者が生きるためのもので、俗世に生きるものには関係ないものだった。
 この儒教ルネサンスがどういう未来を開いたか? 残念ながら、それは哀しい結果しか生まなかった。それは、彼らの思考が根本のところで世の中に相手にされなかったからである。「学問は純粋に学問として存在」し、その「学問」を受け入れる場所が社会にはなかった、と。学問は学ぶ個人の内側だけにあるものだった。それは社会と関わらなかった。
 中江藤樹は「世の中に身分の差はあるが、身分の高低と学問することは関係がない」ことを発見した。「私は学問する権利を発見した」である。それまでは俺なんかが学問して物を考えるなんてことをしてはいけなんだろうなあ、身分不相応なんだろうなあ、であったのである。それなら中江藤樹は《人は皆平等である》であるの近代になぜ行き着かなかったのだろう。それはかれが孤立していたからである。しかし、その孤立は望んだもの、自分で選択したものなのか、それとも強いられたものだったのか? 小林秀雄は、それを望んだもの、自ら選択したものであるとする。
 橋本治はそれに異を唱える。それなら、それは俗世を拒んだ出世遁世と変わらないではないか、と。学問をするために必要なのは、あるいは一般に「創る」ために必要なのは、「対象と向かい合う孤独」である。しかし、それは学問する者の自閉と社会的視野の狭窄にも繋がる。江戸の体制は実際的な知識は必要としても、自分の体制を支える思想などは必要としていなかった。武士であることがそのまま「官僚」である体制が出来上がっていたので、「学問」は必要とされなかったのだ、と。儒者林羅山は、僧として幕府に採用された。儒者などは幕府体制には不要だったのである。なにしろ、昌平黌は林家の私塾であり、湯島聖堂は「林羅山の祀った孔子廟」である。幕府は本当の官学は必要とはしなかった。
 結局、儒学は、現実の外で思索した仏教の思想と同じようなものになってしまうことになった。「現実の社会体制とは関わらない個の内面のもの」と、近世の学問は自己を規定したのである。「フランス革命」を用意する思想は、そこには生まれなかったのである。そして、このことは小林秀雄のありかたとも密接にかかわっていると橋本氏はいう。
 
 内藤湖南の「応仁の乱について」(「日本文化史研究」 講談社学術文庫)に「大体今日の日本を知るために日本の歴史を研究するには、古代の歴史を研究する必要は殆どありませぬ。応仁の乱以後の歴史を知っておったらそれでたくさんです」という有名な断定がある。われわれは平安貴族の末裔ではなく、鎌倉武士の後裔なのである。武士とは武装した農民である。われわれは猫の額のような土地にしがみついて生きているのであり、だからこそ一所懸命であり、その土地の争いの調停法だけを示したような「本領安堵」のための「貞永式目」を日本人による日本人のための初めて法であると山本七平はいうのである。そこにおける由緒(所有権の正当性を裏づける文書など)と当知行(現に占有していること)のいずれに所有権を認めるかでの当知行優位の方向は、いまだにわれわれを支配している。だから株式会社は株主のものなどといわれても一向にピンとこない。会社は社員のものだとしか思えないのである。
 しかし貞永式目はほとんど内輪の取り決めに近いものでもあって、法としての正統性を主張できるようなものではとてもなかったため、形式としては律令制度の法律もまた生きていたのである。だから、いまだに日本の官僚制度は有職故実の世界にいる。たとえば、テリー伊藤の「お笑い大蔵省極秘情報」。「前例のないこと」には手も足もでないことを、“優秀な”キャリアの事務次官がみずから認めている。日本はタテマエ(=虚名=律令制)と本音(=実力=当知行)の間をいったりしたりしていて、それで、「坂の下の沼」の時代だったり、「坂の上の雲」の時代だったりすることになるのかもしれない。秩序が崩れると当知行となり、そこにふたたび秩序ができると、先例尊重。
 そういう日本において、学問が日本の実際である当知行の問題にかかわることができないのだとすれば、社会とは関わっていけないことになる。律令の法律の訓詁学のようなことをしていては、そもそも、その法律が日本人には実効あるものとしては意識されていないのだから、現実とは関われないことになってしまう。
 だから、「公家諸法度」で、天皇は「学問御専一の事」なのである。学問に体制を倒す力があると思うならば、「学問御専一の事」などといえるはずがない。日本の学問は《危険思想》にはならないと思われているのである。床の間の掛け軸であって、飾りなのである。しかし、そうはいっても飾りは必要なのであって、だからこそ、天皇制が続いてきた、というのは橋本治の説である(「上司は思いつきでものを言う」集英社新書 2004年)。《徳》の分野を受け持つのが『学問』で、それがあればこそ、現実の《実》の世界ではしたい放題、勝手放題が許される、と。
 「上司は思いつきでものを言う」で橋本治は、貴族には「官僚貴族」と「領主貴族」があるが、日本には「領主貴族」がいない、という指摘をする。「領主貴族」は「領地の相続」を争うが、「官僚貴族」は「家督権の相続」を争うのだ、と。日本で「領地の相続」が争われた例外が戦国時代で、日本の支配者はいつもは「家督権の相続」を争う。日本の支配者は「財産」や「権利」は持っているが、ヨーロッパの貴族のような「領地」はもっていない。
 ヨーロッパの領主貴族は株主で、ヨーロッパの王様は「株主に承認された会社の経営者」なのだが、日本の官僚貴族は「自社株をやたらに持っている社員」なのだという。「自社株をやたらに持っている社員」は株主総会には縛られないし、経営者ではないのだから、「経営責任」も問われない。蘇我馬子からこの方、日本の支配者達は、ずっと「官僚貴族」であり、オーナー社長に対する、「自社株を買い集める重役」でしかないのだ。という。
 日本は基本的に官僚制の国だが、例外が三つある。一つは官僚制度がまだ整わない古代。次は官僚制が混乱してしまった戦国時代。最後が、徳川幕府という官僚制が崩れた幕末維新。その時代には官僚の力が弱いので思考が自由にはばたくのだ、と橋本氏はいう。
 日本の歴史は平安時代に基本形を完成し、江戸時代にこれを大衆化し、近代になってそれまでを捨てて忘れる、というものだというおそろしい抽象化を氏はする。「基本形の完成→大衆化→捨てる」が日本史の基本パターンだ、と。「官僚の中だけにある身分制=官位」から「すべての人間におよぶ身分制=士農工商」へ。そして、一見、身分のないことになっている近代へ。
 平安時代儒教は「基本形を完成」させた。平安時代の公文書は漢文であるので、官僚は儒教を勉強し、漢文の教養を身につける。かれらが中下級の官僚となる。儒教とは中下級の官僚になれる程度の実用の役にはたった。「山の手の中流階級に必須の教養」とでもいったものであった。では上流とは? それは「家柄のいい貴族」である。そういう貴族は「色恋沙汰で日を送っていた」。そのころから、「上流と中下流は別」という日本の長い伝統ははじまる。現代の「東大出」は、平安時代の「家柄がいい」なのである。
 「下克上」がデモクラシイであるのは当然なのである。「序列という支配原理」の破壊なのであるから。
 内藤湖南によれば、「下克上」というのは直ぐ下のものが上を倒すというような甘いものではなくて、一番下である足軽、武士ともいえないような最下級のものが、上を倒したというとんでもない事態なのである。内藤湖南は「かくのごとく応仁の乱前後は、単に足軽が跋扈して暴力を揮うというばかりでなく、思想のうえにおいても、その他すべての智識、趣味において、一般にいままで貴族階級の占有であったものが、一般に民衆に拡がるという傾きを持って来たのであります」という。たとえば、門徒宗の出現である。一向一揆で百姓の集まりが信仰によって団結して立派な大名を滅ぼすようになった。とにかく、平民実力の興起においてもっとも肝腎な時代、平民のほうからはもっとも謳歌すべき時代であったのだと、内藤氏はいう。
 武士とは荘園という制度をくぐって、自力での開墾によりささやかな土地を実力で手に入れたものたちである。領主ではあるが貴族ではない。だからその土地を「安堵」してくれるものを必要とした。それが幕府である。しかし、開墾した土地は荘園の制度の外にある。だから、それを「安堵」することは、荘園制度自体を否定することではない。名目的な制度があるが、実際はその制度とは別の体制で運営されている、という日本のかたちがここでもおこなわれている。
 橋本治がいうのは、デモクラシイとは領主貴族のものである、ということである。自分が自分の主人であるひとたちのものである、ということである。だから小林秀雄が売文業を名乗ることは、自分で誰にも頼らずに生きて食べているということであるから、自立した人間であるということであり、その小林秀雄が「下克上」というデモクラシイに共感することはいたって当然のことということになる。本居宣長が町医者であったということも同様である。しかし、と橋本氏はいう。江戸時代という見事な官僚体制の中で、学問というものが必要とされなった体制の中で、学問がどういう力を持ったのか、と問う。そしてこれは小林秀雄にも向けられる問いである。明治以降の巨大な官僚体制の中で、学問をすることの意味を小林秀雄は問うているのだろうか?、と。
 それで話は、第5章「じんちゃんと私」に続く。
 

権力の日本人 双調平家物語 I (双調平家物語ノート (1))

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日本文化史研究 下 (講談社学術文庫 77)

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上司は思いつきでものを言う (集英社新書)

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