町田康 「くっすん大黒」

   [文春文庫2002年5月10日初版 原著1997年3月初版]


 「パンク侍・・・」が面白かったので読んでみた。処女作の「くっすん大黒」と第二作の「河原のアパラ」を収めている。
 このひと初めっからこうだったのね。「パンク・・・」の小道具である猿も刺青もあるし因果応報もある。それにしても濃い世界。「パンク・・・」とこの二作を続けて読むと、いささかもたれる。あと5冊も文庫本を買ってきてしまった。どうしよう。
 過剰な人である。加藤典洋は「小説の未来」で、村上春樹の小説はなくしたものを探しにいく話であるのに対して、町田の小説は、余剰なものを捨てにいく話であるといっている。
 書いても書いても捨てきれないので、また書くのだろうか? 吉行淳之介が一作書いたら、しぼった雑巾で何も残らないなどといっていたのと対照的である。
 加藤も書いているように、一見どたばたの小説の根底に異様にまじめなもの、ピュアなものがある。
 「へとへとになって(買春のあとなのである・・・引用者注)表に出ると、格子戸の脇に三歳くらいの男の子が、しゃがみこんで水たまりに手を突っ込んでなにか洗っている。手元を見ると、子供が洗っているのは、丸い石である。自分は子供に尋ねた。「なに洗ってんの」子供は答えた。「これは綺麗にしておかなければいけないの」「なんで。ただの石じゃない」「うんそうだよ。これはただの石なの。だけどね。だけど大事なものの卵なの。だから綺麗にしておかなければいけないの」男の子は、自分の目をじっと見たのである。やれん。」
 という「河原のアパラ」の一節は、ピュアなものが露呈する一瞬なのであるが、「やれん」という絶妙な反応をふくめて、読者に残る。
 たしかに、やれん。こういうものはやっては?いけないのであるが、それでも、これがあることによって主人公のくりかえすどたばたがどこかで聖化するのである。太宰治なら、マイナスのカードをすべて集めたらプラスにならないかしら、とかいうのだろうか?