筒井康隆 「銀齢の果て」 

  [新潮社 2006年1月20日初版]


 困った小説である。
 小説は近未来?の日本が舞台で、老人が増え、7人の老人を一人が養うという事態を解決するために発案された厚生労働省直属のCJCK(中央人口調節機構)公認の老人相互殺人合戦をえがいたものである。この「シルバー・バトル」ではひとつの地区において最後に生き残った老人一人のみが生存をゆるされる。ラベルのボレロではないが、末尾の方で若干の転調がある以外は、ひたすら殺し合いの過程の描写に小説は終始する。
 筒井氏の作品は「大いなる助走」(文藝春秋 1979年)も、「文学部唯野教授」(岩波書店 1990年)も、ともにクライマックスが大量殺人(もっとも「唯野教授」では夢の中で)であった。筒井氏は大量殺人が好きなようである。しかし「大いなる助走」も「唯野教授」も、読んでいて筒井氏にとってこれが書かれるべき作であることが読者に納得できるものとなっていた。それに対して、この作品がなぜ書かれなければならなかったのか、それがわからない。
 動機はいやがらせであろう。禁止用語やタブーに充ちたマスコミに、おれはこんなことまで書いてやったぜ、という姿勢を見せてやるということなのであろう。しかし、ここで書かれているようなことは巷ではすでにささやかれていることなのである。大きな声ではいわれていないとしても、小さな声では公然といわれているのである。だから全然「毒」にならない。むしろ読者に媚びているように思えてしまう。
 作者は老人問題について真剣には考えていないのである。「大いなる助走」の末尾ではないが、この作は「現実から逃避」させて、人を考えることから遠ざけるものである。かつて筒井氏は「みだれ撃ち涜書ノート」(集英社 1979年)においても、「文学部唯野教授のサブ・テキスト」(文藝春秋 1990年)でも、健気といいたいくらいお勉強をしていた。それが今どう考えても老人問題についてお勉強をしているとは思えないのである。なんだか「大いなる助走」において殺されてしまう研鑽を一切放棄してしまっている大家たちの方に近くなってきてしまっているようにも思えてしまう。これだけ大きな問題を単なる殺人ゲームとして書いてしまうということは、思考が停止してしまっているのではないだろうか?


(2006年3月29日ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/より移植)

銀齢の果て

銀齢の果て