U・セーゲルストローレ 「社会生物学論争史」(1)

   [みすず書房 2005年2月初版]

  • S・J・グールド 「パンダの親指 進化論再考」 [早川書房 1986年5月初版]

 1975年に刊行されたE・O・ウイルソンの「社会生物学」の原著は700ページ弱の大部の一巻本であったようであるが、日本での翻訳の「社会生物学」は5分冊として刊行された(思索社1983年10月〜85年2月)。「社会生物学」は動物の社会行動を生物学の観点から説明しようとしたものであるが、この本が評判になった(あるいは悪評の的になった)のは最終章でヒトの社会行動までをも生物学的に説明しようとしたからである。
 翻訳刊行当時どのような関心から「社会生物学」の翻訳を買ったのかもうよく覚えていないけれども、おそらくは人間の社会を生物学により説明するということへの賛否両論を耳にしていて、それに関心をもったためであろうと思う。
 多くの人にとってもそうであったのではないかと思うけれども、わたくしにとっての「社会生物学」への関心はもっぱらヒトの社会の生物学的説明であったから、全5巻を購入してはみたものの、最終巻にある「ヒト:社会生物学から社会学へ」だけ読み、大したことは書いてないなあ、なんでこれがこんな論争になったのだろうなあという疑問を感じたなり、それきりになっていた。
 そもそも人間が動物であるということは言うまでもない当たり前のことであるが、人間は文化をもった故に他の動物とは異なる存在となっているという見方もまた広く流布している、それで、文化もまた生物学的基盤を持つとするウイルソンの見解は、文化の故に人間は他の動物とは隔絶した存在になっているとする信条をもったひとの神経を逆なですることになったわけである。そして、西欧キリスト教文明下においては、人間は他の動物と異なり、唯一《魂》をもつ存在なのであるから、その人間がつくりあげた社会組織までも他の動物と同じ生物学的基礎をもつなどというのは怪しからんという反応がでるのはけだし当然であるのかもしれない。
 どうも、わたくしはキリスト教的な《人間が他の動物とは比較を絶する優れた存在である》とする見方が嫌いで、自分の一生を超越的な存在を仮定することなしに終わりたいと思っているところがある。「聖書」とか「歎異抄」とか「般若心経」とかを読むような人間になったら負けだと思っている。だから「社会生物学」のような本を読もうと思ったのかもしれない。
 しかし「社会生物学論争」とは、そういう人間=動物派とキリスト教原理主義=創造説信奉者との争いではない。人間=動物派内の争いであり、人間がどの程度動物かについての争いなのである。ここに登場するのはE・O・ウイルソン以外に、その敵S・J・グールドとそのグールドの盟友ルウォンティン、そのまたその敵ではあるがウイルソンとの関係も微妙な、ドーキンスといった人たちである。
 恥ずかしいことに、S・J・グールドの「パンダの親指」のような本、ドーキンスの「利己的な遺伝子」のような本を、わたくしはその違いもわからずにダーウィンの進化論の啓蒙書として、面白い面白いと思って読んでいた。彼らの敵は西欧の頑迷なキリスト教であると思っていて、彼らがお互い通しで鞘当をしていることにほとんど気がついていなかった。もちろん、グールドやドーキンスがお互いに批判しあっていることには気がついてはいた。しかし、それは進化説を受けいれた上での学問上の些細な見解の相違であるとばかり思っていて、世界観、人生観をかけた全人的な対決であるなどということには思いがいたっていなかったのである。
 でも多くの人がそうではないかと思う。グールドの進化論啓蒙書は全世界で読まれているし、ドーキンスの「利己的な遺伝子」もまたベストセラーである。両者ともに生物の世界はダーウィンの考えでしか理解できないということを言っている。そういう本を読んで、われわれは進化論あるいはダーウィン説について何かを知るであって、ダーウィン理解における両者の見解の差といった学界内部のコップの中の嵐のようなことにはあまり関心をもたない。そういうことに関心をもつのは、もう少しこの学問分野に深入りしている人たちだけであろう。それなら、そのコップの中の争いを描いた本書のような本をわたくしが読む理由はないことになる。しかし、社会生物学論争は学界内部のささやかな嵐ではないのである。セーゲルストローレの本でとりあげられている対立は、われわれの世界の様々なことに関連している。

 天動説の世界で呼吸すれば
 だれだって詩人になれるだろう
 遺伝子と電子工学に支配されている人間は
 物にすぎない
 単なる記号にすぎない (田村隆一「牡蠣」 部分)
 
 であるとしても、ここにでてくるウイルソンやグールドといったひとたちは、物でもなく記号でもなく、もっと生々しいのである。ドーキンスだけはいささか物か記号である嫌疑がないとはいえないように思うが。
 それで以下、「社会生物学論争史」に沿いながら、それとかかわりのある本を参照して、いくつかの問題について考えていきたい。
 
 社会生物学論争の参加者はみなダーウインの進化論を議論の前提としている。社会生物学を批判した人たちの主張は以下のようなものである。『適者生存という論理を認めると、現在生き延びてきている生物は最適者であるということになる。そうであるなら、現在の世界は《もっともよい世界》であることになる。もしも人間にも他の生物に適応される進化の論理が適応されうるものならば、人間の世界もまた現状が最適な状態であるということになり、一切の変革を要さない状態であるということになる。それは、矛盾にみち様々な改革を必要としているわれわれの世界の現状から目を背かせるウルトラ保守主義に道を開くものである、よって人間にも進化の論理を応用する試みは粉砕せねばならない。』
 しかしダーウイン理論を認めれば、現状が最適の世界であると認めることになるというのも変な話である。最適どころか次善でもなく、進化というのはつぎはぎだらけで進行してきているのであって、鰓がいつの間にか肺になりという間に合わせの連続できている。養老孟司がいっているように、年寄りが餅を喉に詰まらせて死ぬような体の構造が最適なものであるはずがないのである。だから、選択が人間まで連続としていることを認めても、われわれの世界が最適のものとなっているというようなことにはならないはずであって、むしろ進化が実現できなかったものを、われわれは文化で補正しようとしているとすることのほうが、よほど常識的な見方であるように思う。
 グールドの「パンダの親指」に所収された「完全と不完全」と題された第一部はまさにその点を論じている。笹を器用につかむパンダの親指は実は本来の親指ではない。人間の親指にみられるような他の4本の指と対向してものをつかむ指という構造はかなり珍しいものなのだが、人間の親指に相当するパンダの本来の親指は対向側にある(対向側には5本の指がある、その一本)。パンダの親指(つまり6本目の“指”)は橈骨種子骨という骨が転用されたものである。最初から完全構造を目指すのであれば、他の骨を転用するなどということをする必要はない。パンダの親指がそうなっているのは、パンダの親指が進化の歴史の産物であるからである。
 かつて生物の構造が完全であるということをいうひとたちは、それゆえにそれは造物主のデザインなのであると主張した。しかし、パンダの親指が示すのは、そういう構造が最初から完全なものとして作られたのではなく、進化という歴史の産物である間に合わせのものであることを示している。ここでのグールドの説明はきわめて説得力に富むものであり、わたくしは、この部分を読んでいてキリスト教原理主義者、創造論者にむかってグールドは書いているのであると思っていた。
 もし変異と淘汰ということで進化を説明するとすれば、そこには方向性というものがないことになる。とすれば、現状は最善どころではないことになる。それを激しく嫌うひとも多くいて、その例としてグールドはアーサー・ケストラーを挙げている。ケストラーは進化というもに方向性を見出したいのである。100万年前よりも今のほうが優れていると思いたいのである。それでケストラーは獲得形質の遺伝という見方をすてきれない(「サンバガエルの謎 《異端の生物学者カンメラーの悲劇》」(サイマル出版会 1975年) 「ホロン革命 JANUS」(工作舎 1983年)など)。つまりダーウイン進化論は、ある人には現状が最善の世界であることを示すものとなるし、別の人にとっては世界はまったく偶然の産物、最善どころか何の目的もないものとして、ただそこにたまたまあるだけのものとなる。ケストラー的な見方、進化にはある方向性があり、そこに向かって進んでいるとする見方は現在ではそれを採用するひとはほとんどいないであろう。しかし1980年に原著が発表された「パンダの親指」執筆の時点では、グールドはそれに反論する必要を感じていたようであり、数ページを反論に割いている。再び書くが、わたくしはこの部分を読んで、キリスト教原理主義的見方、創造説的見方への反論としてこれを書いているものであるばかり思っていた。
 ダーウイン進化論を、現在の世界は淘汰を潜り抜けてきたものだけで構成されているのであるという見方であるとすれば、現在の世界はありうべく最善の世界であることになり、ほとんど造物主のデザインという見方に近いものに収斂してしまう。グールドの主張が、創造説のほうにではなく、世界は淘汰の結果であるので最善であるとする見方への反論であるということは、以前「パンダの親指」を読んでいたときにはまったく考えなかった。
 したがって、「(生物学的決定論は)米国における1910−30年の断種法および移民制限法の制定、そしてさらにはナチス・ドイツにおいてガス室の創設をもたらした優生政策にとっての重要な基盤を提供した。こうした使い古された理論を甦らせようという最新の試みが、社会生物学という新しい学問分野の創造と称するものとともに訪れるのだ」というようなグールドをふくむ反=社会生物学グループの主張が「パンダの親指」にも反映していることには、考えも及ばなかった。この反=社会生物学グループの議論の仕方は非常に奇妙なものであることには誰でも気づく。というのは、ウイルソンが「社会生物学」でしている主張それ自体が正しいか否かではなく、社会生物学という学問の主張は例えば優生学に通じるうるものであるから、その主張自体をすべきではない、という議論になっているからである。
 こういう形の議論はごく普通にあって、たとえば男と女の生物学的差(そんなものはあるに決まっているのであるが)を論ずることに対して、そういう研究は、現在虐げられいる女性を援助し、女性差別を撤廃しようとしている人たちの真摯な運動に水をさすものであるから、研究自体すべきではないというような意見は、それほど珍しいものではない。この場合もそれは二つにわかれる。ひとつは「あなたはただ事実として男女の生物学的差を調べようとしているのかもしれないが、それが結果的には女性解放運動を妨害することになるのですよ」というものであり、もうひとつは「男女の生物学的差を調べようなどという人間は、みなこころのどこかで、男が女より優れていると思っているのだ。だから、すべてそういう研究をする人間は許すべからざる男性優位論者なのだ。」というものである。
 「パンダの親指」にもそれに関する話題がとりあげられている。「女性の脳」と題する章である。ここでの主人公はブローカ博士である。われわれ医者にとってはブローカ失語でおなじみのブローカ博士であるが、この人はとんでもない?研究をしていたらしく、男の脳と女の脳の重さを量り、男が平均1325グラム、女が平均1144グラムであるという事実を提示し、「(女性の脳が小さいのはただ身体が男より小さいだけだからという人もいるが)女性は平均して男性ほど理知的でないことを忘れてはならないのであって、このちがいは誇張すべきものではないとはいえ、やはり真実なのである。したがってわれわれは、女性の脳が相対的に小さいことは一部は体格上の劣等性によるのであり、一部は女性の知能上の劣等性によると推定してよいであろう」などというおそろしいことをいっていたらしい。
 さて問題はまず男女の脳の重さの差というのが事実であるのかという点である。グールドは、ブローカのデータのもとになった脳を提供した男女の年齢を問題にする。どうも女性のほうが平均年齢が高いらしい。脳は加齢とともに萎縮する。とすれば、この差は誇張されているのではないかという。さらに体格の差をどのように補正すればいいのかにつしても確立した原理がないことを指摘する。つまり、脳の重さの差は純粋に体格の差のみに由来するかもしれないということをいいたいようである。しかし男女の平均身長差というものは間違いなくあるのだから、脳もまた男のほうが女よりも平均すれば重いということはきわめて蓋然性の高い推論であるとは思う。とすれば、それを確かめるために、男女の脳の重さを量るという研究をすることは禁止すべきなのだろうか?
 そもそもそういう研究をしようと思うのは男が女より優れているということをいいたいからなのだろう、そういう偏見を前提としているからそういう研究を意図するのだろう、というのがグールド側の主張である。確かにブローカさんはそういう非難に該当しそうな人物であるという気がする。それで、ウイルソン、お前もだ!、というのがグールド側の主張となる。
 「社会生物学」の著者であるE・O・ウイルソンは、本来、蟻などの社会性昆虫の研究者である。それと同時に単一の原理で多くのことを説明する「イオニアの魔術」の熱烈な信奉者である。それで、蟻も動物、人間も動物。蟻も社会生活をしている。人間もまた同じ。そうだとしたら人間の社会生活も生物学的に説明できるはずというかなり単純な乗りで「社会生物学」を書いた可能性が高い。セーゲルストローレのいうように、ウイルソンは政治的にはきわめてナイーブな人間で、「社会生物学」を書くことにより、自分が優生政策の信者だなどといわれるようになることは予想だにしていなかったに違いない。
 だからウイルソンにとって、グールドらの抗議はほとんど言いがかりに等しいものなのであるが、一方、グールドやルウオンチンなどの陣営の人間にとっては「社会生物学」のような本が政治的意図なしで書かれるということが信じられない。だからウイルソンもまたそうであるに違いないということを疑ってもいないから、自分たちが難癖をつけているなどとは思いもしないのである。
 そこで科学者が二種類にわけられることになる。科学というのは価値から自由な無色透明なものでありうるとする人間と(ウイルソンなど)、人間のあらゆる行動はその人間の価値観や政治観から自由でなどありえないのであり、人間の活動のひとつである科学研究もまた価値から自由な無色透明なものではありえないとする人間(グールドなど)である。社会科学や人文科学は価値観から自由ではないということには多くの人間が賛同するであろう。問題は自然科学研究である。自然科学の研究者のほとんどは、自分は価値などという問題とはまったく関係のない場所で研究をしていると思っている。なぜなら自分は事実について研究しているのであり、事実は価値とはかかわらないからである。切り出された脳はただ目の前にあるのであり、その重さがどのくらいであるかは事実の探求であって、価値などということにはかかわるはずはない、ということになる。しかし、それなら、なぜ、男女の脳の重さの違いということを検討してみようと思ったのか?、という問いが飛んでくる。そこに山があるから、などという答えでは許してもらえないのである。
 およそ人間にかかわることで価値と無関係なことなどあるだろうかという問いが生じる。社会科学や人文科学はそもそも人間学であるかもしれない。昆虫を研究する生物学者は価値とはかかわらないかもしれない。しかし、それでも、宇宙を研究する物理学者よりは価値と関係するかもしれない。われわれ人間もまた生き物であるという点で、生物学者は物理学者よりは価値に近い位置にいるかもしれない。宇宙にはじまりというものがあるのか?はじまってからどこくらいの時間がたっているのかよくしらないけれども、そこに或る法則を見つけようとすることは、一種の抽象化作用なのであるから、人間と無関係ということはないかのかもしれない。そもそも学問というものは人間の頭脳の活動なのであるから、人間的な営為であり、すべて価値とかかわらないということはないのかもしれない。
 医学について考えてみよう。医学とは人間にかかわらないことにはほとんど関心をもたないという畸形の学問である。獣医学というもののあるが、それは畜産にかかわる動物かペットとして飼われる動物以外にはほとんど興味を示さない。人間がかかわらない動物には関係ないのである。
 内臓の機能はマウスでも人間でもあまりかわらないかもしれない。だから動物としての人間にかかわる部分のある程度はマウスで代用して研究できる。マウスで研究をするのは、あくまでその研究が人間に外挿できるという見込みからおこなうのであって、マウスの病気を治してあげたいなどという慈悲心からではない。
 スタート・ラインは人間の悩みであり、苦しみであり、それがあるが故に医療という行為が必要とされるようになる。肺炎を治すにはどうしたらいいのかという問いは、その前提として肺炎を治すべきであるかということことを根底にもっているはずであるが、考えるまでもない自明のことして、通常は疑問として提出されることはない。
 肺炎を治すべきかという部分が価値にかかわる部分であり、そこから先のどのようにして治したらいいかは価値にかかわらない部分であるので、通常、医療者は価値の問題にはかかわらないですんでいる。
 しかしながら、病気になるということが神意であり、天罰であるとされるような集団においては、病気を治すべきかどうかは、決して自明のものではない。われわれ医療者が《エホバの証人》信者である患者さんを前にして戸惑うのは、そのためである。あるいは病気は祈りによって治せると思っている患者さんを前にして戸惑うのもそのためである。医療者は病気を祈りによっては治せないと思っている。なぜなら、祈りは病気という《事実》と接点をもちえないからである。祈るかわりに手術をしたり、薬を使ったりすべきであると思う。そして、まれには祈りによって治ったとしか思えない患者さんを目にすることがあると、祈りには免疫を賦活する働きがあるのだろうか、などと思う。
 ウイルソンの「社会生物学」があれだけの議論を呼んだのは、価値という問題についても、また生物学からの解答がありうるのではないかというようなことを示唆したからである。しかし「社会生物学」でヒトについて論じているのはたかだか70ページくらいであり、1200ページ以上になる本のごく一部を占めるにすぎない。そして、その内容といえば、人文科学や社会科学といわれる分野にも生物学がある程度の貢献ができるかもしれないということをごく控えめに述べているにすぎない。何でこれが、それほどの反響を呼んだのか正直理解できない。
 セーゲルストローレもいうように、「社会生物学」出版当時、反対派が大騒ぎしたことによって、人間社会の生物学的研究というのが一つの学問分野として確立されてしまい、人びとの関心があつまることにより、それ以降、むしろ急速な学問的進歩をとげることになったのである。
 ということで、長くなったので、それ以降のことについては稿をわけることにする。
 

(2006年3月13日ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/から移植)

社会生物学論争史〈1〉―誰もが真理を擁護していた

社会生物学論争史〈1〉―誰もが真理を擁護していた