西郷信綱 廣末保 安東次男 編 「日本詞華集」
[未来社 1958年4月10日初版 2005年6月1日復刊]
この本のことは、どこかで丸谷才一氏が論じていたので知ってはいたが、読んではいなかった。最近、復刊されたらしく偶然本屋で見つけた。
風土記・万葉集から芭蕉を経て近代にいたる日本の詩歌のアンソロジーである。丸谷氏が論じていたのは、ここに収載されている梶井基次郎の「檸檬」についてで、編者は散文詩として採用したのであろうが、それは間違いであり、「檸檬」は小説であって散文詩ではないというような主旨のことであったように記憶している。これにかんしては丸谷氏に賛成である。ぱらぱらと読んできて、梶井基次郎のところにくるといかにも異質であることを感じる。
古代、中世、近世、近代と進んでくると、近世まではほとんどが和歌で、近世では俳諧が入るのだが、それに対して、近代では近代詩に多くのページが割かれ、それに短歌、俳句が付録としてつけらるような体裁になっている。近代でもまた、短歌、俳句が中心で、それに近代詩が少し付されているというのであれば、歴史は連続するのであるが、そうではなく、いきなり近代詩主体になってしまうのである。
それで、近代詩の最初が、小学校唱歌「蝶々」
てふてふてふてふ。菜の葉にとまれ。/ なのはにあいたら。櫻にとまれ。/ さくらの花の。さかゆる御世に。/ とまれよあそべ。あそべよとまれ。
第3聯。「さかゆる御世に」であったことを知らなかった。
次が「於母影」の「ミニヨンの歌」
「レモン」の木は花さきくらき林の中に
こがね色したる柑子は枝もたわゝにみのり
晴れて青き空よりしづやかに風吹き・・・
これは7・5調ではない。6・4・7・3/8・4・7・3/7・4・5・4・・・
ところが宮崎湖處子の「流水」では7・5調。いとけなき時魚とりて/遊びし川を来て見れば・・・。国木田独歩は「山林に自由存す」では7・5調ではないが、「たき火」では7・5調となっている。そして、藤村では、「まだあげ初めし前髪の/林檎のもとに見えしとき・・・」である。当初抵抗したにもかかわらず、結局、近代詩は近世の俳諧から韻律を受け継いでしまったわけである。それがふたたび啄木・光太郎の時代に否定されていくわけであるが、光太郎の「雨にうたるるカテドラル」の「おう又吹きつのるあめかぜ」の繰り返しなど、格好いいなあ、と思うと同時に、7・5調を否定して韻律をつくる苦しさなのかなとも思う。あるいは堀口大學の「夕ぐれの時はよい時」の 夕ぐれの時はよい時/かぎりなくやさしいひと時、の繰り返し。
ここで収載されている近代詩の最後は金子光晴と原民喜である。その後に短歌と俳句がでているといかにもそぐわない。短歌の最後が吉野秀雄、俳句の最後が石橋秀野。わたくしは短歌にも俳句にもいたって疎いが、ここに収載されているものに目を通す限り、私小説の世界に通じる世界であるように思う。たぶん、私小説はどこか芭蕉の世界とも通じるのであって、近世と連続性がある。近代詩の部分だけが近世までの詩歌と連続性がなく、水と油なのである。だから本書は、近代でも最初に短歌と俳句をおき、付録として近代詩を収載したほうが、本の構成としてはすわりがいいだろうと思う。ところがわれわれが近代以降で詩歌として第一に思い浮かべるものは短歌・俳句ではなくいわゆる近代詩といわれるものなのである(わたくしがそう思うだけであって、多くの人にとっては短歌・俳句が現在でも詩歌なのであろうか?)。現代音楽といわれるものがあって、それを作曲しているひとがいるが、多くの人にとっては音楽とは歌謡曲であり、ポップスである。この現代音楽が現代詩なのであり、歌謡曲、ポップスが短歌・俳句なのであろうか? そんなことをいったら現代の歌人・俳人は怒るであろうし、短歌も俳句も芸術なのであるというであろうけれども。
日本の詩歌の歴史において、和歌のちに俳諧は散文の機能をはたしてきたのではないだろうか。17字、あるいは31字で、あることを述べようとしてきたのではないだろうか? すでに韻律は確定しているのである。容器はすでに完成している。あとはそれに何をいれるかである。どの国の言語でも詩から散文という方向に言葉は変化していくのであろう。相当に古い時代から日本語において散文機能をも詩歌が担っていたとすると、それは大変なことである。そして現代はいうまでもなく散文の時代なのであるから、そこで詩を書くということは途方もなく大変なことなのである。
「辻征夫詩集成」の付録についている谷川俊太郎氏と辻氏の対談で、谷川氏は「ぼくは現代詩人で俳句をやる奴は全部裏切り者だと思っている」といっている。それは5・7・5という韻律の問題として論じられているのであるが、現在において俳句をよむことはいわば日記を書くことに等しい散文機能をもってしまうため、詩の最低限の要請である韻文を書くということ自体から背馳してしまうという問題意識もあるように思う。散文を書くことは考えることであり、描写することであるが、詩を書くことはそれからの飛躍がなくてはならない。
本書は古代からの日本の韻文の歴史を提示しようとするものである。それは、日本文学の連続性をそこに見ようとするからなのであるが、実際に出現しているものは日本の近代詩(ここでは収載されていないけれどももちろん現代詩も)の異様な孤立と不連続性ということである。
あそこには、なによりわたしの言葉がすつかり通じ、かほいろの底の意味までわかりあふ、/ 額の狭い、つきつめた眼光、肩骨のとがつた、なつかしい朋党達がゐる。(金子光晴「落下傘」部分)
俳句も短歌もこの仲間うちで通じる言葉でよまれる。近代詩や現代詩は通じない言葉で書かれる。通じない言葉で通じさせる、それが現代詩のめざすところであるが、実際にはそれはほとんど言語のコミュニケーション機能を拒否するに等しいから、読む人がほとんどいないものとなってしまう。
言葉の一つひとつを洗濯し、手垢を落としていくとどんどんと流通性がなくなっていく。流通しない言葉とはほとんど言葉の定義に反するようなものであるが、そういう痩せた言葉で詩がかかれざるをえないことになる。
もっとも、これも誰か一人でも大詩人がでてくれば解決してしまう問題なのかもしれない。荒川洋治氏がいうように、村上春樹氏が詩の世界に移ればいいのかもしれない。そもそも、現代の多くの詩人が書いている大部分の詩よりも、村上氏の短編小説のほうが、よほどこれまで詩がはたしてきた機能を現在では担っているのかもしれない。
(2006年3月29日ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/より移植)
- 作者: 西郷信綱,安東次男,広末保
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