須賀敦子「ミラノ 霧の風景」

 白水Uブックス 2001年
 
 今調べてみたら須賀氏の本は、河出書房新社の「須賀敦子全集 第1巻」、全集を文庫化した河出文庫版の全集の第1巻と第2巻、白水Uブックスの「ミラノ 霧の風景」をもっていた。ひどい話で、「ミラノ 霧の風景」については3つの本を持っていたころになる。最初に単行本ででたときは買わなかったが、全集が出たときにまず買い、ちらっと読んでそのままになり、文庫化された時にまた買い、またそのままになり、今回読了した白水社版はわたくしの持っているのは2010年第12刷となっているから一番最近購入したもののようある。同じ本を何度も買うのはボケの進行のためであろうが、河出の全集は1巻に単行本3冊くらいをおさめていて、かなり分厚い。それにくらべるとこの白水Uブックスス版は、文庫よりやや背が高いが薄くて手になじみ、とっつきやすい。それで、今回の入院の機会にようやく読了することができた。というのは多分に弁明なのであるが。
 須賀氏の書くものは分類すればエッセイということになるのであろうが、日本で随筆というと何もない日常を達意の文章で書くというようなものが多い。しかし須賀氏のものは、河出全集の第一巻の「解説」で池澤夏樹氏がいっているように、基本的には「イタリアという異国の話」の「報告」である。伝えるべき、報告すべきものがまず先にある。小説で有名になった作家が自分の日常の報告をするというような日本の随筆とは異なり、無名の書き手の自分ではあるが伝えたいことがあり、それで書いたものが読み手を打ったために本が売れたという、日本においてはかなり稀有な事例が生じたわけである。
 それならば「報告」の内容が読者をとらえたのか? そうではなく書き方であったのだと思う。書くべき(報告すべき)ことと自分との距離のとりかた、あるいは書くべきことをどのように書き記すかという文体の決定の問題、それらが解決されたときにはじめてこの「ミラノ 霧の風景」が生まれてきたのだろうと思う。
 そしてそのためにはそれまでの翻訳の経験が非常に重要な役割を果たしたはずである。まず詩の翻訳をしている。それからナタシア・ギンズブルグの「マンゾーニ家の人々」といった方法論についてきわめて意識的な本(であろうと本書や全集第2巻に収載されたエッセイなどからは推測される)を翻訳している。自分と自分が書こうとしていることの間にどのような距離を取り、それをどのような文体で書けばいいのか?という問題意識があり、それに一定の方向がみえた時にはじめて筆をとることができたということなのだろう。
 驚くべきことには、自己陶酔的な筆致がまったく見られない。「そもそも若いころから私は滅法と言ってよいくらい翻訳の仕事が好きだった。それは自分をさらけ出さないで、したがってある種の責任をとらないで、しかも文章を作ってゆく愉しみを味わえたからではないか」という文を書く人である。《自分をさらけ出したい》がために書いているのではないかとしか思えないひとが多い中で、《自分をさらけ出さない》(それがある意味では、責任をとらないことでもあると自覚したうえでであるが、それならば、自分をさらけ出したいから書いているひとが責任をとる気があるのかといえば、自己陶酔ほど責任をとることから遠い姿勢もない)という目標を自覚しているひとなのである。
 本文中にしばしばイタリアの詩人の詩が引用、紹介されている。これは須賀氏自身が詩の翻訳もしているからなのでもあろうが、日本で翻訳家といわれるひとの中で詩を翻訳することをも自分の仕事と思っているひとがどのくらいいるだろうか? 日本で翻訳された小説を読んでいて奇異に感じるのは、詩があるとその部分だけ文語体で訳してあること少なからずあることである。詩に全然関心がないのか、あるいはまったくわかっていないのではないかと思わせる。そうであれば、翻訳の文章にもまたあまり関心がないのではないかと邪推されても文句はいえないのかもしれない。須賀氏はそれで生活できるなら、詩の翻訳を主にしていたかったひとなのではないだろうか? 当然、散文の文章にも意識的であったはずである。「乾燥した東京の冬には一年に一度あるかないかだけれど、ほんとうにまれに霧が出ることがある。夜、仕事を終えて外に出たときに、霧がかかっていると、あ、この匂いは知っている、と思う。十年以上暮らしたミラノの風物でなにがいちばんなつかしいかと聞かれたら、私は即座に「霧」とこたえるだろう。」という文章は詩の翻訳がもたらしたものなのだろうと思う。
 この文章は、「十年以上暮らしたミラノの風物でなにがいちばんなつかしいかと聞かれたら、私は即座に「霧」とこたえるだろう。乾燥した東京の冬には一年に一度あるかないかだけれど、それでも東京にも、ほんとうにまれには霧が出ることもある。夜、仕事を終えて外に出たときに、霧がかかっていると、あ、この匂いは知っていると思う。ミラノの日々を思い出すのである。」などとしてしまったらまったく感興のわかない文章になってしまう。ここでの主役は「霧」であって「私」であってはいけないのである。
 全集の第5巻の「詩の翻訳」の巻も読んでみたいと思う。しかし、詩の翻訳は原語と対になっているべきであると信じているにもかかわらず、わたくしはイタリア語がまったくわからない。それなら、ちょっとでも勉強するべきなのだろうか?
 

須賀敦子全集 第1巻 (河出文庫)

須賀敦子全集 第1巻 (河出文庫)