M・ユルスナール「ハドリアヌス帝の回想」

 白水社 2001年

 これを読んだのは、入院中に読んだ須賀敦子氏の「ミラノ 霧の風景」をきっかけに、「コルシア書店の仲間たち」「トリエステの坂道」「ユルスナールの靴」と読んできて(「ヴェネチアの宿」はスキップして)、その中で「ユルスナールの靴」は作品としては今一つと思われたが(他にくらべて未発酵というか、自分の中で十分に熟していないうちに書き出してしまった印象で、ユルスナールという作家との距離のとりかたが混乱していているように思う。ひとことでいえば、ユルスナールという靴は須賀氏に合っていない。)、それでもユルスナールという作家に興味をひかれたためである。そういえば「ハドリアヌス帝の回想」という本は買った記憶があるなと思いだし、本棚の奥からようやくのことで探しだしてきた。2001年の刊行で「ユルスナール・セレクション」全6巻の第一回配本とある。現在もこの6冊は新装版として刊行されているようであるが、「ユルスナール・セレクション」というくくりはなくなっているらしい。現在、自伝である「世界の迷路」3部作というのが刊行がはじまったようで、最初の「追悼のしおり」が最近、刊行され、残りの2冊も今年から来年にかけて刊行される予定になっている。
 十年前になんでこの本を買ったのかはもう覚えていない。その当時、評判になっていたのだろうか? モンタネッリの「ローマの歴史」の解説で訳者の藤沢道郎氏は「古代ローマというと、だれでも学校で少しは習っているにもかかわらず、われわれ日本人には案外なじみの少ない世界である。古典古代でも、ギリシャの方がはるかによく知られているように見える」といっている。確かにその通りでプラトンアリストテレスといえば何となく他人ごとではないような気がするし、自然科学のほうでも「イオニアの魔術」であって起源をたどるとギリシャにいきつくような気がする。しかしカエサルなどといってもそんなひともいたらしいねというだけであるし、五賢帝の名前も西洋史の試験が終わってしまえば霧の彼方である。しかしヨーロッパではそうではないらしく、藤沢氏によれば、「長いこと初等教育でも中等教育でも、ラテン語が正課として教えられてきたが、ギリシャ語がそんな扱いを受けたことはついぞない。キケロアウグストゥスの方が、デモステネスやアレクサンドロスより、ずっと身近に感じられるらしいのである」ということである。やはりキリスト教ということなのであろうか?
 ユルスナールがこの本を書くことになったそもそものきっかけは、若いころにフロベールの書簡集を読んでいて「キケロからマルクス・アウレリウスまでのあいだ、神々はもはやなく、キリストはいまだない、ひとりの人間のみが在る比類なき時期があった」という文をみつけたことであったらしい。五賢帝のひとりのハドリアヌスはAD117年から138年まで在位しているのだから、もちろんキリスト後であるのだが、ハドリアヌス時代にはまだキリスト教はあまたある新興宗教の一つに過ぎなかったわけである。ユルスナールはそういう時代における「ひとりの人間」を描こうとしたわけである。
 本書は老境に到り死を意識したハドリアヌス帝が後の皇帝マルクス・アウレリウスに書き残す回想という形式をとっている。したがって一人称で書かれており、濃密な文章が綿々と続くので、邦訳でたかだか300ページほどを読むのに1週間くらいかかってしまった。書かれていることはすべて史実を踏まえており、その2千年前のできごとを現代の読者に独白体で読ませてしまうというのはとんでもない力技である。ユルスナールというひとの作家的な力量にはただただ脱帽するばかりである。
 わたくしは、何かいいたいことあるいは考えたいことがあるときに小説を書くなどというのは随分と迂遠な行為ではないかと思っているのだが、本書を読むとやはり小説でしかできないとことがあるのだということを強く感じる。一人の人間を描くということである。その描かれた人間を知ったからといって、べつにどうということはないが、それでも豊かにはなれる。「神々はもはやなく、キリストはいまだない、ひとりの人間のみが在る比類なき時期」という言葉はすぐに西洋におけるキリスト教の重さということを思わせるのだが、幸いなことにキリスト教という荷物を背負わずに済んだ日本にいる読者であるわたくしが読むのとヨーロッパの人間が読むのでは自ずと感想は違ってくるのであろう。わたくしからみるとハドリアヌスはひとりの近代人である。
 この小説の巻頭にあるハドリアヌスの辞世?の詩というのは初めて知ったのだが(須賀氏の本でも、そして一部モンタネッリの本でも紹介されてはいたが)、有名なものなのだろうか?(須賀氏は「あの有名な」と書いている。)
 
 Animula vagula, blandula,
 Hospes comesque corporis,
 Quae nunc abibis in loca
 Pallidula, rigida, nudula,
 Nec, ut soles, dabis iocos...
 
 たよりない、いとおしい、魂よ、
 おまえをずっと泊めてやった肉体の伴侶よ、
 いま立って行こうとするのか、
 青ざめた、硬い、裸なあの場所へ、
 もう、むかしみたいに戯れもせず・・(須賀氏訳)
 
 こういう詩は、「キリストはいまだない」時代のものである。これの訳が「遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん、遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動がるれ。」になるなどということはないのであるが。
 
 少し時間をおいて、今度は、同じユルスナールの「黒い過程」を読んでみようかと思っている。しかし、これは中世ヨーロッパの錬金術師の話らしい。ローマ以上に疎遠な世界である。はたして読み通せるだろうか?
 

ハドリアヌス帝の回想 (ユルスナール・セレクション)

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須賀敦子全集〈第3巻〉 (河出文庫)

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ローマの歴史 (中公文庫)

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