トルストイ「戦争と平和」

  岩波文庫 2006年


 今回、これを読んだみたのは、昨年岩波文庫から新訳がでたからなのだが、昨年、一度読み出して、2巻ほど読んだところで、このままいくと4巻くらいから続刊待ちをすることになることに気づき中断、あらためて今年の4月くらいから読み直した。
 以前読んだのはほぼ半世紀前の中学生のころで、本棚から出してきてみたら、原久一郎訳の新潮文庫であった(全8巻、一冊100円!)。酸性紙で黄ばんでいたが、びっくりしたことに、訳文は旧仮名なのであった。中学当時は読んでいて、旧仮名であることはまったく意識しなかったように思う。その当時は旧仮名の本がまだまだ多かったのであろうか?
 全体の筋はまったく記憶になかったが、ピエールと熊事件とか、アンドレイが戦場で見上げる青い空とか、ナターシャが誰にもいってはいけないといわれたことをすぐに言いまわる場面とか、狩りのシーンとか、いくつかの場面は覚えていた。アンドレイの妻の突然の死の場面はありありと覚えていた。
 岩波文庫では全6巻で、最初の4巻くらいまでは面白い、面白い、これこそ小説!と思って読んでいたが、後半三分の一はなんとなく牽引力がなくなってきた。例のトルストイの歴史哲学がでてくるとどうもいけないようである。
 モームは「世界の十大小説」のなかの「戦争と平和」の章で、トルストイがそのような哲学?を思いついた理由の一半として、ナポレオンを英雄ではなく俗物として描きたいという欲求があったからではないかといっている。ナポレオンを否定したいがために、すべての英雄を否定したいという方向に走ったのではないかというのである。その動機はともかく、そこで述べられていることは床屋政談の範疇をでるものとは思えなくて、延々と読者がそれを聞かされるのは迷惑としかいいようがない。それにもかかわらず、それがトルストイのもっともいいたいことであったのかもしれないところが小説の不思議というか面白くも困ったところである。
 モームは「戦争と平和」をあらゆる小説の中でももっとも偉大な小説といっているし、ストラーホフという人が、「人間生活の完全な縮図・・・人間が幸福と偉大さ、悲しみと屈辱をその中に見出すあらゆるものの完全な縮図」といっているも紹介している。誰だったかがギボンの「ローマ帝国衰亡史」を一個人が歴史を通観できる最後の時代にギボンが生まれたといっていた。現代の小説家は、とてもこのように全体を見通したような書き方はできないであろう。19世紀という時代は、個人と体制のバランスが小説を書く上では一番よい状態にあったのかもしれない。20世紀の小説はどうしてもカフカ的な部分をもたざるを得ないし。そういう点ではトルストイはよい時代に生まれたのかもしれない。
 中学生の時に読んだ時点では全然記憶に残らなくて、医者になった今、非常に印象に残ったのは、第3部第1篇16章である。トルストイは医者は病人に害をなすだけであるから、何もしないのが最上の対策であるというヒポクラテス的というかなんというか、その当時としてはいたって正しかったであろう医療観の持主であったようで、医者が薬を出したにもかかわらず良くなった、というような皮肉を書いているくらいである。この章でいわれていることはプラセーボ効果といわれるものの本態をあますところなく描いていて、そのまま医学の教科書に載せたいくらいである。ここに描かれた医者の像はとても滑稽であるが、単なるプラセーボ効果を自分の投薬の薬効と信じているところなど、そういう医者は今でもたくさんいるだろうな、と思う。
 そういう他を見る場合にはきわめて的確な批評をできたトルストイが、自己判断においてはまったく駄目であったということが、P・ジョンソンの「インテレクチュアルズ」(共同通信社 1990年)にあますところなく描かれている。優れた芸術家というのはほとんどの場合、人間としてはとんでもない場合が多いようである。自己を妄信し過信できる人間でなければ、創作というのはできないのかもしれない。
 優れた小説というのはみなそうなのかもしれないが、アンドレイもピエールも、あるいはボルコンスキー老公爵も、みんなわたくしのことを描いているように思えるのが不思議である。しかし、ナターシャもマリアもエレンも少しも自分のこととは思えないから、そこには男と女の溝という永遠の問題があるのかもしれない。女性が「戦争と平和」を読んで、ナターシャやマリアやエレンを自分のことと思えるのだろうか、というのが謎である。

戦争と平和〈1〉 (岩波文庫)

戦争と平和〈1〉 (岩波文庫)

世界の十大小説〈上〉 (岩波文庫)

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インテレクチュアルズ

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