小松秀樹「医療崩壊」(2) 「Ⅰ 何が「問題」なのか」

 まず第一章「何が「問題」なのか」をとりあげる。
 その冒頭、

 医療とはどういうものかということについて、患者と医師の間で考え方に大きな齟齬がある。患者は医療が万能であり病気はすぐ発見され、たちどころに治療ができると思っている。また、一部の患者は自分への奉仕をあらゆることに優先されることを医師にもとめる。一方、医師は、医療には限界があるばかりか、危険なものであることを知っている。また、多忙な業務の中で、優先順位を付けて行動せざるをえない。メディア、警察、司法が患者側に立つため、この齟齬が社会問題にまでなっている。医師は、患者やその家族の無茶な期待に時として肩入れするメディア、警察、司法から不当に攻撃されていると感じている。

 ここでいわれていることはまったくその通りであると思う。しかし、ある職業がどのようなものであるかについては、利用するものが十全な理解を持つべきであると利用者に要求することがどの程度まで可能であるのかについて、わたくしは小松氏ほどの信念はもつことができない。たとえば、昨今、強い攻撃の的になっている教員などもまた医者と同じことを感じているかもしれない。だから、文章は次のように言い換えられるかもしれない。

 教育とはどういうものかということについて、児童の親と教員の間で考え方に大きな齟齬がある。児童の親は教育が万能でありいじめの兆候はすぐに発見され、たちどころに対処できると思っている。また、一部の親は自分の子供への奉仕があらゆることに優先されることを教師にもとめる。一方、教師は、教育には限界があるばかりか、危険なものであることを知っている。また、多忙な業務の中で、優先順位を付けて行動せざるをえない。メディア、警察、司法が子供とその親の側に立つため、この齟齬が社会問題にまでなっている。教師は、子供やその家族の無茶な期待に時として肩入れするメディア、警察、司法から不当に攻撃されていると感じている。

 一時期(今もかもしれないが)の銀行員もそう感じていたかも知れないし、政治家などはつねにそう感じているかもしれない。

 政治とはどういうものかということについて、一般の国民と政治家の間で考え方に大きな齟齬がある。一般の国民は政治が万能であり問題はすぐ発見され、たちどころに対応がなされるべきと思っている。また、一部の国民は自分への奉仕があらゆることに優先されることを政治家にもとめる。一方、政治家は、政治には限界があるばかりか、危険なものであることを知っている。また、多忙な業務の中で、優先順位を付けて行動せざるをえない。メディア、警察、司法が一般の国民の側に立つため、この齟齬が社会問題にまでなっている。政治家は、一般の国民の無茶な期待に時として肩入れするメディア、警察、司法から不当に攻撃されていると感じている。

 といった具合である。
 わたくしが小松氏の本を読んで感じるかすかな疑念は「医療は特別なものである」あるいは「医者は特別な存在である」という考えがどこかにあるように感じられないでもないことから生じているように思う。医療というのも一つの職業であって、特別なものではないとわたくしは思う。人の命を預かるという点で特別であるということであれば、電車の運転手も飛行機のパイロットも、その点では同じであると思う。あらゆる職業にはその職業に特殊な固有性があり、医療にもまた医療に固有な特殊性があるということであり、その職業の特殊性をまわりが理解してくれないからといって、それを非難することはできないと思う。もちろん、その特殊性を啓蒙することは大事であるし、まさに小松氏は本書でそれをしているのであるが、読んだ人がそれを同意しないことはありうるわけである。
 それで「人が死んでいくことは、当たり前のことで、そう悪いことではない。(中略)医療の不確実性は人間の生命の複雑性、有限性、医学の限界に由来する。医療行為は生体に対する侵襲を伴い、基本的に危険である。これを患者に正確に分かってもらえるようにするのは至難の業である」ということになる。
 まさに至難の業であろうと思う。養老さんの「バカの壁」は300万部だか売れたそうで、そこにはまさに「人間の生命の複雑性、有限性、医学の限界」についても書いてあるわけだが、それがベストセラーになっても日本人が少しでも変わったとは思えない。相変らず「脳化」したままで「身体」を忘れているわけである。読んだことはたんに読んだだけで、ちっとも身に沁みないわけである。

 医療には限界がある。しかし、多くの患者はこれを実感として理解していない。すべての人間は必ず死ぬということは分かっているが、自分や自分の家族の問題として捉えていない。生命を守ることを医学の任務とするならば、医学は最終的に、100パーセント任務遂行に失敗する。

 本当にその通りで、だから、医療の任務は生命を守ることではないのだが、医者だって医者になった途端にはそのことを本当には理解していないだろうと思う。すくなくともわたくしは理解していなかった。医者を何年かやっているうちに、ある時そのことを卒然と悟るのである。最初から、医療の任務は「生命を守る」ことではなく、「生命をうまく終らせる」ことであると思っている医者などいるだろうか?
 医学生時代にある先生(記憶違いでなければ、物療内科の日野助教授)から「きみたちが、患者さんを治そうなんて思わなくなって、患者さんが治っていくのを傍でみているだけという状態になれると、少しはいいお医者さんになれるんですがね」と言われたことがあるが、そういう言葉の意味が本当にわかるのは医者になって何年もしてからである。だから、「医療には限界がある」があるということを患者さんの側に実感として理解してもらうのは無理だと思う。

 個々の診療行為の説明がいくら詳しくても、患者は細かいことをすぐに忘れてしまう。そもそも、医療がどういうものなのか、患者に正しく認識してもらうことが重要である。個別診療の説明より、医療の不確実性と限界を理解してもらうほうが不毛の対立を防ぐのに役立つ。

 ということで、虎の門病院では、手術の同意書に前文に以下のような文章を記載しているのだそうである。

 多くの診療行為は、身体に対する侵襲(ダメージ)を伴います。通常、診療行為による利益が侵襲の不利益を上回ります。
 しかし、医療は本質的に不確実です。過失がなくとも重大な合併症や事故が起こり得ます。診療行為と無関係の病気や加齢に伴う症状が診療行為の前後に発症することもあります。合併症や偶発症が起これば、もちろん治療には最善を尽くしますが、死に至ることもあり得ます。予想される重大な合併症については説明します。しかし、極めて稀なものや予想外のものもあり、全ての可能性を言い尽くすことはできません。こうした医療の不確実性は、人間の生命の複雑性と有限性、および、各個人の多様性に由来するものであり、低減させることはできても、消滅させることはできません。(後略)

 わたくしが虎の門病院に入院して手術を受けることになり、その前にこの同意書を見せられたら、「バカにしやがって」と思うのではないかと思う。「責任逃れに走りやがって」とか思うのではないかと思う。「医療は不確実なものですから、なにがおきても当方の責任ではありません」と書いてある文章を見せられたのとあまり変らないのではないだろうか? 飛行機に乗る前に「航空機事故は、過失がなくても数万飛行に一回おきえます。それを承知の上で搭乗してください」と書いた紙を渡されてもうれしくはない。
 大体、手術の承諾書は、それを承諾しなければ手術が受けられないのだから、半強制である。それにサインしたからといって、患者さんの側がその説明を理解し了承したことにはならない。
 医療に関係する行為の中でもっとも危険が高いものの一つが分娩である。相当の頻度で事故がおきる。だから、本書にもあるように産婦人科医のなりてがどんどんと減少しているのだが、妊娠が判明して分娩を希望する妊婦さんに、妊娠・分娩にかんする危険性について正しい情報をこんこんと言ってきかせるべきなのだろうか? あるいはまず子供をつくることを考えてるいる人に、妊娠・出産というのがいかに危険をともなうものであるのかを啓蒙するのが正しいやりかたなのだろうか? 妊娠したらば、自動的に元気な赤ちゃんが生まれて当たり前と思っている能天気な親世代に、ぜひとも実態を知ってもらうべきなのだろうか?
 大体、手術をうけるかたのかなりは、がんである。多くのひとにとってがんの宣告は死の宣告である。これまた、本当は決してそうではないのだが、患者さんの側の受け取りかたは依然としてそうである。養老氏の「バカの壁」にあるように、がんの宣告を受けた人間は自分が変り、世界が変る。わたくしが昔、ある患者さんに「実は大変きびしいお話をしなければいけないのですが、あなたの病気はがんであることがわかりました。それでその治療についてなのですが・・・」といって、・・・のあと一時間くらい、治療方針とか治療法について説明したのだが、あとになって患者さんが、・・・のあとの説明を一切記憶していなかったのがわかってびっくりしたことがある。あとできくと「がんです」という言葉をきいたあと、頭がまっ白になり、その後は何をきいてもまったく受けつけなくて、ただボーッとしていただけということであった。がんの手術の説明の最初に、「医療は本質的に不確実です。過失がなくとも重大な合併症や事故が起こり得ます。診療行為と無関係の病気や加齢に伴う症状が診療行為の前後に発症することもあります。合併症や偶発症が起これば、もちろん治療には最善を尽くしますが、死に至ることもあり得ます」などと書いてあっても、上の空であろう。患者さんのききたいのは、おれの病気は治るのかどうかということであって、医療にかんしての一般論などではないはずである。

 裁判官や検察官を含めた司法の論理と活動が、医療を危機的状況に追い込んでいることは間違いない。このままずるずると医療が崩壊していくとなると、司法が医療に悪い影響を与えたことになる。

 事実、医療は崩壊しつつあると思うのだが、実際に医療がある程度崩壊しないと、司法の論理と活動は変らないだろうと思う。司法の人も論理だけでは動かされないだろうと思う。具体的な事実によってしか変らないだろうと思う。何らかの「外圧」がないと変らないだろうと思う。どの程度、崩壊すればこれはまずいと思うか、気がついたときにはもう遅いのか、まだ間に合うのか、それはわからないけれども、たとえば本書を読んだだけで司法の人が変るとは思えない。理屈としてはわかるけれどでお終いであろう。これから医療が崩壊するぞという予言だけでは動かない。あるいは動けない。実際に崩壊しつつある、という事実をともなってはじめて動く、あるいは動けることになるのはないかと思う。

 加藤弁護士は医療裁判には患者側の主張を阻害する三つの壁があるという。専門性、密室性、封建制である、
 これについては加藤弁護士の主張する通りである。専門性の壁は大きく、普通の患者に立証責任を負わせるのは無理がある。密室性、封建制はわが国の医療が持つ宿痾であり、根本的な解決が必要である。(中略)
 最大の問題は大学の医局講座制になる。医局講座制の閉鎖性、封建制が自由な発言と行動を抑圧した。また、医療を不透明なものにしてきた。言論の自由はなきに等しかった。

 わたくしは密室性の最大の原因が医局講座制であるとは思わないけれども、本書の最大の功績は、実名を挙げて他の医師のこなった医療行為を具体的に批判していることであると思う。密室性の最大の原因は医者が相互批判をしないこと、お互いに庇いあうことにあったのだとわたくしは思っている。なぜ庇いあってきたのかといえば、『医療は本質的に不確実であり、過失がなくとも重大な合併症や事故が起こり得、診療行為と無関係の病気や加齢に伴う合併症や偶発症が起こる』ことがいくらでもありうるからで、だから他の医師の行為が間違っていると思えても、『医療は本質的に不確実』なのであるから、そういうやりかたもあるのかなということになり、そういう『医療の本質的な不確実性』を素人である患者さんにわからせることは不可能であるから、専門家である医師がお互いの内部で処理してしまってきたからである。医者同士がお互いに庇いあっているという不信感が払拭されない限り、医者への『不当な攻撃』はなくならないだろうと思う。
 本書を読んで非常に気持ちがいいのは、非常に理性的で限度をわきまえた同業者の批判がなされている点である。こういう批判がもっと自由に広範におこなわれるようになれば、医療への信頼は格段に高まると思う。そのような自由な言論を封じているものは、小松氏によれば、医局講座制なのであるが、わたくしはそれよりももっと根の深い医師の専門性へのこだわり、「プロフェッションとしての自由」への拘泥であると思う。臨床行為とは経験によって高められた芸のようなものであり、それをだれによっても拘束されずに自由におこなうことは医師の特権であり、そこへの素人の介入は決して許さないというような姿勢である。
 前回述べたように、しかしそこからは、それをさせないためには医者の無謬性の神話を維持する必要がでてくるし、医師の権威は守らねばならないことになるから、相互に庇いあい、相互に隠す体質もまた、自ずと生まれてくることになる。
 しかし、小松氏が率先しておこなっているような医師同士の相互批判の結果として、医療行為に警察が介入してくるようなことになれば、自由な相互批判などできないではないかという点から、次の「警察介入の問題」の章の論点がでてくることになる。