B・ゴールドエイカー「デタラメ健康科学」(5)

 
 第10章「メディアが科学をおとしめる」は大した話題がないし、第11章「なぜ賢い人がばかなことを信じるのか」は統計の初歩のような話なのでパスして、

 第12章「誤った数字が用いられることの恐ろしさ」
 マスコミは大げさな数字を好むので「相対リスク増加」の数字を好んで用いる。「50代で心臓発作をおこすリスクが50%高くなる」というのは、絶対リスク増加でいえば「リスクが2%高くなる」ということであり、「1100人あたり二人増える」というのが自然頻度による表現になる。しかし、これはマスコミだけでなく製薬会社の人が医者に説明する場合でも同じだと思う。
 めったにおきないことをどう予測するかというのはきわめて難しい問題である。たとえばHIVの血液検査の精度を考えてみる。その間違いの率が0.01%だったとする。もしも検査対象のHIV感染率が1.5%だとする。そうすると150回に一回ミスがおきることになる。しかしもしも感染率が1万人に一人であるとすれば、ミスは2回に一回おきることになる。陽性とでても本当に陽性である確率は50%である。
 こういう話を読むと、大地震がおきる確率という議論にどのような意味があるのだろうと思う。統計には大原則がある−「結果を見て仮説を立てるな」である、と。一年前に大地震があった。あったことを知ったうえで過去の事例をみると、いかにも大きな地震の発生を示唆しているように見えてくる。
 
 第13章「メディアがありもしない健康不安をあおる」
 MRSA(メチシリン耐性ブドウ球菌)いわゆる院内感染で一番問題になる菌についての話である。イギリスでの実際の話であるようで、「検査を依頼すると必ずMRSA陽性」という結果を返してくるある研究所の話。この研究所は台所のついた物置程度の施設で、とてもまともな検査施設ではないのだが、マスコミからはMRSA感染とたたかう聖地として英雄的に扱われていたらしい。ここに査察が入ると全国MRSA感染者支援の会などから弾圧であると抗議が入るのだという。なぜこうなるのか? マスコミは「医学界全体がぐるになって恐ろしい真実を隠そうとしているのであり、自分はそのとてつもない陰謀を暴いているのだ」という妄想にふけっているからなのだと著者はいう。
 わたくしは日本のマスコミというのは特にひどいのではないかと思っていたのだが、本書を読んで考えを変えた。世界どこでも同じなのである。
 それで、
 
 第14章「メディアが広めた新三種混合ワクチンのウソ」
 はしか、おたふく風邪、風疹に対するワクチンMMRの話。イギリスではこのワクチンが自閉症の原因なのではないかというので非常に大きな話題になったということであるらしい。9年間ほどもその騒ぎは続いたので、と。まったく知らなかった。「怒れる親」対「冷淡な学者」という図式でマスコミは煽りに煽ったのだそうである。
 ワクチンというのはどこでも恐怖症をおこすものであるらしく、しかも著者も指摘するように世界中どこででもおきるにもかかわらず、騒ぎは地域限定であるらしい。MMRが自閉症の原因ではないかと騒いでいるのはイギリスだけ。フランスではB型肝炎ワクチンが多発性硬化症の原因になるのではないかと1990年代に大騒ぎになったらしい。これまたわたくしはまったく知らなかった。各地の政治・社会問題が影を落としているため、そうなるのだと著者はいっている。
 さて、そのイギリスでのMMR=自閉症騒ぎは「ランセット」に載った一編の論文が発端らしい。わたくしがびっくりしたのは後からみるととんでもないものとしか思えない論文が「ランセット」という一流誌に受理されているということである。これも後から見るからなんとでもいえるということなのだろうか?
 そしてこの章を読んでうなったのだが、イギリスにもまた強力な予防接種反対の活動家というのがいるらしいのである。日本に著しく多いのではないかと思っていたのだが・・。著者がいうには「一部の新聞記者やテレビ司会者は、とにかく政府や医療制度を攻撃したいとつねづね思っていたのだろう」と。世界どこでも同じなのだなあと思う。本章を読んで初耳で面白かったのはブレア首相夫妻というのがどうもニューエイジ運動の信奉者である疑いがある人のようであるという指摘である。子供にMMRを接種させなかった嫌疑があるらしい(その代わりに息子の体の上で水晶の振り子を振らせたといわれているのだとか。やれやれ)。ブレアさんというひとは知性がありそうに見えるのだが、どうも知性とそういうことを信奉するのは別らしい。
 こういうことがおきる背景には、みなが「大企業は油断がならず、政治家は信用できない」と思っていることがあると著者はいう。そして著者もまたそのことには同意するのだが、しかしだからといって「巨大製薬会社は悪だから代替療法のほうがいい」という短絡に走るのもまた浅はかであるという。
 とにかくこの騒ぎでイギリスにおけるMMRの接種率は下がり、結果、麻疹とおたふく風邪患者は著しく増えているのだそうである。ワクチン反対派はそもそも麻疹やおらふく風邪自体が大した病気ではないのではないかという。流行ったからといって大したことではないのだ、と。
 著者はいう。ワクチンをどう考えるかはその人の勝手である。麻疹もおたふく風邪もそれほど大した病気でないといえばそうかもしれない。それでも麻疹で死に至ることもないことはなく、おたふく風邪髄膜炎や睾丸炎をおこすこともある。そのリスクとメリットを秤にかけて自分で判断するのであればそれはそれでいいのだ、と。
 
 世界どこにもワクチン反対派というのはいるらしいことが本章でわかったが、それと同じで、(これも世界どこにでもいるのかもしれないが)ワクチン普及命というようなお医者さんもまた少なくとも日本にはいるようで、その人たちのいうことには先進国ではしかの流行があるのは日本だけである、国辱である、というようなことになる。どうもそれは嘘らしいことがわかった。
 本章あたりになって著者の文化系嫌い、文化系=科学を理解できないバカというような感情があらわになってくるのだが、しかし理科系が科学を理解しているのかというとそうとばかりもいえないのではないかと思うので、医者が理科系かどうかは大いに疑問であるかもしれないが、医師免許証をもっていて変なことを言っているひとはたくさんいるのある。数日前にも、新聞に○○酵素とかの大々的な宣伝が載っていた。
 日本の医者はマスコミから迫害されているという被害者意識が極めて強く、そのマスコミ嫌いというのは大変なものある。マスコミは「マスゴミ」などと蔑称されている。些細なことを針小棒大にいって訴えてくる札付きの患者の味方をし積極的にその後押しをしているとと思われていることがその最大の原因であると思われるが、これはかなり日本に特有なことではないかと思っている。日本は死刑が存続している珍しい国で、それは裁判というのが敵討ちの変形である、あるいは国が行ってくれる敵討ちであると思われていることに起因しているのではないかと思う。医療事故あるいは医療ミスがあれば、誰かがその敵をとってくれなければ困るという感情が患者さんや家族の側にあり、マスコミがその応援団になるのである。敵討ちと科学が両立するはずがない。
 しかし、そのマスコミも最近は少し論調が変わってきているのではないかとわたくしは思う。それは最近の日本では医療崩壊といわれる事態が生じてきていて、それにいささか自分たちのいままでやってきたことも関わっているのではないかとさすがのマスコミも思ってきたためなのではないかと思う。もちろん「科学」的に反省したわけでは決してなく、自分たちが報道してきたことにより医者も少しは態度を改めてきたようだし、自分たちの報道とは関係なく諸般の事情の重なりで日本の医療がいささか困難な状況になってきているのも事実のようだから、今しばらくは少しは筆を抑えようかというあたりなのかもしれないが。
 わたくしの偏見では、日本のマスコミは偉そうなご高説を唱えることは大好きなのであるが、実はそれで何かが変わるとは思っていないのではないかと思う。変わらないと思うからこそ安心してご高説を唱えることができるので、一昔前の「何でも反対」の日本社会党のようなものである。変わるかもしれないと思えば発言がもう少し慎重になるのではないかと思う。60年安保の時の新聞論調の変化を覚えているひとであればそう思わざるをえないのはないだろうか?
 
 さてそれならば、著者のゴールドエイカー氏がイギリスの医療に警鐘を鳴らすことで何かが変わるだろうか? それを論じているのが「最後に一言」の章で、ここで著者は急に弱気になる。ここで批判されたひとたちは「頭にきたり、不服に思ったり」するかもしれない。でも結局はきみたちの勝利なのだ、と。マスコミの一番目立つところを占拠しているのはきみたちだし、テレビでしゃべったたわごとをみなが広めてくれる。
 著者はその弊害は、現在の医療は医者と患者が二人三脚で治療の方向を探る時代であるにもかかわらず、それを阻害することにあるのだという。それはデタラメ科学が文化を蝕んでいるからだ、と。
 しかし、と著者はいう。代替療法のようなものを「私たちは好きなのだ」と。代替療法には私たちを惹きつける何かがあるのだ、と。確かにそうなのだと思う。著者は「デタラメ科学が文化を蝕んでいる」というが、代替療法に何かを感じるようなひとは「科学の見方が文化を蝕んでいる」と心の底から思っているのである。科学というような浅薄な営為で人間という玄妙複雑なものがわかってたまるものかと思っているのである。だから代替医療には何かしら神秘的なものがある、そこがいいのである。それを科学的でない、あるいは科学の見地からみれば砂糖玉に過ぎないなどといっても何の効果もないのである。効果がないどころか、科学からみると効果がないはずのものが実際には効果がある(とかれらは思う)ので、さらにその神秘を信じることになってしまう。
 大部分のひとにとって、科学は所詮頭での理屈に過ぎない。本当に腑に落ちる理解ではない。体全体でそうなのだという理解になることはほとんどない。ただの理屈でしょ!ということになる。「でも本当に○○は効く! だってわたしの××が治ったもの!」ということになる。
 著者はいう「新聞のばかげた報道を防ぐのは絶対に無理だ」と。だからブログを始めよう、と。「あなたが情報を発信するのは、知識が素晴らしいことを知っているから」なのだ、と。
 しかしブログを書いたって多勢に無勢なのだと思う。「たとえ100人でも情熱を分かちあえる人がいたら、それで十分」と著者がいう通りで、ごくわずか何人かデタラメ健康科学の罠?に落ちそうなひとを救う?ことができればもって瞑すべしであって、多数派を形成することなど論外である。
 われわれにできることは、誰かに「ひょっとすると自分の考えは間違っている可能性もあるかな?」と誰かに思ってもらうことまでであって、「ブロガーの考えを正しいものとして信じさせること」などできもしないし、してはいけないことである。
 なぜマスコミがおかしいのかといえば、「自分たちの言っていることは正しいから信じなさい」といっているからなのであって、「多分間違っているのかもしれないけれども、ひょっとするとこういう考えもできるのではないだろうか?」という形での主張の提示などするはずもないからである。
 世の中に何か正しいことがあって、それをわれわれが知ることができるという見方自体が傲慢不遜なのであるが、科学を嫌うひとは科学がそのような不遜な人間の集団であると思っているのだし、マスコミを嫌うひとはマスコミこそがそのような傲慢な人間の巣窟なのだと思っている。
 それでも少しづつ、ほんの少しづつはましになってくる、それを期待しながら、一歩づつ進んでいく、本当にそれしかないのだと思う。
 

デタラメ健康科学---代替療法・製薬産業・メディアのウソ

デタラメ健康科学---代替療法・製薬産業・メディアのウソ