小田中直樹「日本の個人主義」 

  ちくま新書 2006年6月10日初版
  
 大変大きな問題を論じてはいるが、語り口は軽い本である。読んでいる途中、どこかで読んだことのある文体と論調だなあ、と思っていたが、ああそうか、浅羽通明さんかなと思い至った。どことなく似ているような気がする。
 大塚久雄をモデルケースとして、日本の個人主義を考えてみようというものである。
 終戦直後には、民主主義の定着に敵対するものとして批判の対象となったのが、《親分的》雰囲気をよしとする集団主義であった。それを打破するためにぜひとも導入されることが必要であるとされたのが《個人主義》であったのだが、その問題は、構造改革に敵対するものとしての集団主義とそれに対抗する個人主義の問題として、現在ふたたび蘇っているという。
 その構造改革も、教育における子どもの「生きる力」すなわち「自ら学び自ら考える力」の養成という問題も、みな個人主義の問題と関係する。日本で個人主義が問題となるのは、それが導入されない限り経済成長が達成されないという考えが根底にあると著者はみる。日本は欧米諸国のキャッチ・アップを終わったので、もう自分の進路とできるモデル国はない。これからの行き方は自分で考えねばならない。
 日本の戦後の個人の自立と自律をめぐる議論の主導者の一人はいうまでもなく丸山真男であった。また法的な面から家族制度を議論した川島武宜もいた。国外からの分析としては有名なルース・ベネディクトの「菊と刀」があった。
 そういう流れの中の一人として大塚久雄もいたわけであるが、大塚はイギリスの独立自営農民(ヨーマン)を自説のキーワードとした。また大塚はウエーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の説も肯定し、自律した独立自営農民がプロテスタンティズムを受容したことが、イギリスの工業化と結びついたとした。
 しかし、一方ドイツにおいて自営層がナチスを支持したことに大塚は衝撃を受けた。
 ウエーバーの徒でありエトスの問題を重視した大塚は、単に制度の変革では駄目であり、人間もまた変わらなければいけないとした。
 丸山・川島・大塚らの路線を戦後啓蒙と呼ぶことにしよう。
 一方、欧米では、1970年代から、思想界ではいわゆるポストモダン思想が主流となり、日本にもそれが輸入され、戦後啓蒙路線は西欧近代を範とする時代遅れの近代主義であり、もはや古くなったものとして、批判の対象になっていった。自律した個人という見方に反対したのがポスト・モダンである。
 これらの流れを見据えた上で、小田中氏は「主体性がなかったら<わたし>は<わたし>でなくなってしまうような気がする」という奇妙な論理から、脳科学認知科学にむかう。そしてピンカーがいう「心」とは、自分がいう「主体性」と同じであるという断定をくだす。さらに、脳が言語を生みだすのだから、ソシュールの主張する《言語の恣意性》は、脳科学の面から否定されるという、相当乱暴な議論をする。
 啓蒙については、カントの有名な「<敢えて賢こかれ>、<自分自身の悟性を使用する勇気をもて!>は自分の目標でもある、という。
 大塚は農地改革の問題をきわめて重視した。ただ大塚はイギリスの農業の労働生産性の高さと、日本の農業の水田中心であることの労働生産性の低さという彼我の差を重視し、高い生産性のある場所でのみ近代的人間類型が作られるのであるから、日本はモンスーン地帯という地理の制約によって、個人の自律は難しいという「一つの宿命」があると考えた。だから、制度改革だけでは駄目で、個人の心性を変えねば駄目だとした。そこで教育が重視されることになった。
 ここで《他者の自律を他律的に実現すること》という問題が生じると小田中氏はいう。《強制を自発的に受容させる》という矛盾である。そこで大塚久雄は宗教意識を最後の拠り所とすることになる。しかし、宗教意識とは自分よりも上位のものの存在を認め、それに従うことである。いまの自分が絶対であるということを放棄しなくてはいけない。
 人間の主体性を重視する大塚史学は、社会発展の必然性を主張するマルクス主義の陣営から批判された。
 また1968年の学生の反乱において、丸山真男大塚久雄の行きかたは、エリートが民衆を指導するというパターナリズムであるとして批判された。民衆に対する他者啓蒙はパターナリズムによるおせっかいであるとされた。反パターナリズムも一種の個人主義であるから、大塚流の個人主義が別の個人主義から批判を受けたことになる。
 そのころから勃興した歴史学における民衆文化論は、大塚の主張の根底にあるイギリスの工業化を担ったものは独立自営農民であるという説自体への大きな疑問を提出した。
 さらに最近では中野敏男が、大塚らの主張は「主体性」とはいうが「全体に奉仕する主体」であり、国家へ奉仕する主体であるという批判を提示している。大塚は自己中心的で利己的な個人には反対したのである。中野の説がポストモダンと通底することはいうまでもない。この中野説に小田中氏は共感する。
 自己決定とパターナリズムの問題は生命倫理の問題で先鋭的にあらわれてくる。
 さらに根本的な問題として、自律したくない個人がいたらどうしたらいいのかという問題もある。
 今世紀に入り、啓蒙とくに他者啓蒙は評判が悪い。
 宮澤俊義は「八月革命」説を唱えた。敗戦は一種の革命だったというのである。
 個人の自律と社会の変革は直接関係はない。丸山真男によれば、自律していることが何かを変えるという行動にでる前提である。自律せず既成事実に屈服するならば、何もかわらない。「ある」と「する」の違いである。
 大塚が理想としたのは、自分で考え行動するだけでなく、他者への関心をもって社会変革にあたるような人であった。
 自律と財産所有は関係するか? 社会的関心と経済成長の関係は? 自律と社会的関心の関係は?
 オルテガは大衆を「慢心しきったお坊ちゃん」であるとした。
 E・フロムは自由な個人は孤独に耐えられなくなり、自由から逃避するとした。
 現在ではネオ・リベラリズムとよばれる説が大きな力をもっている。それへの批判からコミュニタリアニズムが生まれた。これもポスト・モダンの影響下にある。
 社会変革や経済成長の先にあるものを問題にするひともいる。アドルノやホルクマイスターらであり、文明化(啓蒙)自体を批判の対象とする。
 一方ではリバタリアニズムのような極端な自由尊重の立場もある。
 
 以上読んできて、著者小田中氏の立位置が今ひとつよくわからないのだが、ポスト・モダンは行き過ぎであるとして、昨今の個人主義復権にはある程度好意的だが、一方、丸山真男の説にも共感するというのだから、個人主義といっても簡単に一筋縄でいくものではないぞ、というようなことなのだろうか?
 わたくし自身のことを考えると、20歳ごろは進歩的文化人が大嫌いだった。福田恆存の信者でその尻馬に乗っていたから当然といえば当然なのだが、進歩的文化人は他人のことばかり言っていて自分のことを考えることをしない馬鹿なのだと思っていた。
 自分のことを考えない人間は馬鹿なのだとしたわけなのだから、その当時のわたくしは個人主義のシンパなのであったのかといえば、そうではない。進歩的文化人のほうを個人主義者であると思っていた。自分の頭でなんでも考えられると思っている能天気と思っていた。
 カソリック無免許運転を自称する福田恆存の本(「芸術とはなにか」とか「人間・この劇的なるもの」など)にぞっこんいかれていたので、個人の自律とか自立などということを主張する人間は何もわかっていないと思っていた。それに進歩的文化人陣営の人間はえらく浅薄な人間観を持っていて、人間の恐ろしさとか度し難たさということについて、考えてもいないのではないかとも思っていた。
 つまり、進歩的文化人は、自分たちのことを《良い人間》だと思っているのではないかと思っていた。自分のことを《良い人間》であると信じられるなどというのは、自分の心の中を一度だって覗いてみたことのない、とてもおめでたいひとに違いないと思っていた。
 以上の見方は一部は、小田中氏の本の中に登場人物の中では、宗教に最後の拠り所を見出す大塚久雄(この場合は無教会派キリスト教)に近いかもしれない。
 しかし、福田恆存の場合には人間を変えることによる社会変革などというものをまったく信じていない。そういうことを信じられる人間をおめでたいとするのである。人間は度し難いものであるから、何か自分を超える大きなものと一体感を感じることの中にしか、自分の限界を超える方策はないとするのである。
 一般に、保守主義者は、その自分を超える何かとして伝統というようなものを持ち出す。個々の人間を超えた歴史の集積への帰依の中にひとの生きる意味を見出す。そういう保守主義の一面というのは、本書ではほとんど考慮されていないように見える。わずかにコミュニタリアニズムがとりあげられているくらいであろうか? しかし本書でもいわれているように、それはポスト・モダンと通じるものであるから、ほんものの保守主義とはまったく関係ない。
 本書でとりあげられている保守主義者の代表はオルテガであろうが、それを小田中氏がどう評価しているのかは書かれていない。オルテガが大衆をあてにできないものとして否定的にみたのは事実であるが、丸山真男にしても当時の農民などまったく信用していなかったわけで、氏が望みをつないだのはインテリ層なのである。
 一方、民衆文化論の立場からいえば、まともで独自な生き方をしているのは大衆のほうなのであり、インテリなどは所詮根無し草である。そこを突いて敵をなぎ倒したのが吉本隆明であった。安保闘争当時、吉本氏が福田恆存江藤淳などを評価したのは、敵の敵は味方ということではなく(江藤氏がその当時左右どの位置にいたかは微妙であるが)、インテリの根の浅さという自覚をどの程度もっているかによって、さまざまな人を評価したからである。
 ようするに、進歩的文化人は、自己認識においておめでたい状態だったわけである。
 社会の変革などと進歩的文化人がいっても、大衆は自分たちの指導についてくればいいとしているのであり、大衆の生活がどのようであるのが望ましいかについては、自分たちがすでに知っているとするのであるから、これは究極のパターナリズムである。
 もしも、パターナリズム個人主義の対極にあるものであるとすれば、進歩的文化人は少しも個人主義者ではないことになる。《他者の自律を他律的に実現すること》という矛盾である。本書で紹介されている中野敏男の『大塚らの主張は「主体性」とはいうが「全体に奉仕する主体」である』という批判はここにつながる。
 大衆が少しも社会変革を望んでいないとしたら、文化人の側からすれば、それは間違いなのであり、それを指導して自分の目指す方向についてこさせなくてはいけないことになり、大衆の側からいえば余計なお世話ということになる。
 私的←→公的という対抗軸と、個人的←→共同体的(集団的)という対立軸の二つがあり、それが合致しないことが問題となる。
 丸山真男も軍隊で酷い目にあって、集団的なもの(ほとんど農村的なものである)への嫌悪をすべての思考の根幹におくことになった。そこから個人主義への志向が生まれる。しかし、その根底にあるのは日本をいかにすべきかという公的な関心なのであるから、個人的&公的という位置づけとなる。
 一方、小田中氏もいっているように、《日本は欧米諸国のキャッチ・アップを終わったので、もう自分の進路とできるモデルはない。これからの行き方は自分で考えねばならない》ということであれば、それも公的な関心なのだろうかということが問題となる。欧米諸国をもはやモデルとはできないとしても、何かそれでも国家としての共通の目標が必要なのだろうか? 
 そもそも国家というものの役割が根本的に変わってしまったのではないか(それにもかかわらずアメリカが帝国としての役割を果たしていることは、どうみたらいいのだろうか? あるいはアメリカが帝国としての役割を果たしているから、アメリカ以外の国家は以前の国家の機能はもう果たさなくてもいいということなのだろうか?)。
 それなら、われわれはもはや公的な関心をもつ必要などないのではないか? 私的かつ個人的でいいのではないか? 最近の構造改革はその路線であり、リバタリアニズムなども延長線上にあるとしたら、最近の個人主義には歴史的な必然があることになる。村上龍の最近の言動は明らかにその方向であると思うが、それなら村上氏には公的な関心がないのかといえば、決してそうではない。
 俺は自分だけ楽しければいい。国のことなど知らないよ、公的なことなど一切関心がないというような個人主義をどう評価するかである。
 わたくしは、歳をとるにつれて集団主義嫌いが昂じてきているし、福田恆存のいっていた自分を超える大きな何かというのもまやかしであると思うようになってきたから、明らかに若い時よりも個人主義に傾いてきているのであるが、それでも公的なことなど知らないよと言い切る自信もない。もっとも公的といっても、それは仕事のことであり、仕事を通じての他人とのかかわりであって、国家とか日本とかにはまったく関心がないのであるが。
 ここでも書かれているように、啓蒙というのは最近とても評判が悪い。進歩的文化人路線で、知っている人間が知らない人間を指導するというのは確かに鼻持ちならないが、カントの<敢えて賢こかれ>ではないが、啓蒙の思想は、自分は知らない、自分は愚かであることを認めることであり、そういう点ではわたくしは啓蒙思想の信者であると思う。
 そして啓蒙思想とは、同時に、何でも知っている賢者がどこかにいるという思想の否定でもある。ポスト・モダン思想というのも西欧近代の自己過信へのアンチ・テーゼであったのではないだろうか。西欧19世紀の思い上がりへの反省である。そして、その自己否定があまりに行き過ぎてしまったことへの反動として、現在ポスト・モダン思想は急速に力を失ってきているのではないだろうか。
 西欧が世界にもたらしたものといえば、《個人》と《事実》なのではないだろうか? ポスト・モダン思想があまりに過激に《個人》と《事実》を否定したので、いくらなんでもということになってきている。なにしろ、ポスト・モダンの思想家もほとんど西欧からでているのであるし、フーコーやバルトやラカンという個人名を負っているのだから。それに何といっても「科学」というのは西欧が世界にもたらした最大のものの一つなのだから。
 本書で小田中氏がいっている脳科学の成果が個人主義の問題にある種の解決の示唆をあたえるという主張はよく理解できない。ピンカーの心の計算モジュール理論を援用して、心というものが脳の活動に還元しうるという当たり前の指摘から、主体性を否定するポスト・モダン思想に疑義を呈する。しかし、言っていることは、脳が一つ一つわかれているということでしかないと思う。わたしの脳とあなたの脳は神秘的なテレパシーなどで連結されているのでないとしたら、独立して働くことは事実であるが、それでもそれはわたくしが主体的であることを肯定しない。それは日本人が個々人分かれた存在であっても、そのことが日本人が集団的に行動するという非難の否定にはならないのと同じである。
 また、ピンカーにより、言語と対象が「計算」によって結びつけられるとすれば、言語の恣意性というソシュールの論を否定できるとしている。確かに脳には顔を認識するモジュールがあるらしいから、われわれは外界をまったく恣意的に言分けるではないとしても、ピンカーのいっていることは(あるいはチョムスキーの言っていることは)脳に大きな言語計算モジュール(あるいはプログラム)があるとしても、そこが具体的にどうような言語が生成するかはおかれた環境次第なのであるということであるから(だからこそわれわれは英語を話したり日本語を話したりする)、ソシュール的な言語の恣意性という問題の否定にはまったくならないと思う。
 パターナリズムの問題は、医療の場においてもきわめて大きな問題なのだが、68年の学生反乱が反パターナリズムの運動であったのかという点については、どうなのだろうか? 民主主義をとなえる学者が大学内においては旧来のヒエラルキー墨守することに汲々としている、いたって権威主義的な人間であったということへの大きな反撥はあったと思うけれども、あまりパターナリズムの問題は関係がなかったのではないかという気がする。あったのは他人を言語で操る快感とカーニヴァル空間で生きる喜びの発見だったのではないだろうか?
 それで、《親分的》雰囲気をよしとする集団主義である。自民党経世会などというのは、その典型である。小泉首相の評判は最近芳しくないようであるが、経世会を壊しただけで十分なのではないだろうか? 一内閣一仕事である。
 とにかくそういう集団主義がわたくしは大嫌いなのであり、親分が考えて子分は動くだけなどというのに較べたら、断然、<自分自身の悟性を使用する勇気をもて!>である。
 わたくしの場合、個人主義などといっても、その程度のものなのかもしれない。そういえば漱石に「私の個人主義」があった。個人主義の問題は明治に西欧を受容してからずっと続いている問題なわけである。
 本書を読んでいてときどき思い出していたのが、村上龍の「寂しい国の殺人」である(村上龍自選小説集 7 集英社 2000年 所収)。自選小説集では13ページほどの短い文章であるが、一言でいえば、日本は近代化が終わったということを論じている。

 もう国家的な目標はない、だから個人としての目標を設定しなくてはいけない、その目標というのは君の将来を支える仕事のことだ、そういう風にわかりやすく親切にアナウンスしてあげないとわからない人々がいる。・・・
 昔は別にいい時代ではなかった。・・・その時代にあったのは、近代化という大目標、それだけだ。だから、あの時代には絶対戻ることはできない。あの時代にあったものを取り戻すことも不可能だし、あの時代を基準にして今を考えるのは、卑怯だ。・・・
 貧しさによる悲しみが消えて、寂しさに変わったことは基本的には進歩である。わたしたちは恒常的に、つまり常態として寂しさを抱えるようになった。システムがその寂しさを中和してくれるのではないかという期待をわたしはまったく持ってこなかったし、今ももっていない。

 漱石の時代から、個人の問題はあった。しかし、貧しさの存在があったが故に、多くの人間はそれに直面せずに済んだ。しかし、近代化が終わると、国家といった防波堤がなくなってしまい、あらゆる人間が個人の問題に直面せざるを得なくなる、ということである。
 「公」というものがあったが故に「個」という問題に直面せずに済んだのだとすると、現在、「個」の問題の解決のために「公」を持ち出す議論は誤りであるということになる。
 大塚久雄にしても丸山真男にしても、「公」に関心をもたない「個」という存在は唾棄し軽蔑した。それは大塚にしても丸山にしても近代化の中にいた人間だからなのであろうか? わたくしが「公」に対して何となく腰がすわらないままであるのは、近代化の時代と近代化の終わった時代の双方を生きてきているからなのであろうか?
 近代化が終わると「公」の部分も「個」が分担しておこなう単なる一つの仕事ということになり、「個」が自分の仕事とは別に関心を持たねばならぬ何かではなくなるということなのだろうか?
 本書は日本の経済成長のために個人主義が必要とされているのではないか、ということを議論の出発点にしている。しかし、そのような発想は近代化の過程がまだ終わっていないという認識を前提としているのではないか? もしも近代化が終了しているのであれば、経済成長の必要性さえ自明のものとはいえないのではないかという疑問は特には提示されていないようである。
 近代化が終われば「公」の部分が消失してしまい、自分がどう生きるかということを各人が自分の頭で考えることを強制される時代になってくる。そして、そのようなことは多くの人間にとっては負担であり、個人であることの「自由から逃走」したくなっているのかもしれない。
 本書でいわれている個人が自律することへの疑問というのは、一つは大衆化社会の問題であり、もう一つは「公」の問題があった時代への郷愁、他から課題が与えられ「個」として問題を考えないで済んだ時代への郷愁の問題である。
 村上龍は「その時代には絶対戻ることはできない」という。だが、あの時代のほうが自分は生き生きとしていた、いまは何も楽しいことはない、という人間もたくさんいるかもしれない。
 氏は、「バカな中高年の男たちのことはもう放っておくしかない。自分のこれまでの人生を否定することになるので、よりよい集団に属するという価値観を彼らは死ぬまで変えないだろうし、退行と反動化の中枢を担っていくはずだ」という。 
 わたくしも団塊の世代とやらの一員であり、来年あたりからその世代が集団から大量に放逐されはじめるわけである。そういう人間はそこではじめて「個」の問題、個人主義の問題に直面することになるのだろうか? それとも、幸運にも?貧しさの問題が生じて、その問題に直面することを回避させてくれるのだろうか?
 

日本の個人主義 (ちくま新書)

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