磯部朝彦「私の生きた時代 ジャーナリストのDNAで考える」

   八朔社 2009年3月
   
 この本はほとんど一般には知られていないと思う。たまたま著者を存じ上げている関係で御恵投いただいた。著者は1933年生まれ、日銀の国際畑やIMFで主として活躍されたかたである。
 といって、本書はいわゆる自分史ではない。固定相場制から変動相場制に移行を決定した1973年のパリでのIMFの会議に佐々木日銀総裁随行してただ二人で参加したこと(信じられないことだが、日本からの参加者は佐々木総裁とその秘書役の磯部氏のただ二人だけなのである。今なら大人数が随行するだろうと思うのだが・・)、2002年パリでのOBサミット(主要国の元首相、元大統領などが集まるサミット)に日本代表として出席したことなど、いくらでも自分が主役の話が書ける経歴をもちながらも、著者はまことに謙虚なかたで、前者はその会議の報道の仕方への批判の論点の中で、後者はその会でのドイツのシュミット元首相の発言を紹介するためにだけにてくる。
 それでは何の本であるかといえば、副題の「ジャーナリストのDNAで考える」がその一端を示しているが、基本的にはジャーナリズム批判、本書の言によれば「ジャーナリズムこそ現代社会が生んだ最大の悪行ではないか」という方向の批判の書である。その批判は必ずしも磯部氏の創見といえるものばかりではないかもしれないが、副題がいっているように氏の家系にはジャーナリストが多く、母方の祖父が明治のはじめの東京日日新聞(のちの毎日新聞)の創設の関与し、その後毎日新聞社のロンドン特派員になっており、父は朝日新聞社で人生の大半をおくり、兄が東京新聞からNHKへという経歴をもっているなど、一般論ではなく実体験として身近にジャーナリストをみている立場からのジャーナリズム批判として特異なものとなっている。
 ということで、本書の前半は磯部氏の父であり、朝日新聞社で社会生活の大半をすごした祐治氏についての物語となっている。父磯部祐治氏は、まず朝日新聞社のハルピン支社から北京支社で活動を開始している。そうすると当然、その当時の新聞の戦意昂揚記事が問題となる。著者はそのころの朝日新聞の記事を丹念に検索しているが、父の署名記事はなく、父がどのような考えでいたかはわからなかったとしている。1939年に父はロンドン兼ニューヨーク特派員となる。その当時としてはかなり希有であるアメリカ留学経験をもった人間として、父君はアメリカとの戦争は無謀であることを確信していたのではないかというのが、著者のおく仮定である。
 そこで本書の一つの中心となる『幻の「シンガポール合意」』という章が書かれる。これは1939年夏に当時のイギリス首相のチャーチルと日本の外務省広田弘毅との間で結ばれたと著者がする秘密協定で、「戦争が東南アジアの旧英領植民地まで波及し、なおヨーロッパ戦線の集結が早い将来に予想されない場合、日本軍の南下がシンガポールに及んだ時点で講和の交渉を開始する」というものである。もしこの合意が実現できていれば、ガダルカナルも沖縄も広島も長崎もなかったのではないかのではないかと著者はいう。
 この交渉には第三者機関として英国のロンドン・タイムズと日本の朝日新聞社が介在し、予備交渉と戦後処理に関する交渉をするとされていたと著者はいう。当時の朝日新聞社内の反戦を唱える記者の中で最年長の笠信太郎にその実務を依頼し、父祐治氏もその交渉にかかわったのではないかというのが著者の推測である。というのは当時の父祐治氏は笠記者の監督下におかれており、頻繁にリヴァプールにでかけプリンス・オブ・ウェールズ号の動向の監視をしていたからである。合意には英国は極東で戦争が勃発しても極東での戦備の増強、とくにプリンス・オブ・ウェールズなどの海軍力の極東回航による増強はしないという項目がふくまれていたのである。しかし、1940年(と本書にはあるが1941年?)11月には艦は港を離れ極東にむかっていた。これはチャーチルの指示ではなく英国海軍省の独断の行動であると著者はしている。プリンス・オブ・ウェールズは開戦直後にマレー半島沖で日本空軍爆撃機に撃沈されてしまう。もしもこの英国海軍省の独断がなく、「シンガポール合意」が維持されていれば、というのが磯部氏が提示する歴史のイフである。
 この『幻の「シンガポール合意」』の話は大変に興味深いエピソードであり、プロのノンフィクション作家か小説家ならそれで優に一冊の本を書いてしまうだろうと思う。著者はこの合意をめざす動きが日英双方でそれぞれにあったことは確信しているようであるが、今となっては「それが実際に存在したのか、単なる英国紳士どもの夢物語であったのかは、依然として不明」とせざるをえないとしている。ただこのような動きが少しでもあったとすれば、当時の新聞社が今よりももっとずっと重きをおかれた存在であったことの一つの証左になるのではないかというのが著者の主張するところとなっている。
 本書のもう一つの大きな主張が、氏の日銀とIMFという歩みのなかから構想されてきた、世界の金融市場を動き回る巨額な短気の流動資金に対する対策の問題である。貿易取引に必要な資金決済に適用される為替相場をそれ以外の資金取引に適応される為替相場から分離させるというものである。これは現在の一国が一日に使用できる為替相場は一つだけとする国際通貨基金協定に反するものであり、それを改訂するためには途方もない労力を使って何回も国際会議を開き、IMF加盟国の承認をえなければならないという非常に大きな壁のある提案であることは著者もみとめている。しかし国際協調しかこれからわれわれが生き延びる道がないことがはっきりしてきている現在、そのような労苦をおしてでも検討する価値のあるものではないかと著者はしている。
 それから現在ではすでに過去のものとなってしまったらしいアルトマンというひとの考案した「国際通貨基金の特別引き出し権」(SDR Special Drawing Rights )の創出に著者も関与した話(『人知が考え出した「金」に代わる「変なもの」』)、IMFで命じられてしていた地味な統計処理の中から、360円を境にする微妙な円安から円高への振れを発見した話(それは数年後の所謂ニクソン・ショックにつながる歴史的な兆候の発見だったと著者はしている)など、経済学に弱いわたくしには十分には理解できないのが残念ではあるが、非常に興味深い話題が満載されている。おそらくこの国際金融の問題をあつかった部分だけでも、経済ジャーナリストが書けば、またもう一冊の(あるいは2・3冊の?)本になりうるだろう。
 しかし、いたって欲のない著者は、これらを淡々とエピソードとして紹介するだけで、「私の生きた時代」である昭和の戦争前後の価値観の転倒と、それに対するジャーナリズムの無節操な主張の転換への批判を自分のもっとも言いたいことであるとして展開していく。その論点に関しては養老孟司氏など、すでに多くのひとが指摘しているところであり、必ずしもノイエスとはいえないと思えるところもあり、わたくしとしては上に紹介したいくつかのエピソードをより興味深いものとして読んだ。
 本書は根底にジャーナリズム批判をふくむものであるので、出版にはそれなりの苦労があったようなことがほのめかされている。それであまり世間の目にふれることがないままになってしまうのだとしたら、大変にもったいないことと思う。
 著者としてはジャーナリストに読んでほしいとして書いたものであるのであろうが、太平洋戦争の歴史に関心があるひと、国際金融の歴史に興味をもつひとにとってもまた非常に有益な本なのではないかと思う。
 

私の生きた時代―ジャーナリストのDNAで考える

私の生きた時代―ジャーナリストのDNAで考える