ポール・クルーグマン「恐慌の罠 なぜ政策を間違いつづけるのか」

 [中央公論新社 2002年1月30日初版]


 経済学はごく大きくいって、二つにわかれるように思われる、人間が経済活動をいとなむ限りにおいて、つねに直面する問題をあつかうものと、ある特定の問題をあつかうものである。
 経済学は「希少性」をあつかう学問である、「フリー・ランチはない」というのが経済学の骨子である、というのは前者であろう。1930年前後の世界恐慌はなぜおきたのかというのは後者である。
 本書は、クルーグマンが現在の日本経済が直面する問題を論じたもので、明らかに後者に属する。
 クルーグマンによれば、現在の日本は、1930年前後の恐慌を緩慢なかたちで再現しつつある可能性が高いのだが、1930年の恐慌については、経済学においてはすでに解決済みと考えられていたのであり、このようなことが再びおきる可能性があるということは、10年前あるいは5年前までは経済学者の誰ひとりとして想定していなかったのだという。
 不況に対しては、「金融政策」と「財政政策」を組み合わせれば、対応できないことはないと、すべての経済学者が考えるようになってきており、むしろ「金融政策」があまりにも有効で、即効性があるため、政治家が安易な金利の引き下げにより、短期的な好景気を演出したがるために、その防波堤として、政府から独立した中央銀行がでてきたくらいなのである。中央銀行は、アダム・スミスの「見えざる手」にとって代わって、「見える手」となった。

 したがって、ここでクルーグマンが述べていることは、「金融政策」と「財政政策」両者を発動しても改善しない日本の現在の長期の不況という、誰もが想定していなかった事実に直面しての一つの解答例なのである。現在「財政政策」は確かにある程度は有効に機能している、それはそれがなければ急激に生じたであろう恐慌を緩慢なものに変えるくらいの効果はあった。しかし、それはあくまで延命治療にすぎないのであって、「財政政策」を大量にかつ無限に続けることはできない。
 これを誰もが想定していなかったということは、経済学は物理学などとはちがって、永遠の真理をあつかうものではなく、個々に生じてきた事象をあとから説明する「後知恵」という性質を色濃くもっているということでもある。
 つまり、経済学者はいろいろとわかったようなことをいっているが、実は、彼らにとっても、今の日本の事態ははじめて直面するものなのであり、ある政策の有効性は、やってみない限りわからない、ある種の賭けのような部分がどうしてもあるということである
 これはクルーグマン自身がみとめている。自分のいうことが正しいかどうかはわからない、しかし日本の今のやりかたは間違っている、だから自分の見解はためすだけの価値はあるだろう、という。これは「試行錯誤」に近い方法の提案であり、未来はわからない、自分たちがある行動をおこすことによって、さまざまな未来がある、という信念の表明でもある。
 彼の主張するインフレターゲット政策には、彼も認めるように、多くのリスクと問題がある。しかし、何もしないことはもっと悪い。
 クルーグマンにいわせると、今の日本のやりかたは運命論的なのであり、すでに人事をつくしているのだから、これで悪くなるならば、天命でいたしかたないという、未来に人間がかかわれる可能性を否定する悲観的見方を背景にもっているということになる。これは「知的な無気力」である。本来、経済学者は、そういう無気力の正反対にいるはずの人間なのである。

 この本を読んで感じるのは、現代という民主主義社会における中央銀行というもの特殊なありかたである。選挙で選ばれた政治家からまったく独立した中央銀行の存在が一国の経済を決定的に決めてしまうという冷厳な事実である。われわれは<中央銀行家の時代>に生きている。これは民主主義を考える場合の非常に大きな問題であろう。
 もう一つクルーグマンの主張で印象深いのは、日本における中央銀行である日銀の総裁が、経済の舵取りという本来の責務については自分の役割を過小評価し、本来の役割ではない道徳家、世の不正を正すものとしての役割を演じることに過大な意味を見出しているのではないかという指摘である。
 具体的には、経済にかんしては、物価の安定の看視者という役割に自己の範囲を限定し、景気についてもっとできるはずのことを自己の役割ではなく、政治家の仕事だとして放棄しているという。確かにデフレであるから物価は安定している。景気の刺激に自分がかかわるとしたら、それは物価の上昇にも加担することになる。中央銀行の責任者としてそれはできないという口実のもとに、万が一積極策が失敗したらという不安から行動に移らないことを正当化しているというのである。かれらは、未知なものを恐怖し、失敗するかもしれないことを試すことを恐怖しているという。
 また、道徳にかんしては、バブル期に濡れ手に粟の行動をしたり、法外な利得を得たような人や企業が市場から退場するまでは、不景気が続いた方がいいとしているのではないかという指摘である。現在の不況は「バブル」という「罪」に対する「罰」なのだから、「罰」されるべきひとが十分に罰されないうちに、景気が回復して、そういうひとが救済されてはならないと思っているのではないかという。もともと、バブルの崩壊の直接のきっかけは、日銀が地価の上昇を抑えようとしたことであり、大部分の日本人はそれを歓迎した。
 日本人が今の不況をどことなくあきらめ顔で甘受しているようにみえるのも、小泉首相の「痛み」路線がなんとなく支持されているのも、現在の不況が「バブル」の因果応報という考えが日本人のどこかにあるからかもしれない。
 しかし、小泉首相の政策は長期的には有効かも知れないが、短期的には無効・有害である。現在の第一の問題は<需要>であるのに、彼は構造の劣化によって<供給>が十分になされないことが不況の原因であるとしている、とクルーグマンはいう。彼はルーズベルト大統領ではなく、大不況をつくったフーバー大統領になる道を歩もうとしているのだという。
 
 クルーグマンによれば、日本の不況は、高い貯蓄率すなわち個人消費の過少と労働年齢人口の減少による。
 労働人口の問題は、たとえば外国からの移民受け入れといった対策があるが日本ではそれができない。アメリカでは国民全員が火星人になってもアメリカだが、日本では日本人を両親として日本で生まれたひとしか日本人ではないから。
 クルーグマンによれば、ケインズ政策は、問題のある時期を短期的にのりきるためには有効なのであるが、長期的には無効である。

 クルーグマンの主張によれば、金融政策で需要を喚起できるのであるが、その主張に対して、もうわれわれには必要なものはなくなってしまった、これから膨大な需要に結びつく製品はもうでてこない、携帯電話が最後の大きな需要喚起製品であったという主張もある。有効な金融政策がなされれば、われわれはまた消費にむかうというが、今度はわれわれは何を買うのであろうか? そもそもわれわれはバブルのときに何を買っていたのだろうか? 

 この本を読んでいて、現在の経済学者はみな、「われもしグリーンスパンなりせば」ということを考えているのではないかと思った。

(2006年3月13日ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/より移植)

  • なんでこのこと経済学の本を読もうと思ったのかよく思い出せない。村上龍などと同じで、経済の動向がこれからの日本の方向を規定すると思っていて、それで関心をもったのだろうか。過去の経済論を数年たってから読み返すというのは面白いと思う。(2006年3月13日付記)

恐慌の罠―なぜ政策を間違えつづけるのか

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