ポール・クルーグマン 「クルーグマン教授の<ニッポン>経済入門

   2003年11月25日初版 春秋社


 クルーグマンが日本経済を論じたいつくかの論文に、訳者の山形浩生が詳細な解説を付したものであるが、その他に、スヴェンソンの短いしかし驚くべき論文が一本収載されている。
 クルーグマンの「クルーグマン教授の経済入門」(主婦の友1998年刊)には、番外編として「日本がはまった罠」というタイトルで、中央銀行がインフレを目指すという無責任な政策を責任をもって追及せよという、非常な議論を呼んだ提案をしている。これは「ひたすら日銀はお札を刷れ」!というその前にした提案の反省のもとになされたらしい。これは当初は驚きの提案であったらしいが、現在では正統的な経済学者が立場の違いをこえて承認している政策らしい。なお、この「経済学入門」の原題は、The Age of diminished Expectations というものであり、当時のアメリカ人の気分をあらわしたものらしいが、これは日本の現在の気分をよくあらわしていると思う。今の日本人のほとんどは子どもの世代が自分達の時代よりよくなるとは信じていないであろう。
 
 さて、日本は景気が悪く、現在の金利はほとんどゼロである。もし金利がマイナスになりうるとする。たとえば、金利が−2%。10000円銀行にあずけておくと来年、9800円になって戻ってくる。そうなったら誰も銀行にお金をあずけない(でも、そこからお金を引き落としたりする便宜を考えて、それでもあずけるひとも少しはいるかもしれない)。一方、景気を刺激する最大の方法は金利を下げることである。だから金利をマイナスにすれば景気はよくなるはずである。しかし、現実政策として金利はマイナスにはできない。しかしひとびとが来年には物価が10%上がると<信じた>らどうなるであろうか? 今年100万円のものが来年には110万円になる、そう思えばみんな金を使うだろう、なぜならば、銀行に預けた100万円は実際には来年は90万円の価値しかないことになるから。そうしたらみんな貯金をせずにお金を使うようになる。よって景気は回復する。これがクルーグマンの提案の基本である。(宮崎注:欲しい物があれば、早めに買うであろう。しかし、欲しいものがなければ買わないのでは?)
 さて大恐慌のころ、金利はほとんどゼロだった(国債利率 0.014%)。
 しかし、戦後、世界はもっぱらインフレを相手にしてきた。
 日本の問題を論じるときには、抽象的な前提からはじめる必要がある。なぜなら、現在の議論はほとんどが個別具体論に足元をすくわれているからである。しかし、一般的な議論をすれば、その個別具体的な問題にかかわらず、議論が成立することを示せるからである。
 経済学者であるならば、誰でも同意する命題として、マネーサプライが増えると価格が上昇するということがある。しかし日本ではそうなっていない。この基本命題には付帯条件がある。それは<現在および将来すべてにわたってマネーサプライが上昇すれば>というものである。ということはこの問題に<信用>の問題がからんでいるということである。金融拡大が永久に続くと信じられている限りは、どんなに体制や構造の問題があっても価格は上昇する。であれば日本の問題は国民が金融拡大がずっと続くとは信じていないということに帰着する。それについての数学的モデルによる証明があるが、これの正否はよくわからない。それで山形氏の解説に頼る。それによるとクルーグマン自身が「流動性の罠」という議論を胡散臭いと思って、それを否定するためにきちっとしたモデルで考えてみたところ、案に相違して、「流動性の罠」は正しいとでてきたのだという。そしてもしも「流動性の罠」の議論が正しいなら、現在日本で主張されている不景気対策はほとんど効果をもたないかもしれないのだという。
 さてクルーグマンのインフレ期待論には感情的反発が強い。それはインフレというのは経済運営がうまくいっていない国でおきるものだという理解があるので、そういうものをひきおこしたら面子にかかわるということがある。特に日銀には。
 スヴェンソンの具体策。
 1)実現すべき物価上昇目標を示す。2)円を切り下げ、一時的に固定性に。3)物価上昇目標まで物価があがったら、固定レートを廃止、インフレ目標にする。
 円は1ドル140円から150円程度まで切り下げる必要があるという。
 これだけやれば、死んでも経済は回復するのだそうだけれど、できないだろうなと思う。
 円を切り下げたら、輸出産業は、休日返上24時間3交代制かなんかでモノを作って、輸出しまくるだろう。そうしたら、アメリカの競合業種を代表する議員が眦をけっして怒るだろう。その反対でたちまち固定レートは廃止せざるをえなくなるだろう。政治は短期でローカルなことしか問題にしないからである。だから実際にはできないことだろうけれども、不況脱出はやればできるということを理論的に示したのがこの論文の意味なのだという。
 そして、最後に山形がいっている日本の経済学者は自分の学問的帰結と現実の政策的主張が一致しないひとがたくさんいるというのは大変面白いことである。自分の学問的帰結よりも、自己の倫理感のようなものを優先させるからだという。自分の倫理感が自分の学問的帰結を変えるというのならわかる気がする。それは十分にありそうな話である。しかし、自分の学問的主張は主張としておいておいて、提言は自分の倫理感からするというのであれば、学問的主張はなんのためにあるのか、それがさっぱりわからないと著者はいう。わたしもわからない。

 このところ三冊経済書を読んできて、なんとなく問題点の所在と、正統的な経済学者の現状認識というのがわかってきたように思う。
 そこから見ると、現在日本でおこなわれている経済政策というのは、なんともかともということになるが・・・。
 まあ、そもそも<正統的>な学問があるという発想に猛烈に反発するひとがいるであろうが。