若田部昌澄 「経済学者たちの闘い エコノミックスの考古学」

   東洋経済新報社 2003年2月13日初版


 この前にとりあげた鼎談本の著者の一人による経済学史の本であるが、つねに日本の現状との対比がおこなわれている。問題意識がはっきりしており、読後非常に気持ちがいい本である。根底にあるのはアカデミーとしての経済学と現実とのかかわりという問題である。
 著者は現在の日本において、経済学の信認が著しく低下しているという。著者もいうように外部からの批判にさらされない専門家支配ほど始末におえないものはない。だから相互批判は必要である。賢者の支配という発想はそもそも経済学とは相容れない。しかし、現在の日本における経済学批判の質は非常に低い。それをどのように高めていくか、その努力をしないでアカデミーの中にとどまっていて、とんでも本的経済学書についてのまともな批判をしないことが、学問的な基礎をもつ公認された経済学の書と、なんら根拠のない思いつき的経済学書の区別をつかなくしている、というのが著者の抱く危機感である。
 したがって、過去の偉大な経済学者がそれぞれの時代のどのような問題に対する具体的な処方としてそれぞれの学説を構築したかを論じることにより、とかく象牙の塔にとじこもって現実の経済問題とかかわらない一部の学者を批判し、あわせて過去の偉大な学者の説とのかかわりにおいて現在日本の一部の奇矯な経済学も批判するというスタンスをとっている。敵は二方向にいる。学問の壁の中にいて数学の問題を解くような学問に自閉している学者と、過去の経済学の成果を尊重することもなく誇大妄想的自説を恥じることなく発表している自称経済学者のそれぞれである。
 日本特殊論の変形として、また古典的、正統的な経済学への体系的反論として、村上泰亮氏の「反古典の政治経済学」がとりあげられている。村上氏の立場はここでは開発主義と呼ばれているが、何が正しいかを知っているのが誰かという点を解決しえないのがこの立場の最大の欠点であるとされている。日本という国にとって何が正しい方向であるか知っている人間がいるというのが官僚制の大前提かもしれない。しかし、大蔵省はそれが神話であることを証明してしまったし、本書によれば日銀の幹部、中でも速水前総裁というのは愚かとしかいいようのない人物であるように見える。(本書は相当部分が日銀批判である。日銀は自分の面子などにこだわらずにもっと経済学を勉強しろ!という悲鳴が本書からは透けて聞こえる)
 そして本書で指摘されているように、あるいはポパーのいうように、マルクス主義は基本的に哲人国家、賢者の支配という思想を背景にもっており、それゆえに日本の官僚制はおそらく満州における革新官僚の時代から、哲人支配的な背景をもつゆえに(岸信介を見よ!)、マルクス主義と親和性をもっているという指摘は重要であると思われる。日本における対立というのは実は右と左の対立ではなく、国を思う人間と国よりも自分のことを考える人間の対立であったし、これからもそうであるのかもしれない。自民党右派がなにより嫌いなのは、個人主義者なのかもしれない。
 そしてこの賢者の支配という問題は中央銀行の問題に結びつく。
 著者の主張によれば、個々の問題ミクロの問題について政府は介入すべきではないが、全体の問題マクロの問題についてはその安定に責任を負っているのが中央銀行であるということのようである。個々の問題について何が最適かがわかるような賢者はいないが、今までの経済学の成果により、全体としてどういう方向がいいかについてはある程度の学問的な合意が得られているのだから、それを無視するのは無責任であり、その無責任の権化が日銀であるということになるようである。

 この本によれば、現小泉政権の経済政策は間違っている、あるいは少なくともまったく見当違いである。構造改革が間違いである、あるいは必要ないということではない。それは必要である。しかし、それが経済状況を改善するかどうかはなんともいえず、おそらく悪化させる可能性が高い。問題は、もっと別にあるはずの必要なことを何もしていないという点にある。おそらく、そのような本筋の経済政策をしてしまうと、構造改革が進まないということなのであろうが・・・。
<外部からの批判にさらされない専門家支配ほど始末におえないものはない>というのは医療にも大いに関係する話である。専門外からの批判はしばしば見当違いである。しかし、それにもかかわらず、外部からの批判に開かれていない専門家集団はモラル・ハザードに陥る。ポパーは、それを、われわれがつねにすべてを知ることができず、つねに誤る可能性があることにもとめる。しかし、そういう観点とは別に、ここでもいわれているように、外部からの批判に超然としているということは、外部からの信用を高めることは決してなく、むしろ信用を失う道につながるだろうということがある。特に外部から見て、その専門家集団が十分なパフォーマンスをしていないように見える場合においては・・・。