田中秀臣 野口旭 若田部昌澄 「エコノミスト・ミシュラン」

   太田出版 2003年11月7日初版


 いわゆるリフレ派の三人の経済学者による日本経済をめぐる鼎談と、日本で流布している経済書の批評。もっとも三ツ星とかいう評価をしているわけではない。
 この本によれば、現在の日本のデフレ状況を脱出するためには、インフレ目標政策をとるしかないことに関しては、世界のまともな経済学者であれば、その立場をとわずほぼ一致しているのだそうである。それにもかかわらず日本では、経済学とはとてもいえないような「世間知」経済学がまかり通っている。それに対する慨嘆が本書のベースにある雰囲気である。まあ、医学であれば、肺炎を抗生物質で治すという本と、枇杷の葉っぱを煎じたもので治すという本が同等の資格で論じられているというようなことであろうか? もちろん代替医療の本が巷にあふれているのはそれなりの理由があるからである。正統的な医療にあきたらない人が多数いるからである。であるならば、正統的な医療をおこなっているひとも代替医療を頼るひとが多数存在しているという事実に十分配慮をしなければならない。しかし、そうだからといって正統的な医療が代替医療とまったく同等の位置にあることにはならない。本書を読んで感じるのは、以前「サイエンス・ウォーズ」を読んで感じた<科学者>が抱く<ポストモダンからのサイエンス批判>へのいらだちと同質の何かである。アカデミックな学問としての経済学が己を恃む節度を失って、日本のさまざまな状況への一時的な提言のために右往左往していることを著者たちは悲憤慷慨している。
 しかし、わたくしがむしろ面白かったのは、日本においてなぜそのような非学問的?な経済学がそれなりの発言力をもっているのかという点についての考察である。それによれば、丸山真男大塚久雄に由来する日本特殊論、西洋近代の市民社会からみて日本は市民社会以前の遺物が多く残っていて、それらをいかに改革するかがインテリの使命であるという考え方が、経済議論と分ちがたく結びついているからというのである。野口悠紀雄らの「1940年体制論」がそこに合流する。つまり現在日本で進行していることは、日本人がようやく「集団」から「個人」へと自立し、1940年以来の官民複合体制から脱却しようとしている過程なのであり、単なる経済の変調ではなく、日本全体の地殻変動なのであるから、経済学といった狭い視野からのみで判断してはいけないという心情が、経済議論にいつもついてまわるということである。
 日本論、日本人論が日本人は大好きであって、わたしもそういう本を多数読んでいるが、その根底においては、明治維新において日本が西欧を受け入れたが、それはわれわれにとって幸せなことであったのかという、鴎外・漱石以来の問題意識があるだろう。
 ごく大雑把にいって、明治以来の西欧受容に悲鳴をあげて精神に変調をきたしたのが昭和前半であり、戦争に負けて正気にかえったものの、明治以来の問題の根底は何一つ解決されていないままで来た。それにもかかわらず、経済成長によって、日本特殊性を安易に肯定してしまったため、最近のバブルの破綻と経済低迷によってふたたび水をさされ、日本特殊性への反省が再び頭をもたげている、という流れがあるように思われる。
 現在の低迷はわれわれに反省を強いているのだから、それを反省せずに、安易に景気が回復してしまったら、日本の特殊性がまたまたそのままで残ってしまう、という見方が経済論とドッキングする。
 たとえば村上龍があれほど経済の問題にこだわるのは、日本の経済の動向が日本における集団から個人へという流れと深く結びついているという信念があるからであろう。ただ、日本人が「集団」から「個人」へと変らなければならないなどとお題目を唱えているだけでは、何も変らない。しかし、経済が変ることによって、否応なしに日本人は変るであろう、という観点から経済を見ているのであろう。村上がわたくしの十倍〜百倍経済学を「騙されない」ために勉強していても、基本的にアカデミズムとしての経済学に興味があるわけではなくて、日本の変化という観点からみているわけであるから、純粋な学問的議論として日本のデフレをどう克服したらいいのだろうかという点については、あまり関心がないのではないだろうか? 日本がどうなろうと、自分は個人として強く生きていくという姿勢が村上の根底にある。その点、わたくしも村上と姿勢を共通しているところがあり、純粋な学問の話としてのデフレ克服策について、自分にどれほど関心があるのか、われながらはっきりとしないところがある。その上でいえば、現状とれる策として、リフレ策しかないだろうという著者らの議論は十分に説得力があるように思った。

 本書によれば、バブルの後遺症としての不良債権処理は1997年ごろに終わっていたのだそうである。その後に続いている不良債権はデフレによるのだという。
 また社会保障制度はマイルドなインフレを前提にしなければなりたたない制度であるから、デフレ時代においては破綻するしかないという。医師会などがよく主張している見解として、医療などを国家が保証してくれる信頼がなくなったので人が消費しなくなった。医療などしっかり国が面倒をみるという安心感があれば国民はもっと消費し景気がよくなるはずである、だからもっとしっかりとした社会保障制度をつくれというものがある。これは未来の不安が消費を抑制するという議論である。本書によれば将来ものの値段が絶対に上がるという思いが消費を増やすのだそうである。それが正しければ、いくら制度保証しても消費は増えないことになる。年金制度などもデフレなどということをまったく想定せずに作られた制度であるから、現状維持できないのは明白ということになる。
 とにかくインフレにするしかないらしい。貨幣というものが発明されてしまった以上、デフレがいいということはありえないのだそうであり、ある程度のインフレは、たとえインフレにともなうコストがあったとしても必要であるというのが世界的な経済学者、金融当局者のコンセンサスなのだそうである。それの数少ない例外が日銀だそうな。
 現在のデフレ議論のなかで、<もはや欲しいものはなくなった論>というのがある。消費が振るわないのはかつての三種の神器のような爆発的に消費意欲を刺激するものがないからだという論である。最後の大型商品が携帯電話であり、これ以降、膨大な消費意欲を刺激する製品はないという議論もあり、この点にかんする本書の反論はいささか弱いように思われる。景気が回復すれば買いたいものはいくらでもあるというのだが、生活の根本にかかわるものではなく、どちらかといえばニッチ的なものしかないではないだろうか? ただ本書では、需要が不足している場合にどうしたらいいのかについては誰でも認める経済学的な解はないといっている。それは大変正直な見解であるように思う。
 後半の経済書批判の部分では、今まで読んだことのある本も何冊かとりあげられている。木村剛氏のもあり、放漫経営者が銀行の債券放棄でのうのうとしていられるようなことができない制度をつくれという彼の批判自身は正しいという。しかし、それは丸山真男近代化論の変形なのであり、経済学とはなんの関係もない議論であるという。そうだったのか、納得。
 なかなか面白いと思って読んだ小林慶一郎 加藤創太の「日本経済の罠」も取り上げられている。不良債権処理を主張し小泉政権経済政策のバックグラウンドになっている本であるが、現在の不良債権が不況の結果であるという議論(そういう認識が日本では主流なのだそうである)はなりたたないのだそうである。そうだったのか。
 竹森俊平氏の「経済論争は甦る」は評価されている。岩井克人氏の「会社はこれからどうなるのか」は批判されている。クルーグマンの「恐慌の罠」は絶賛。小野善康氏の「誤解だらけの構造改革」は部分的評価。
 本書によれば、わたくしは、まともな本もとんでも本も併せて読んできたことになるわけだ。
 日銀がまともであれば、日本はこんなことにはならなかったのだそうであるが、日本では経済学者が日銀を批判すると未来はないのだそうである。どこの世界でもそういうことがあるのだなあと思う。