村上龍「マクロからミクロへ」

 [NHK出版 2002年10月10日初版]


 たぶんわたくしが村上龍のこういった経済・金融にかんする本を読むのは、わたくしが村上とある意味で立場を共有しているところがあるからなのであろう。つまり、経済の素人がそれでも経済について無知でいると何か具合が悪いことになるぞという予感のようなものがあって、一生懸命に勉強しているが、それでもやはり本当のところはよくわからないといった点である。

 日本の現状をひとことでいえば「庇護社会」が崩壊してきているということである。構造改革というのも、庇護社会が崩壊してきている現実をみとめて、それにどう対応していこうかというに過ぎない。それは社会の転換によるひどい破綻を最小限にしようというものにすぎない。つまり「庇護社会」から「自立社会」への転換という歴史の不可避の過程をわれわれは経験しているに過ぎないので、そこでのきしみを最小にしようということであるのに、それを不可避とは見ずに、庇護社会への郷愁をすてることができないひとが多くいるという問題である。
 もはや日本では、すべての人に「良い」政策をとることはできない。ある人にいいことは別のひとには悪い。ある政策は誰によく、誰に悪いかをはっきりさせるべきである。それを日本にとっていいかというような言い方をするので、問題の所在がわからなくなってしまう。
 国民的一体感というような幻想をもうもつべきではない。意見は対立するものであり、複数の意見があることの方が健全なのである。しかし、構造改革は国民的一体感を崩そうとするものであることは間違いない。
 「世間」が消失してきているのである。これは高度成長と都市化と社会の成熟の結果であって後戻りすることのできないものである。これからは、世間が無料でおこなってきた、サービスがみな民営の有料サービスになっていくであろう。
 必要なのは、正当な危機感をもち、政策の優先順位を決め、それをどうやって説明し、その実行には誰が責任を負うか、というような問題なのである。 

 村上もいうように「世間」が大きな問題なのである。
 おそらく日本における最大の問題は、日本的な「世間」という社会の構造と、社会主義的な心情がどこかで結びついていて、保守から革新までがその根底においては共同体主義社会主義の傾向を共有していて、「個人」の「自立」という方向はそれにまっこうから対立するものなのだという点なのであろう。
 そして日本の経済の動向はその根底に「共同体」から「個人」へという方向を否応なしにふくんでいて、それが村上に経済に目むけさせることになるのであろう。
 純粋な経済学的な理論と、「共同体」への郷愁、あるいは「個人」への志向といったものが不可分に議論されるため、議論がいつの間にかわけがわからないものになってしまうということが続いているように思われる。

 これから時代は否応なしに「個人」にむかっていくにしても、「共同体」のほうが生きやすいというひとはたくさんいのである。そして「個人」こそが不幸の根源であるという思想はそれこそ枚挙に暇がないほど存在する。「近代の超克」などというのもそういうものだったのではないだろうか? 日本は欧米という「個人」の「競争」の社会を否定して、アジアに逃避して「大東亜共栄圏」という夢を抱いたのかもしれないのである。