吉本隆明「夏目漱石を読む」

 [筑摩書房 2002年11月25日初版]


 1990年から1993年にわたっておこなわれた講演を収載したもの。
 恥ずかしながら、漱石はほとんど読んでいない。通読したのは「坊ちゃん」「草枕」「こころ」だけで、それも「草枕」「こころ」は高校のとき課題で読まされたもの。で、本当に自分から読んだのは「坊ちゃん」だけということになる。「虞美人草」も「三四郎」も「行人」も「明暗」も読みかけて挫折している。
 まあ、もっとも鴎外だって藤村だって日本文学はほとんど読んでいないのだから仕方がないが。現代の作家以外でまともに読んでいるのは太宰治くらいのものかもしれない。
 そういう人間が飽きもせず、漱石を論じたものを読んでいるというのは不思議といえば不思議である。
 かなり精神病理学的に読んでいるのが特徴。漱石の作品は彼のパラノイア的な性格によるものが多いとしている。また最近の吉本の持論である、人の性格は一歳までの母親との関係によって決定されてしまうという見方も随所で利用されている。
 「坊ちゃん」の清とか「虞美人草」の糸子が漱石の理想の女性であったという指摘であるとか、今のフェミニズムでは虞美人草でも藤尾が理想の女性像とされているようだが、漱石はそうではなくt糸子のような女性を理想としたのだという指摘はとても面白い。
 「虞美人草」は破綻したよくない小説であるが、それでもとても素晴らしいところがあるといって、宗近くんの甲野さんへの説教の部分をとりあげている。これは内田樹が「おじさん的思考」の中の漱石論で、漱石の要としてとりあげていた部分と同じである。読むひとが読むとそういうことになるのだなあと思う。吉本は、この部分を引用したあと、この部分を読むと、「文学とはこういうものだったんだという感じが油然とわいて」くるとしている。そういう感じをあたえる部分がどこかにあれば、それが文学なので、それがあるのが第一級の文学なのだとしている。とても考えさせられる指摘である。
 頭のよさというのは一種の病気であって、頭のよいひとはそれぞれにその病気を克服するためにさまざまな手段を講じているのだとする指摘も面白い。
 漱石が指摘した明治のインテリの感じた不安(その対極に清や糸子がある)を漱石は文明の発達、科学の発達によるとしたが、吉本によれば、その当時精神病理学が十分発達していなかったので、漱石はそう考えたのであろう、今なら不安は乳幼児期の生育に根源があるものであり、文明によるのではなく、人間にもっと根源的なものなのだとしている。
 わたしなどがみると、どうも吉本は少し精神病理学を買いかぶりすぎているのではないかという気がする。そういう方から見るのではなくて、清に代表される無垢なもの、「まごころ」といったものが、西欧化の過程で失われていくことへの不安といったものを考えるほうが、ずっと生産的なのではないだろうか?