池田清彦「他人と深く関わらずに生きるには」

  新潮社 2002年11月30日初版

 池田氏生物学者であるが、「正しく生きるとはどういうことか」などといった本も書いている不思議なひとである。池田氏生物学者であると同時に昆虫採集狂でもあるらしい。養老孟司氏もそうだが、昆虫採集をするひとには変人が多いのかもしれない。
 池田氏によれば、9・11以降ますます「原理主義」の動きが強くなってきている。「原理主義」とは、他人に自分の考えを押しつけて恬として恥じない、というとんでもない思想である。ここで池田氏は「原理主義」の対極となる考えを示す。
 他人をコントロールしたいというのは権力欲のあらわれである。他人を支配せず、他人からも支配されずというのが望ましい生き方である。
 氏は、労働を「食うために、時間とエネルギーをついやすこと」と定義している。しかし労働は他人の必要に応えることでもあって、労働によってひとは他人との関係をもつことができるという側面はどうしてもあるのではないか。氏は昆虫採集が趣味であって、その趣味を維持するために厭々働いているのかもしれないし、昆虫採集というのは自然相手の孤独な作業であるから、他人なんか関係ないねということになるのかもしれないけれども・・・。
 金をかせがないことには生きていけないというのが現代人の脅迫観念になっていて、そのためみんなあくせく働いているのであるが、氏のよれば、金なんかなくても生きられるのである。
 土地さえあれば、畑をたがやしてブタかニワトリでも飼えばなんとか生きていけるのだそうである。耕す土地を持たないひとは狩猟採集をすればいいという。昆虫の大部分は食べられるのだそうである。したがって春から秋にかけては山野をあるきまわれば生きられる。ただし冬はだめで、しかたがないからコンビニで弁当でも買って安下宿で耐えるしかないかもしれないそうである。(都会のごみをあさっているホームレスも狩猟採集をしているのかもしれないが、山野で昆虫を採る狩猟採集のほうがずっと品がいい、というのが氏の主張である。しかし品というようなことは、まったく一人で生きていく場合にはでてこない言葉ということはないだろうか? 人間は一人でいてもself-respect ということから離れられないものなのだろうか?)
 その他、病院にはいくな、医者に免許はいならいとかいろいろ面白い提案がある。フリードマンと近藤誠をミックスしたような路線である
 「おせっかいを焼くな!」というのもあった。しかし、その見地からすれば、こういう本を書くというのが一番のおせっかいであるという気がしないでもない。
 氏のような見地は現代の学問の潮流の中ではリバタリアリズムという分類に属するようである。キムリッカの「現代政治理論」などを読んでも、そういう政治潮流というのはどんどん瑣末な議論の袋小路に入りこんでしまっているように思われる。
 そういうなかでは、この本はとてもわかりやすい。しかし何か底が浅いという気もする。
 ひとはなぜだか他人のために死んだりすることもある存在で、「他人と深く関わらないで生きる」という指針から見れば、ナンセンスとしかいいようがない生き方(死に方?)であるが、そういうところがあるから人生面白いというところもあるのではないだろうか? 
 それでは氏の奨めにしたがって、「野垂れ死に」を目指して生きてみようかな?