橋本治「人はなぜ「美しい」がわかるのか」

  ちくま新書 2002年12月20日初版

 とても難しい本である。4章とあとがきからなるが、あとがきに一番重要なことが書いてあるようにも思うし、それぞれの章の関係がつかみにくい。
 すこしづつ読んでいってみる。

「まえがき」
 「分かる」というのは「主体的」で「個別的」なものである。だからある人にはわかることが他の人にはわからないということが当然おきる。
 対象に「美しさ」があるわけではない。
 「美しさ」についての知識を獲得していくことで、「美」が理解できるということはない。
 「美しい」ということが分かるひとと分からないひとがいる。

第一章「美しい」が分かる人、分からない人
 ある人には「美しい」がわかり、ある人には分からないのは何故か?
 ⇒1)分かるという能力は何なのか?
   2)分かるというひとがいう「美しい」とは何なのか?

 とりあえず、「合理的な出来上がりかたをしているものを見たり聴いたりした時に生まれる感動」が「美しい」であるとしてみよう。
 そもそも「感動」というのがわけのわからないものである。だから「感動」をもたらしたものが「美しい」なのだという考えが生まれる。
 「美しい」というのは「感動」の言葉である。「感動」ということをしないひとはほとんどいないであろう。しかし、「美しい」という言葉を使わないひとはたくさんいる。そういうひとが「美しい」がわからないひとのかなりをしめている。男に多い。「美しい」なんて口にするのは男らしくない、という教育で禁圧されてしまっているのかもしれない。

 ある女性をみたときに、「きれいだ」と思う男と、「やりたい」と思う男がいる。
 「やりたい」と思う男は、対象にたいして、つねに自分はなにをなすべきか、と考えるのである。

 あるものを「美しい」と思うとき、そこで人の思考は停止してしまう。つまり、「美しい」というのは、直接的にはなんの役にも立たない認識なのである。しかし、そのような思考停止をきらうひともいる。そういうひとはみずから「美しい」を分からなくする。そこから「美しい」がわからない人ができてくる。
 そういう人は理性的であることが好きで、「なんでも自分で判断して決めたい」と思っている、主体的で意思的えあることが好きな人である。こういう人は理解力はあるが類推能力はない。これは「自分の都合だけわかって、相手の都合がわからない」哀しい人なのである。
 「美しい」は直接的には何の役にも立たない認識であるが、自分とは「関係ない」「存在する他者」を容認し、肯定する言葉でもある。

第二章 なにが「美しい」か
 「美しい」とは他者のありようを理解することである。
 しかし、そのことは「自分の主観」を前提に生きている人間にはわかりにくい。
 さて、「カッコいい」という言葉がある。しかし、カッコいい、という言葉はそれを発した人間にとってだけ成立する言葉であって一般性がない。それを発した人間のもつ欲望にのみ対応する言葉だからである。この言葉が低くみられているのは、人間の主観による判断を是とする歴史がまだほんの数十年しかないからである。
 「カッコいい!」は美しいと重なることろがあることばであるが、自分と関係ない他人には用いることができない。
 この世のありとあるものは、ありとあるものの必然にしたがって「美しい」。ありとあるものは、人間の都合と関係なく存在している。自然は人の利害を離れているから美しい。
 したがって自然界には「醜いもの」は存在しないが、ただ人間だけは醜いということがある。なぜなら人間だけが自分の存在を作るからである。
 人間は自然であることにさえ意図的にならざるをえない。
 「自然体」を獲得するためには、「自分は大したものではない」と思わなくてはいけない。面白くもない「一般論」をまず身につくなくてはいけない。「初等教育」「基礎トレーニング」「修行」である。一般論からはみ出したところが各人の個性が対応する部分である。そこが各論にあたる。その獲得の時期は生意気ないやな時期ではあるが、その時期を経ないと「各人の自然体」には到達できない。

第三章 背景としての物語
「美しい」という感情は、そこにあるものを「ある」と認識させる感情である。
 「美しい」は「人間関係に由来する感情」で「人間関係の必要」を感じない人にとっては、「美しい」もまた不要になる。

第四章 それを実感させる力
 「孤独」と「敗北」と「美しい」はどこかでつながっている。「美しい」がわかるひとは敗者であって、勝者になりたい人は「美しいがわからない」を選択しなければいけないのではないか?

あとがきのようなおまけ
 前近代には「孤独」はない。そこにあるのは「生活共同体」からの転落だけである。前近代では剥き出しの個は生きていけないのである。しかし近代になり、孤独は甘美なものでもありうるものとなった。自分だけの歌を唄える楽園にもなったからである。しかし、すでに現代にいるわれわれから見ると、近代の孤独というのは乗り越えるべきプロセスであったことがわかる。すなわち「人間は孤独を乗り越えてなんとかなる」というプロセスである。これを「成長」と呼ぶ。
 しかし、みんな成長しなかったのである。「ろくなオヤジになっていない」ということである。さらに「ろくでもないオヤジ」を批判するワカモノのに対しても、あんた達もオヤジに汚染されているよ、というオンナからの批判がでてきた。そしてそこから「自立」ということがでてきた。
 前近代では、こう生きていけばいいという生き方のシステムがはっきりしていた。制度社会である。
 孤独は「個の自覚」の別名である。孤独は「非制度社会」にむかわなくてはいけない。しかし、それがなされなかった。ふたたび制度社会にむかったのである。すなわち「近代国家」にむかったのである。「個」は存在しないが生活は保証してくれるシステムである。それが男がろくなオヤジになれなかった理由である。
 最近「自立」がいわれるようになっているのはそのためである。それは「非制度社会」をめざすものである。それはまだどこにも存在しないものだが。「自立」に「孤独」はつきものである。「孤独」とは「要請された自立」の別名である。
 これからは個のなかに社会建設の方向があるとしなければならない。
 世界は美しいのである。「美しいがわからない社会」がこわれても少しも困らないのではないか。

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 <美しいというのは実用とは関係ない言葉である。また他人の支配を意図しない人間関係とかかわる言葉である。しかし現在は実用と支配・被支配関係の人間関係が席捲している時代である。そこに「美しい」を持ち出すことは現代への大きな批判になる>という図式はよくわかる主張であり、それで第二章までは理解できるのだが、第三章以下がよくわからない。またあとがきが第四章までとどうつながるのかがよく見えない。
 橋本の論はきわめてドラスティックなものだから、現在への具体的提案というようなものではなく、現代のほとんど全否定みたいなものであるが・・・。
 ろくでもないオヤジが「美しい」の対極にある存在であるというのならきわめてよくわかる話なのであるけれど。
 たぶん大多数のオヤジは「それでは明日からどうやって食べていけというのか?」という対応をするであろう。しかし豊かな人間関係のないところでただ生きていてそれで甲斐があるのか、というのが橋本の対応であろう。