小室直樹「日本経済破局の論理 サムエルソン「経済学」の読み方」

  光文社カッパ・ビジネス 1992年11月25日初版

 1992年に書かれている。バブル崩壊直後である。
 1992年に入り、企業の手許流動性資金が減少してきている。これは、著者によれば、エクィティ・ファイナンスのためである。エクィティ・ファナンスとは新株発行をともなう資金調達(株に変えられる社債)であり、転換社債(CB)とワラント債がある。これは80年代中ごろから急増した。これは株価が上昇しているかぎり有利な投資になる。これは株価の上下を増幅する。株が上がれば、債権の価格はそれ以上にあがり、下がればそれ以上に下がる。1987年のブラック。マンデーによる株価の下落がこれを直撃した。
 株価があがっているとき企業は低い利子でエクィティ・ファイナンスにより資金を集めることができた。しかし、これは買主が社債をいずれ株に転換してくれることが前提である。株価が下がって転換がおこなわれなくなると、債権を償還しなければいけなくなる。その償還期限が91年ごろからはじまった。そのため企業は資産の切り売りなどをはじめたが、それには限界がある。あらたな普通の企業社債を発行するしかなくなった。それにより高い金利でしか資金を調達できなくなり、そのため設備投資がしにくくなった。これが景気低迷の原因である。
 最近(1992年ごろ)「複合不況」論など金融の側面を重視する不況論が活発である。しかし、(ケインズがとなえた)不況は有効需要の縮小によるというのは、少しも変更する必要のない原理である。
 経済学の根幹はGNPである。GNPは(消費+投資)である。消費とは消費財の購入をいい、投資とは生産財の購入をいう。
 GNPが大きくなれば景気はよくなる。GNPの大きさは有効需要できまる。
 消費は消費者による恣意的なものであり、政府の命令で変えることができるようなものではない。しかし政府は投資を変えることはできる。
 国債には建設国債赤字国債の二種類がある。当初、建設国債の償還は60年後、赤字国債は当初10年後償還であったが、これも60年後償還になってしまった。建築された建物の寿命は平均37年といわれている。国債を発行して建設しても37年で駄目になるのであれば、そのあとは借金の返済が残るだけである。
 レーガン政権でケインズ派は政権から一掃され、マネタリストが政権にはいった。マネタリストとはいってみれば、反ケインズ派・古典派である。
 古典派とは資本主義者である。いかなる経済でも進歩すれば結局資本主義にいきつくと信じている。古典派にとり、資本主義は経済の自然状態である。市場経済楽天的に信じ、それを自由放任するときに一番うまくゆくと考えている。その結果最大多数の最大幸福が得られるとする。
 この最大多数の最大幸福は数学的な矛盾であるが、これは現在パレート最適(他の誰かを犠牲にすることなしには、誰も今以上には幸せになれない状態)によっておきかえられた。
 古典派の信条は「自由競争あれば、すべてよし」である。そうであれば、その対偶「どこか悪いのは、自由競争がないからである」もなりたつ。
 したがって、古典派は失業のような悪いことは自由競争がないからであるとかんがえた。
 古典派はセーの法則(供給は需要をつくりだす)を信じている。したがって1930年代にも失業問題などないことになっていたのである。
 しかし失業は深刻な問題であり、ヨーロッパの国々は失業問題のゆえに次々とファシズム国家へと変っていったのである。
 そのなかで、ケインズ以前に大胆なケインズ策をおこなったのがヒトラーである。ヒトラーは巨額の設備投資をおこなった。この当時の古典派の考えによれば、これは国家財政を破綻させ、大インフレをまねくはずであった。しかし、国家財政は破綻せず、インフレもおきなかった。当時の国々のなかで、失業問題を解決し完全雇用を実現したのはヒトラー政権下のドイツだけなのである。
 インフレなき好況を実現した政治家は他に相当な失政があっても国民から支持される。レーガン政権がそのいい例である。
 ケインズ完全雇用点まではインフレがおきないとかんがえた。完全雇用下でそれ以上にGNPを拡大しようとするとインフレがおきる。
 ケインズは設備投資は乗数効果によって何倍にも効果があるとかんがえた。限界消費性向がかりに0.8だとすれば(1万円給料がふえたら、2千円貯蓄して8千円使う)であれば、1億円の投資は乗数効果によって5億円の需要を生む。

 GNP(国民総生産)=国民総所得=Y
 これは時間と外国と政府を捨象したモデル下でなりたつ。
 時間を捨象する=減価償却を捨象すること。
  「粗」グロス減価償却をする前の
  「純」ネット=減価償却をした後の
 外国を捨象する=貿易を考えない、資本・人の移動もないという仮定。
 政府がない=税金がないという仮定。

 Y=C+I (・・・(1)) C:消費 Consumption I:投資 Investment

 さて消費はいろいろなものに影響をうけるが、とりあえず、消費は所得に依存すると仮定する。
 C=aY+b (・・・(2)) a:限界消費性向 b:最低消費水準(所得がゼロでもどうしても消費しなくてはいけない消費。

 Iを決める一番大きな要因は(ケインズによれば)政府の意思。

 経済学における一番の問題はいたるところに経済循環が出現することである。
 例:景気↑→所得↑→消費↑→景気↑→・・・・・・
 鶏が先か卵が先か?
 たとえば、(1)式において、YがCを決めるとも、CがYを決めるともいえる。

 この問題を解いたのがワルラスである。
 経済現象の特性は相互関係性にある。XとYが相互関係性にあるときには、両者は同時にきまる。また、この相互関連性からいえることは実験ができないということである。

 それを決めるのは、連立方程式である!。この発見によって、経済学は科学になった。
 マルクス連立方程式で解をもとめるという発想ができなかった(知らなかった?)。そのためマルクス学説は経済学から追放されてしまったのである。(本来、失業概念をもたなかった古典派に対し、産業予備軍という失業概念をもっていたマルクス説であるのに!)

 (1)(2)式を解くことによって、YとCの解がえられる。この解を均衡値とよぶ。経済学は経済モデルをつくって、その均衡値をもとめる学問である。

 経済学が難しいのは、関数の特定である。
 このモデルに存在する経済人は経済学者がつくったモデル・模型である。その例としてはロビンソン・クルーソーを挙げることができる。経済学はロビンソン的人間を前提にしている。その典型は保険の思想である。つまり危険の分散である。

 さて日本の不況である。不況を克服するためには、GNPを増やすことである。そのためには消費を増やすか、投資を増やすしかない。
 投資が天井につきあたると、投資が以降急激に減少するという「加速度原理」がある。膨大な不要の設備ができてしまうからである。在庫調整がすむまでは投資はできない。しかし在庫は景気が回復しないかぎり減らない。ここにも循環論があらわれる。

 本書は小室氏のいろいろな著作と同様結論がないまま、とりえあずという形でここで終わっている。

 小室氏の本を読んでいると、非常に解りやすい。大事な部分と枝葉をはっきりと区別することができて、大事なことのみで書いているからであろう。
 経済学がしばしば循環論に陥るというのは、これまで何冊かの経済学の本を読んできて痛切に感じる。あるひとは、Aが原因でBになった、という。べつのひとは、そうではなくて、Aになった原因がBであるという。まさに鶏と卵である。
 需要と供給の関係もそうなのではないだろうか? 需要が供給を決めるのか? それとも供給が需要を決めるのか? その次元で現在の不況対策についての議論は堂々めぐりしているように見える。需要と供給は深く相互に関係しているというだけのことではないだろうか?
 そして、その循環論を断つのが、連立方程式をとくという操作であるというのは「目から鱗」の指摘であった。考えて見れば、経済学の本には、様々な曲線の交点を論じているものが多い。これは連立方程式を解いているわけであるが、今まで経済学の本を見て、連立方程式を解いているという意識でみたことはなかった。
 92年に書かれた本であるが少しも古びていないと思った。
 
2006年7月29日 HPより移植