小室直樹「国民のための経済原論Ⅰバブル大復活編」 

  光文社カッパ・ビジネス 1993年5月30日初版

 「日本経済崩壊の論理」の続編である。1993年に書かれている。
 バブルの崩壊という予言は、それがおきるまでは誰も信じないものである。そして20年たつとまた人々の記憶が薄れ、再びバブルがおきる。
 91年当時、日銀などの当局者は景気はすぐに回復すると思っていた。金融政策ですぐに回復できると思っていたのである。しかし金融政策は奏効しなかった。そこで、今回の不況は今までのものとは違うという説がでてきた。しかし、景気を左右する最大の因子は設備投資であるという経済の原則は少しも変っていない。変ったのは日本経済・企業の体質なのである。
 
 日本企業の体質変化:損益分岐点の上昇
 バブルの時期に日本の企業は最大に設備投資をした。その結果、固定費が上昇し、損益分岐点が大幅に上昇した。そこにエクィティ・ファイナンス不能になるという事態が重なり、高い利子でなければ資金が調達できなくなった。金融政策で公定歩合を下げても以前のように投資が回復しない理由はそこにある。

 1929年の大不況も当初は一過性の不況と考えられた。この時も公定歩合の引き下げは無効であった。今までの古典派的な理論が通用しない事態がおきたのである。1992年以前は金融政策は不況対策として有効であった。
 ルーズベルトはニュー・ディール政策をとったが、経済がわかっていたわけではない。だから周りの古典派に財政の悪化を指摘されると政策がぐらついた。
 今回の日本の不況は1929年の不況とパラレルに考なくてはいけない。

 1980年、レーガンが政権を握り、ケインズ派を政府から一掃して以来、日本ではケインズはもう古いということになってしまった。しかし、自分(小室)は依然としてケイジアンである。ケインズは依然として有効である。

しかし、ケインズ政策がいつでも、どこでも有効という訳ではなく、ケインズ理論が成り立つためにはいくつかの前提が必要である。それは、
 1.労働者について。
 前提1−1:失業者が十分に多くいる。
 前提1−2:労働は一様で単純で、あらゆる職場で可換性がある。(この複雑労働を単純労働に還元できるかというのは大問題なのであるが、それをケインズはまったく無視している。)
 2.資本設備について。
 前提2−1:遊休設備は十分にある。
 前提2−2:その遊休設備は使用可能。
 前提2−3:その遊休設備はどの産業でも使用可能。
 前提2−4:設備の陳腐化は十分に遅い。
 (アメリカでは第二次世界大戦中に自動車工場で飛行機をつくりだした。その当時はそういうことが可能であったのである、しかし現在、そんなことが可能だろうか?)
 さらに根本的な最大の前提として、
 前提3:(ウエーバーのいう意味での)資本主義の精神を、企業家・労働者がもっているか?

 「加速度原理」
 単純なモデルとして、1台3万ドルの機械20台で年間30万ドルかせいでいる会社を考える。機械は20年の耐用年数があり、1年に1台駄目になり、1年に1台更新している。すなわち、年間の投資は3万ドル。
 ある時、急に売上が1.5倍になったとする。そうすると機械を一度に10台購入しなければいけない。更新分とあわせて11台。投資は33万ドル。翌年売上が以前の水準の2倍になったとすれば、さらに33万ドルの投資が必要になる。
 ところがここで売上が頭打ちになると、高い売上はそのまま維持されたままであっても、いきなり投資は年3万ドルに戻る。もしも売上が減れば、駄目になった機械を更新する必要がなくなり、投資はされなくなる(マイナスの投資)。
 このように売上の変化は、投資に何倍もの影響をあたえる。(投資3万ドル→33万ドル→33万ドル→3万ドル→ゼロ、しかし、売上は、変らず→1.5倍→2倍→2倍のまま→少し減少となっているだけなのである。)→加速度原理。これがバブルの発生と破綻である。

 経済循環が経済学をわかりにくくしていることは確かである。しかし、経済が循環しているということは、経済が相互に関係しているということ示しているのであり、そのことは、ある因子に着目すれば、経済全体の動向がわかるということでもある。消費をみれば、景気がわかる。設備投資をみれば景気がわかる、といったように。
 その例、日本の自動車生産台数も一つの日本経済の指標である。
 1941年、日本の自動車生産台数 4万台弱(当時のアメリカは550万台)。
 1960年、25万台
 1970年、317万台。
 1986年、571万台。
 1990年、776万台。
 しかし、このころから頭うちである。

 さて、「ストックとフロー」を区別することが重要である。
 フローは単位時間あたりのストックである。
 在庫調整はフローの調整である。従来の不況は在庫調整がすめば終わっていた。(景気の循環)
 これに対して、平成不況はストックの調整であるという説がある。すわわち不良債権や過剰設備などの問題である。
 不良債権によるクレジット・クランチが金融緩和策を無効にしたことは間違いない。
 また仮に資金があったとしても、景気回復が展望できないときには投資に踏み切れない。

 日本では、企業が共同体になったため、解雇ができなくなっていた。そのため、潜在失業者を企業内にかかえていた。当然、固定費は上昇する。
 日本では、ともに働くものの間で共同体が形成される。
 終身雇用制度と年功序列は日本だけのものではなくヨーロッパなどにも見られ(ただし、企業内組合は日本だけ)、また日本でも大企業だけにみられる形態である。
 日本式経営では集団的に意思決定がされる。
 また、先行投資型の財務体質をもつ。労働分配率を低くおさえ、配当を低くし、内部蓄積を厚くするやりかたである。(儲かっても、従業員に還元せず、配当にもまわさず、設備投資にまわす)
 これもまた、日本の設備が過剰になった原因である。
 以上、経済学原論からみた平成不況論。

著者が最後に主張している全日本東京化計画は、究極のケインズ政策であり、著者も本気ではできるなどとはまったく思っていないと思われるほら話であるが、日本すべてを都市にしてしまおうというようなもので、養老孟司がきいたら、目をまわしそうな議論である。
 
 日本の企業が共同体であることをやめる方向にあるとすると、昨今の日本の一部ではやっている「剥き出しの資本主義」批判、「グローバリズム」批判は、日本における旧来からの共同体をまもりたいという意識に由来している部分があるのだろうか? 終身雇用制度とか年功序列といったものが崩れ、会社が共同体として機能しなくなるときに、共同体に依存しない「自立した個人」といったものが、本当にそのあとに生まれるのであろうか?
 また日本の共同体をまもるということと、福祉とはどのような関係になるのだろう? 今までは、実は、福祉は会社内で実現されてきた部分が大きい。もしも、それがなくなってしまうと、ここでもまた保護されない個人があとに残されるのだろうか?
 一部の強い「自立して生きられる個人」と、多数の弱い自立しては生きられない「大衆」が二極分解していくのだろうか?


2006年7月29日 HPより移植