広井良典 「医療保険改革の構想」

  日本経済新聞社 1997年1月20日初版


 まったく自分の専門的興味から読んだ本。

 従来の日本の医療は、「途上国型医療」であり、「質は二の次でよいから、国民誰もが安い値段で医療サービスを受けられる」ことを目指した、公平・平等を求める制度であった。この部分は、今でも、わが国の医療制度の最良の部分である。一方、医療の中味はプロフェッショナル・フリーダム、医師の専門性・自律性という理念によって、外部からの介入を拒んできた。
 しかし、日本の医療は、量的にはすでに供給過剰になってしまっている一方、医療の中味にかんする情報開示の要求は強まっている。
 これからは「開発国型」ではない、「成熟化社会」のあるべき医療制度を構築していかなくてはならない。
 これは医療以外の分野でも日本が戦後50年、明治以降の産業化の大きな転換点にきていることと平行しているのであり、そのような大きな流れのなかで、医療問題も考えなくてはならない。
 日本の医療費は対GDPあたりで先進国のなかでも少ないほうであるが、現在のままでいっても、高齢化の進行がきわめて急速であるため、早晩、ヨーロッパのレベルに追いついてしまう。したがって、現在の時点で医療への配分を大幅に増やすという選択は現実的ではない。

 80年代においては、医療費抑制策は有効に機能し、経済の伸びと医療費の伸びがほぼ平行していた。90年代に入り、医療費の伸びが経済の伸びを上回るようになったが、これは医療費の伸びが大きくなったからではなく、経済の伸びが小さくなったからである。医療費の伸び自体はここ15年くらい、5%前後の伸びで安定している。
 したがって、80年代の成長がそのまま90年代に入っても続いていたと仮定するならば、現在の問題は生じていないはずなのである。
 高齢化の進行により、医療保険制度は実質的には若いひとが高齢者を支えるという年金に似た構造になりつつあり、同一のリスクをもつ人間間でのリスク分散という保険の主旨からは大きく外れるものとなってきている。

 さて、日本は人口あたりの病床数がきわだって多い。ドイツ・フランスの1.5倍であり、アメリカの2倍である。
 欧米の病院は教会などによるコミュニティ・ホスピタルとして発展してきた。日本のように個人の医院が大きくなってきたというような形態はない。
 日本の病床数も1975年くらいまでは、ヨーロッパにくらべてそれほど多いわけではなかった。
 1980年前後に病院新設・増設が急増した。この背景はこの当時医療が儲かるものだったからであり、その病床増をささえたのは老人の入院増であり、はっきりいえば「社会的入院」の増加であった。本当の意味での医療需要の増加があったわけではない。そして、このころ欧米ではすでに病床数は減少しはじめていたのである。
 1985−87年にかけて、もう一度急激な病床数の増加がみられる。これがいわゆる「駆け込み増床」であり、病床規制前にやみくもに病床を増やしたものである。これは背景にまったく需要をもたないものであった。その結果、日本の病床は大幅に過剰になってしまった。
 日本の医療が「途上国型」であるのは、医療費の配分が診療所をモデルに考えられている点にある。本来なら医療費はフローに対して支払われるべきものである。病院の建物といったストック部分は欧米においては公的に支えられている。しかし、日本では医療費でストックもまかなうことになっているため、軽装備の診療所ではなんとかなっても、人や設備が重装備の病院ではストックのコストを医療費から捻出できず、赤字体質とならざるをえない。
 日本の医療を、「量とアクセス」の途上国型から「質とコスト」を重視する「成熟経済型」へと転換する時期にきている。
 医療の質を高めるためのキーポイントになるのが、患者の選択である。選択が可能になるためには、「情報の開示」が必要である。患者が選択をするということは、裏をかえせば、医療機関相互の競争がおこなわれるということである。
 医療の質は「医師の良心に期待する」というような方向ではなく、制度としてシステムとしてそれが保証される方向を追及しなくてはいけない。経済的・制度的インセンティブが必要である。
 従来、「情報の非対称性」のために、医療においては競争原理・市場原理が働きにくいといわれている。
 個々の患者ではなく、保険者が医療機関を選択したり、価格交渉をしたりできるようにするならば、この「情報の非対称性」という問題はかなりの程度解決できる。これをいきなり、最善の医療機関を選ぶという方向から行おうとしても難しいであろう。むしろ、最悪なもののみはずしていくという方向である。たとえば、他と比較してあまりに投薬や検査が多い医療機関とは保険者は契約しないといた方向である。医療機関あるいは医者が外部から「選択」されているという意識をもつことは、日本の医療を大きく変えるであろう。
 また、「情報の非対称性」に対する対策としては、医療をオープンにしていくものとして、何らかの診療ガイドラインのようなものを作ることも有効である。

 1961年、日本において国民皆保険制度が発足した。これはある意味では医療が国家統制に入ることを意味するが、このとき医師会がそれと引き換えに、「医療の官僚統制反対」、「制限医療の撤廃」をとなえて、それまであった結核や高血圧に対する治療指針を有名無実なものとしていったのである。つまり、医療の内容については公的関与がほぼ排除されたのである。
 このときから日本の医療政策はほとんど医療費政策に限定されてしまい、医療の内容についての政策がほとんど欠落することになってきた。
 つまり、国民皆保険制度というのは日本の医療制度の最大の宝であるが、それは、医療の内容についての公共的でオープンな評価や議論をしないという犠牲の上にできあがってきたものなのである。これは日本の戦後という事情から「開発国型医療」を選択せざるをえないということから生じたものである。しかし、日本はもはや、開発国型でやる時代ではなくなってきている。

 1982年に老人保健制度が発足したときに、関係者の間ではこれはよくて10年しかもたない制度であろうといわれていた。しかし、診療報酬抑制の成功と経済の好調のおかげで、この制度が10年以上もってしまった。しかし、経済の失速とともに、その問題点が一気に露呈してくることになった。

 さて、基本的に、
 保険とは、同等な負担能力と同等なリスクをもったもの同士間でのリスク分散である。
 福祉とは、あるものから別のものへの所得転移の仕組みである。
 さらに、基本的に保険とは民間のものであり、福祉は国家の事業である。
 (註1:民間の保険ではリスクの高いひとは高い保険料を払う。社会保険においては、リスクに関係なく平等に払う、あるいは平等を志向して、収入に比例して保険料を払う。しかし、一般的にいって、今までは、高齢者ほど収入が多く、疾患も多いため、リスクの高さと保険料がある程度相関していた。しかし、これから年功的賃金体系が崩れてくると、リスクの高さと保険料が平行しなくなっていく恐れが強い。)
 (註2:専業主婦が保険料を払っていないのは、考えてみればおかしなことである。扶養家族が5人いるものも、独身で扶養家族が誰もいないものも、同一収入であれば、同一保険料というものおかしなことである。)
 日本の医療保険の特徴は、保険原理と税の原理が渾然一体となっているところにある。これは年金でも同様なのであるが・・・。
 本来、高齢者はそれ以外のものの5倍の疾病率をもつことを考えれば、老人医療は保険ではなく、税によって行われるべきものである。
 とくに日本の年金制度が近年急速に充実してきていることが、医療保険にさまざまな矛盾を生じさせている。つまり年金の額が多いため、高齢者が子の被扶養者ではなく、国民保険の本人になってしまうのである。それから考えても、高齢者においては年金と医療保険の一体化をはかっていくべきである。
 高度成長はさまざまな矛盾をすべて覆い隠してくれたため、税とは?社会保険とは?といった根本的な問題を問わずにすんでいた。これからはそうはいかなくなる。

 医療の内容についての国家統制がなくなったといっても、実際には、診療報酬体系の変更に、医療行為の内容はひじょうに大きな影響をうける。
 日本の診療報酬体系の特徴は、1)病院とくに入院部門への評価が薄い。2)チーム医療への評価が低い。3)「高次医療」への評価が弱い。4)医療の質という視点が乏しい、などである。
 これらはいずれも日本の医療が開業医・診療所中心に行われてきたことの反映である。

 「混合診療の禁止」という問題:
 これは法令ではどこにもうたわれていない。
 特定療養費制度から間接的にうかびあがってくるというきわめて曖昧なものである。
 まず最初に「差額問題」があった。主として、差額ベッドと歯科診療の問題である。75年前後から、差額をとっていい場合が明文化されるようになり、差額ベッド代をとっていい場合が明確に規定されるようになり、歯科の場合は逐次、自由診療であったものが保険に取り入れられていった。これらはいずれも行政指導によった。
 1984年の健康保険法の改正時に、差額徴収を明文化する意味で特定療養費という制度がもうけられた。ここから逆に、特定療養費として認められていないものについては、差額徴収をしてはならない、すなわち混合診療の禁止という解釈がでてきた。

 今後、キャピタルコストをどのように評価していったらいいか、ということはきわめて大きな問題である。

 社会保障の歴史:
 もともと農業社会においては公的な社会保障は存在しなかった。農村共同体の相互扶助がそれを補っていた。産業革命による共同体の消滅によって、従来の共同体がおこなっていた相互扶助を人為的に代替するものとして、社会保障がでてきたのである。

 さて、産業化社会前期は物不足、供給過少の時代であった。それに対して、産業社会後期は、需要不足、需要過少の時代になっている。その変換が成熟化社会になるということであり、日本はそれが非常に急激におきつつある。
 さて成熟化社会は成熟しているが故に、市場が大きく、小さな政府を志向する。一方、高齢化社会においては大きな政府を志向せざるをえない。ここに矛盾が生じる。どこまでを公がカバーし、どこからは民間にまかせるべきなのであろうか?
 ここで問題になるのが「逆選択」ということである。

 「選択」と「逆選択
 保険制度において、保険者が被保険者のリスクを正確には把握できないと仮定する。そうするとリスクの平均をみた保険料の設定をせざるをえない。そうなるとリスクが低いと思うものは保険料を高いと感じて脱退する。そうすると平均リスクがさらにあがり、保険料を上げざるをえなくなる。さらに脱退者がでる。以下悪循環が続き、保険が成立しなくなる。これを「逆選択」という。こういう場合には民間保険ではなく、強制的な社会保険が必要になる。
 もしも、保険者が、被保険者のリスクを把握できるとするならば、保険者は高リスクのものの加入を拒否できる(「選択」)。こういう高リスクのものを救済するのも公の仕事である。その場合、1)公的扶助−税による福祉。2)社会保険でカバー、の二つの方向が考えられる。
 どちらも社会保険による強制加入が必要になるが、前者では低リスクのものを、後者では高リスクのものが強制加入の対象になる、という違いがある。

ほとんどの動物において、生成熟年齢と寿命は直線的な比例関係にある。人間だけは、その直線からはずれており(その比例関係が人間にも成立するとすれば74−75歳くらいが人間の寿命となる)、したがって、老年期を「品質保証の過ぎた時期である」というひともいる。
 人間は後生殖期が長いのであり、高齢化社会とは後生殖期が普遍化した社会である。このことはヒトが単なる遺伝子の運搬役(ドーキンス)から自立していく過程ともいうことができる。
 17世紀におけニュートンの力学革命における絶対空間と絶対時間の中における質点の運動という見方は、古典経済学における「独立した個人の自由な行動とそこにはたらく見えざる手」という見方と深く関係している。
 しかし、産業化が進むにつれて、二つの見方への分裂がおきてくる。
1)意識/個人から出発する見方:「主観主義/静的/非歴史的」
 古典派経済学、マッハの現象論、量子力学におけるコペンハーゲン解釈
2)意識/個人を二次的に発生したものとみる立場:「客観主義/動的/歴史的」
 マルクス経済学、エントロピー概念、ダーウィンの進化論、フロイト精神分析
 20世紀で主流となったのは、第一の方の立場であり、健康で若く合理的に行動する個人を基本的な構成単位と考える。
 しかし、これからの高齢化の進行はそれらに再考をせまるものである。1)の立場にいるかぎり、高齢化問題はたんなる負担論になってしまう。
 これからは公の役割は高齢者福祉のほうに移行していくことになる。その中で、高齢者の福祉は税でまかなわれていくべきであり、その部分を除いた世代の医療保険は民間に移行していくことになる。また過剰になりすぎた年金は基礎部分のみを公が担当し、残りの部分は民間に移行すべきである。そういうなかで、現在問題になっている「大きな政府」対「小さな政府」という対立は解消されていくことになる。

 医療の現場にいると、2002年という年は日本の医療制度の大きな転換点になりそうな気がする。政府がこのままでは日本の医療保険制度は破綻するということを、制度上かなりはっきりと表明をし始めた。また従来、病院の医療内容についてはほとんど不干渉であったものが、ある規準をみたさないと、ある種の手術はしてはいけないという方向の制度を示してきている。
 そういう中で、医療の現場では、今日の運営と明日の存続といった目先のことへの配慮しかする余裕がなく、日本の医療制度の大きな転換のなかで、自分はどのよう位置付けを目指していくべきか?という議論はほとんどでてきていない。
 これは60年代の高度成長から80年代のバブルまでの経済の好調によって、問題を先送りすることが可能であったため、根本的なことを議論しないですんできたことのつけがまわってきているという日本のあらゆる分野でおきてことが、医療の世界でもおきているということなのであろう。
 日本の不況は需要の不足による。日本の医療の問題は供給の過剰による。健康保険制度というのは、ある点で国家まるがかえの制度である。土建業界が供給過多におちいって国の生命維持装置でなんとか生きながらえていたり、それも危なくなってきているのと、それほど違わない状態に今の日本の医療はあるのかもしれない。
 しかし、医療の世界では、少なくとも今後20−30年は間違いなく需要は増える。しかし、その需要は従来から過剰にある供給との間にミスマッチがおきてきている。
 ここ5年くらいは、そのミスマッチの解消のために、あちらこちらで「痛み」をともなう事態がおきていくことになるのであろう。
 小泉「構造改革」の問題は、ここにも関係しているのである。


2006年7月29日 HPより移植