D・ストローン「地球最後のオイルショック」

  新潮選書 2008年5月
  
 養老孟司氏が毎日新聞の書評欄で紹介していた本。
 
 最近たばこを1000円にしたらどれだけの人が禁煙するだろうかという話がでているが、もしもガソリンがリッター500円あるいは1000円になったらどれだけの人が自家用車に乗るだろうか? 満タンにしたら2万円以上のあるいは5万円ものお金がかかるようになれば、相当の人が(大部分の人が?)乗らなくなるような気がする。
 本書はピーク・オイルといわれる問題について論じたもので、この問題についての本はすでにいろいろと出ているのだそうであるが、わたくしはまったく知らなかった。
 ピーク・オイルとは、石油の需要が供給を超えるようになる時点をいうのだそうである。石油が有限な資源であることはいうまでもないが、それが完全に枯渇するのがいつかということではなく、生産が需要をまかなえなくなる時点が問題であり、それはたかだか10年以内に来るということを本書は主張している。もしも必要な石油が充分に手に入らない事態になれば、当然、経済原理に則って、石油の価格は高騰する。
 現在、ガソリンがリッター200円近くになっており、漁船が出漁を間引くとか、飛行機のチケットが石油価格の変動によって変わるというようなことが話題になっているが、本書を読めば、これが「地球最後のオイルショック」の緩慢な前触れである可能性が充分にありうることが理解できる。
 化石燃料は数億年前の動植物の残骸であるから、今でもそれのもとになるものはわずかではあっても産生過程にあるわけではあるが、われわれは数億年の蓄積をわずか数十年で湯水のごとく消費したのであるから、現在の産生と消費はまったく見合わない。早晩、それは枯渇する。
 石油の消費は1880年ごろからはじまり、20世紀に入り指数関数的に増加している。
 ある油田が発見された場合、当初は少ない収量が、段々と増加し、どこかでピークとなりやがて減少していく。石油の採取量が減少に転じるのは可能採取埋蔵量の半分が採取された時点である、とハバートという人はした。それが正しいとすれば、推定埋蔵量と現在までの収量とその採取量の変化を知れば、ピークがいつになるかは予想できる。アメリカの石油生産のピークは1971年である。
 わたくしなどは無知だから、石油というのは地中奥深く、原油の湖としてたまっているのだ思っていたのだが、そうではないらしい。岩の間に浸み込んでいるのだそうである。しかし、はるか地の底にはものすごい圧力がかかっているので、そこにパイプを通せば、地上との圧差で自噴してくるというのが、採掘の原理らしい。しかし、当然、自噴して原油が減ってくると圧が下がる。圧が半分くらいになるともう自噴しなくなる。そこでさらに人工的な手段で圧をかけても採取を続けるかどうかが問題になる。水や天然ガスを送りこんだりするのであるが、採取にかかるコストが急増する。したがって、通常埋蔵量の35〜40%を回収した時点で、その油田は放棄される。それ以上採取しようとしてもコスト割れするからである。
 わたくしの理解が違っているかもしれないが、もしも将来、石油の値段が大きく上昇するようなことがあれば、放棄された油田がふたたび採算にある油田に戻るということがあるのかもしれない。本書で論じられる最大の問題は、われわれ人類があとどのくらい石油をエネルギー源として頼ることができるかなのであるが、石油の値段が上がることが、石油の寿命を延ばすという論があって、その論によれば、石油が不足する→値が上がる→今まで不採算だったさまざまなかたちの原油が再び採算ラインに乗る→石油は充足する、というサイクルでなかなか石油の枯渇という事態にはならないということになるらしい。しかし、この論によれば枯渇はすぐにこないにしても、原油の値段はどんどんと上がっていることにはなるわけである。値上がりした原油は以前よりは使いにくいものになることは間違いない。
 もうひとつの問題は未発見の油田が地球上にどのくらい残されているのだろうかという問題である。著者のストローンは大きくて浅いところにある油田ほど発見される確率が高いのだから、大きな油田は現在までにすでに発見されつくしており、今後、発見されるのは小さくて深い油田がほとんどであろうと予想する。いたって理にかなった話であるように思えるが、地上にはまだまだ未踏査の地域も多く残されているから大発見もありうるという議論も根強くあるらしい。
 アメリカに限定してみると、1956年が新たな油田発見のピークになっているらしい。そして発見された油田から原油が本格的に採取されるようになるまで10年くらいはかかるので、生産のピークはその10年後となる。
 アメリカの石油生産がピークをむかえたのが1971年である。OPECは1960年の設立されたが、当初は何の力も行使しえなかった。なぜならOPECが生産をひかえても、他の国がそれを補填してしまったからである。OPECがはじめてカルテルの力を発揮し、原油価格を4倍にひきあげることができたのは1973年である(第一次オイルショック)。これはアメリカの生産がピークを過ぎたことと無関係ではない。
 アメリカの生産にピークがあったのであれば、いずれ世界全体でもピークがくるのではないか? ピークが存在するのは必然であるが、問題はそれがいつであるか?である。
 第一次、第二次オイルショックで景気は後退し、石油の需要は一時的に減った。また、企業が燃料効率を高めたことにより需要拡大ペースは鈍化した。しかし21世紀に入り、中国とインドの目覚しい経済発展とともに、石油の需要はふたたび急増している。そのため消費量は発見量を大幅に上回るようになってきている(現在、発見量の3倍消費している)。
 
 本書を読んで、わたくしのような頭の悪い人間にもようやく理解できたのは、最近、声高にいわれる、地球温暖化の問題、環境保護の問題、炭酸ガス排泄、エコ云々の問題は、すべて石油食い延ばしの問題と深くかかわっているのだということである。いままでは、氷山が溶けて、海面が上昇して、陸地が海面下になってしまうのが困るのかな、などと馬鹿なことを考えていた。情けない話である。石油が近い将来不足します、その節減に協力してくださいなどとストレートに言うと、具合が悪い方面がいろいろある。それで環境保護といえばなんとなくクリーンである。洞爺湖サミットも、環境サミットなどとはいうものの、実は石油の話であったのである。環境などというよりもっと大きな問題、貧困とか飢饉などの問題があるではないか、と思っていたのだが、実は環境すなわち石油の問題であって、石油の不足は貧困にも飢饉にも結びつくのである。

 石油の供給がピークにきたとしても、石炭や天然ガスをそれと代替すれば、炭酸ガス排出の問題は一向に改善しない。なぜなら現在でも炭酸ガスの元は石油は4割であり、残りが石炭や天然ガスなのであるから。
 炭酸ガス産生をふやさないという観点からみれば、代替エネルギーの候補となりうるのは、水素とバイオ燃料だけらしい。しかし、これらには多々問題があることは本書に詳述されている。
 水素は現在はそれをつくる原料の96%が、石油、石炭、天然ガスとなっている。水を電気分解する方法ははるかに効率が悪い。しかも、その分解のための電力をどうやって供給するか? 風力発電太陽光発電は、その設置のためのスペースの問題を考えると実際にはそれをとてもまかなえないことが解る。原子力発電は現在、大きな抵抗があることは周知のことである。
 わたくしは、いずれ石油をふくめた化石燃料は枯渇するのだから、結局は原子力という方向にいくのだろうと漠然と思っていたのだが、そのような甘い話ではないらしい。原子力でえられるのは電力である。その電力を現在石油がそのほとんどを担っている輸送手段のエネルギーに転換するのは容易なことではないらしい。
 バイオ燃料は、その栽培に必要な土地面積という問題につきあたる。現在栽培されている作物をすべてバイオ燃料に転換しても、使用されている燃料の四分の一にしかまかなえないそうである。しかし、それでもすでにバイオエタノールの生産はすさまじい勢いで拡大する方向にあり、穀物価格の高騰を生んでいる。SUV車の25ガロンのタンクを満タンにするためのエタノールをつくるためのに必要な穀物で、ひとりの人間が一年間食べていける。
 自動車の燃料の問題はまだしも、ジェット機の燃料ということになると、ほとんど現実的に化石燃料に代替できるものはないらしい。唯一可能性がある水素はタンクが大きくなりすぎ全翼機にでもしないと無理なのだそうである。
 石油は輸送のためのエネルギーとして必要なばかりではない。石油化学で消費される石油は世界の石油消費の10%にあたる。本書で列挙されている石油からつくられるさまざまな製品のうち、わたくしのかかわる医療に関係するものをひろっても、カメラ・電話・パイプ・配管・レントゲン・カテーテル・聴診器・酸素テント・医療用手袋・紙おむつ・証明器具・洗剤・パソコン・冷蔵庫・ベッド・医薬品などがあった。要するに、本書にあるように、「人工」と思われているものは、皆、実際には石油製品である、ということである。
 
 本書を読んで、一番面白かったのが、石油と経済のかかわりの問題である。オイル・ショックが経済の停滞を生んだことはよく知られている。しかし、経済学者で石油の問題をまとも分析しているひとはほとんどいないという、驚くべきことが書かれていた。わずかな例外として、失業率と石油価格(と金利)のかかわりを分析した研究があるくらいらしい。むしろGDP1単位あたりに占める石油消費量が減っているから、経済への石油のかかわりは減少しているというのが経済学の分野からのこの問題への説明であったらしい。しかし、労働も機械もすべてGDP1単位あたりへの寄与は減っている。全般的に経済効率は向上していて、この経済効率の向上というのが経済成長のことなのである。とすれば、石油の効率的使用ということが経済成長そのものなのではないか?
 1958年にロバート・ソローという経済学者が、経済成長の大部分は資本と労働の二つの要素だけでは説明できないということを示して、のちにノーベル経済学賞を受賞している。しかし、資本と労働以外の要素とは何かということは経済学の分野ではほとんど議論されず、技術の進歩、技術革新という“魔法の言葉”でなんとなく説明されたように思われてきた。
 ドイツの物理学者のキュンメルがその研究にとりかかった。その言葉がいい。「経済学のように影響の大きい学問が、宇宙を構成している熱力学の第一、第二法則を無視しているのであれば、これを正さなければならない」。
 ソローは、経済学におけるエネルギーの重要性を、エネルギーに支出される金額であらわした。エネルギー費用はGDPの5%である。キュンメルは金額ではなく、経済で使用されるエネルギーの投入量をみた。そしてその観点からみると、エネルギー投入量のほうが資本とか労働よりもずっと大きい経済成長の規定因子であることがわかった。ここではソローの10倍の成長への寄与率となった。経済においてエネルギーがいかに重要であるかを認識することは、天動説から地動説への転換に匹敵する、とキャンメルはいい、ほとんどの経済学者はいまだに天動説を信じているのだという。
 エアーズという物理学者は、さらに、エネルギーの投入量ではなく、エネルギーの利用効率の観点もくわえて検討した。1900年には発電所で投入された石炭の4%が電力に変換されたにすぎないが、2000年には35%の変換効率となっている。経済で消費されたエネルギーではなく、それが実際に目的の仕事に利用された量を計算する。おどろくべきことに、有効に利用されたエネルギーの量はアメリカでも日本でもほとんど完全に経済成長を説明した。159ページに示されたグラフは、そのあまりに見事な一致ぶりに信じられないくらいである。エアーズのモデルではソローのモデルよりも、エネルギーとその利用効率の経済への寄与は14倍高い。

 この辺りを読んであまりに驚いたので、わたくしが読んだほとんど唯一の経済の本かもしれない「クルーグマン教授の経済入門」(メディア・ワークス 1998年))を読み返してみた。(山形浩生訳)

 生産性がすべてとまでは言わない。でも、長期的にはそれがほとんどすべてだと言ってもいいくらい。ある国が長期的に見て、生活水準をどれだけ上がられる決めるのは、ほとんどすべて、その国が労働者1人あたりの産出をどれだけ増やせるかだけなんだ。(中略)
 アメリカの生産性停滞の核心に迫る質問を2つしてみるといい。なぜ停滞したの? どうすれば回復するの? 答えはどっちも同じで、「わかりませーん」なのだ。(中略)
 生産性の停滞がまだ目新しかった頃、多くの人がそれをオイルショックのせいにすればいいと考えた。タイミングはばっちり。最初に生産性停滞が見えてきたのは、73年のオイルショックに続く5年間のことだった。アメリカだけでなく、世界中どこでも生産性は停滞したので、この説はさらに強くなった。(中略)
 経済学者の多くは、生産性停滞のオイルショック説があんましお気に召さなかった。(中略)80年代になると、石油の値段は暴落―実質ベースでは、ほとんど73年の水準にまで落ちちゃったんだ。もし70年代のオイルショックが生産性停滞を招いたのなら、80年代のオイル逆ショックというかエネルギー「天国」は、それ相応の生産性大躍進を招くはずだろ。でもそうはならなかった。(中略)
 ロバート・ソローも言っているけど、生産性パフォーマンスの低さに関する議論のほとんどは「しろうと社会学の爆発」になっちゃうのがオチだ。(中略)
 じゃあ、アメリカにおける生産性成長について、ぼくらは何をするのか? なーんにも。
 それについてぼくたちは何もするつもりもない以上、それは政策課題にはならない。

 ストローンのこの本もまた“しろうと社会学”のひとつなのだろうか? もしも生産性の向上が、即、エネルギーの有効利用に比例するのであれば、どんどんと有効なエネルギーをつぎ込めば、生産性は向上するのだろうか? いくらものを作っても買ってくれるひとがいなければ、それはおきないであろう。潜在的な需要が存在する場に、有効にエネルギーを投下すれば、生産性は向上し、経済は成長するのであろう。だから、経済学の役割は、どのような状況において需要が伸びあるいは減少するかを見ることなのであろう。エネルギーの利用の歩留まりの向上の研究は確かに経済学の分野ではないであろう。
 しかし需要が存在するなら、同じコストで多くのものが作れるようになれば、当然、生産性は向上する。《その国が労働者1人あたりの産出をどれだけ増やせるか》を決めるものは、エネルギーの投下量とその利用の効率なのであろう。マルクスが「資本論」を書いた時代に労働者が1人あたりで産出できたものと、現代の労働者が産出できるものは、まったく異なった次元になってしまっているであろう。
 わたくしは現在の人文社会学系の学問が理科系の学問成果をあまりに顧慮することが少ないのではないかと思っているので、「経済学のように影響の大きい学問が、宇宙を構成している熱力学の第一、第二法則を無視しているのであれば、これを正さなければならない」という言葉ははなはだ痛快であった。でも経済学などはまだいいほうで、哲学の分野などでは、熱力学の第一、第二法則など存在しないも同じになっているのではないだろうか?
 東浩紀氏などは、現在では工学の知見が人文学の知見などよりはるかに思想においても大きな力をもっているというようなことを言っているが、経済学においてもまた物理学が有用なわけである。
 わたくしは経済学というのは、資源は有限であり、ただ飯はない、ということを主張するものであると思っているけれども、今までの経済学においては、石油は空気と同じような所与の前提、それはあたかも無限に存在し、ただ同然で手に入るもののようにあつかわれてきたのではないかと思う。ようやく石油も経済学の対象となり、その価格の適正が問題とされるようになってきている。
 それほど石油というものが重要であり、そこから有効にエネルギーを回収する技術の向上が経済にとって決定的に重要なものであるとするならば、今まで石油の値段は不当に安かったのではないか、ということになる。空気と同じとは言わないが、その値段が人件費とか機械への投資という問題にくらべれば無視できるくらい低く抑えられてきたとすれば、石油が必要なだけいつでも供給されてくるという神話が崩れることにより、これからは、その値段が経済において決定的に重要な要因となってくることになる。

 経済が石油に依存しきっているのならば、石油の供給がピークに達したら、また経済の成長もピークをむかえるのではないかというのが、本書の提示する問題である。もしも石油が「本来の価値」にみあった価格になってしまったら、どうなるだろうか? 車に移動を依存しきったアメリカ社会はどうなるだろうか? 世界中からの輸入食糧をわれわれは口にしているが、それは輸送コストの安さがあればこそ可能なことである。
 そもそも食糧生産の飛躍的増大は(それによりマルサスの予言は当たらなかったのだが)窒素肥料に依存している。窒素は空気中の8割を占める、がそれを固定しなくては肥料にはならなに。われわれが食糧として摂取している蛋白質の約40%は窒素肥料に由来する。その窒素肥料作成は、電力原としてまた水素の供給源として天然ガスに大きく依存している。天然ガスの価格は石油価格と連動する。石油の価格があがれば天然ガスの価格もあがる。そうすると肥料の値段もあがる。また農地の潅漑もディーゼル燃料に依存している。燃料の価格が上がると多くの農地が経営できなくなる。また農業に使用する機械もエネルギーを大量に消費する。要するに農業もまた石油に大きく依存しており、その不足と価格の上昇は農業にも壊滅的な影響をあたえる。マルサスの予言がふたたび現実のものとなるかもしれない。
 かつて石炭は斜陽産業といわれた。今度は石油が斜陽産業になるかもしれない。石炭や天然ガスの埋蔵量は石油よりは多いといわれているので、石炭がふたたび脚光をあびることもあるのかもしれない。
 石油にかんしていえば、非OPEC国の中で原油の供給源として頼られていたのがロシアであるが、その供給の限度がありそうである。そうするとあとはOPECだけが頼りである。現在、非OPEC国の原油が逼迫すれば、OPECが増産で応じてくれるという神話がいきわたっている。しかし、OPEC各国が西側の支配から離れて以来、OPEC各国の生産能力と生産余力についてはきわまてあやふやな情報しかなく、それの多くが眉唾なものである可能性が高いことが、本書で詳細に示されている。
 それではどうしたらいいのか? 著者は、民主主義の制度においては、このような深刻な事態を国民に知らせるという動機は政治家には生じないであろうとしている。したがって啓蒙書を書くわけである。国がとるべき方策、個々人がとるべき道を、著者はいろいろと提言しているが、わたくしにはそれが有効であるようにはとても思えなかった。ひとつには著者の暮すイギリスでの対策の話がほとんどであり、最大の問題であろう中国やインドでの消費の増大という面にはほとんど議論がおよばないからである。
 西側が無限に存在するものであるとでもいうように、湯水のごとく石油を浪費して豊かな生活を実現したあとに、中国やインドの人たちに、もはや石油は有限である。あなたたちはそれらをわれわれがしてきたようには使ってはいけないという話が通るだろうか。
 民主主義において、各人がそれぞれの幸福を追求する権利を有する。そしてそれぞれの幸福の追求の結果、未来が暗澹なものとなるとしても、「長期的にみれば、われわれはみな死んでいる」のであるから、ある程度先の未来などはどうでもいいのである。「わが亡き後は洪水」である。
 現在、世界で公式に通用している見解では、石油などの化石エネルギーはあと50年は大丈夫ということになっているらしい。著者がいうのは、とんでもない、あと10年でも危ないぞということである。10年なら、それぞれの読者の寿命の内に入るであろう。
 
 本書を読んで、わたくしはつくづくと運のいい時代に生まれたのだということをかんじた。1947年の生まれであるが、そのころには日本のエネルギー利用はまだほとんど離陸していない。1960年ごろから、それがぐんぐんと上昇してくる。中学生になったころからである。あとは一貫して、エネルギー消費(浪費?)の恩恵に浴してきたわけである。それにくらべるならわたくしの子供の世代は本当にかわいそうである。まして孫の世代においておや。
 現在の日本の問題のほとんどは、潜在的にはピークオイルの問題と関係しているのであろうと思う。景気の停滞も、年金の破綻も、別に政治家が無能だからでも、社会保険庁がいい加減だからではなく、要するに、もうこれからは安い石油はなくなるのだというところにみな結びついているのだろうと思う。
 医療崩壊といわれる問題にしても、厚生労働省が方向を間違えたから生じたのではなく、かれらは有能な役人としてピークオイル後の日本を憂慮して、なんとか手を打たねばとしてきただけなのかもしれない。
 民主主義の時代にあっては、政治家は苦い処方箋は提示できない。医療は安く、年金は手厚く、それでも税金は安くなどということを相変わらず言っている。でも企業は真剣に考えているだろうと思う。ガソリンの代金が現在の3倍にも4倍にもあるいは10倍にでもなったら果たして車は売れるか? そういうことを自動車会社が考えていないはずはない。べつに地球にやさしくエコロジーといったことはなく、まさに自社の存亡の問題である。そして、自動車会社に依存して存在している会社というのもまた無数に存在しているのであるから、それらもまた重大な影響を受けることになる。要するに、現在の産業構造が根底から変わらざるをえないことになる。
 本書はピークオイルの問題を論じたなかでも、ピークの到来をもっとも近い将来に想定している立場らしく、その点、きわめて悲観的な立場からの本であるようであるが、しかし、そう遠くない将来に、ピークオイルという事態はかならず来るわけである。だれもラッダイト運動などをしなくても、自然にそうせざるをえなくなる時代がくるのかもしれない。
 本書によれば、これから道路をつくるとか飛行場をつくるなどというのはまったくの無駄ということになる。ほうっていていも自動車は減り、飛行機はほとんど飛べなくなるのだから。いまだに公共投資で道路を作ろうといっている政治家は多い。
 数年前に、やはり養老孟司氏の推薦で竹村公太郎氏の「日本文明の謎を解く」(清流出版 2003年)を読み、その関係から「土地の文明」(PHP 2005年)も読んだ。それに地球が温暖化すると広大な北海道が日本の穀倉地帯となり、日本の食糧は安泰であるといったことが書いてあってなるほどと思った。氏は国土交通省のひとであって、当然、インフラ整備派、道路建設推進派である。「土地の文明」では高速道路がその沿線の都市を繁栄させるということが説得的に示されている。
 竹村氏のいっていることも本当で、ストローンのいっていることも本当なのであろう。しかし、もしも石油が枯渇しないまでもきわめて高価で貴重な資源になってしまえば、高速道路は渋滞のないきわめて快適なものになるとはしても、ほとんど使えないものになってしまうであろう(その時の、高速道路の利用料金ははたしてどのくらいに設定されるのであろうか?)。最近のガソリンの値上がりのためか道がきわめて空いていると、何かに書いてあった。昨日の新聞に、ガソリンスタンドの料金表示の1○×円という最初の1が固定されていて、リッター200をこえたら金額の表示ができなくなり、その掲示装置を変えるだけでも大変な費用がかかるというようなことが書いてあった。スタンドの表示だけでそうなるのであるから、自動車自体の燃料としてガソリンが使用できなくなる事態になった場合、電気自動車とか水素で走る車などへの変更などがどれだけ途方もないことになるか、想像もできない。だから、みなは考えたくないことはないことにしているのかもしれない。
 現在の原油の不足と価格の高騰は、OPECが増産しないと解決しないということらしいが、それにもかかわらず、増産に応じないのが問題らしい。しかし、増産しないのではなく、したくても出来ない、現在ですでに産生能力のプラトーに達してしまっているという見方もあるらしい。そうであるならば、現在の事態はまさにストローンのいう「最後のオイルショック」の始まりであるのかもしれない。われわれは案外と歴史的出来事のさなかにいてもそれとは気がつかないことが多いものであるから。
 

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