E・トッド「帝国以後 アメリカ・システムの崩壊」

   藤原書店 2003年4月30日初版


 養老孟司氏が毎日新聞の書評で激賞しているのをみて、読んでみた。面白い。目から鱗である。
 養老氏も書いていたように、ここに書かれていることは仮説である。
ポパーもいうように常識的にはありえそうもない仮説があり、それが容易に否定できなければ、その仮説がもつ力は大きい。なぜならば、常識に反することは間違っていれば簡単に否定されてしまうからである。アインシュタインの相対性原理はわれわれの常識を逆撫でするような説である。それが今日まで生き残っていることが、アインシュタインの仮説の強さである。
 本書でトッドが提出する仮説は、<アメリカは強くない>というものである。これはイラクへの攻撃が勝利におわったばかりの現在においては、まことに常識に反するものである。しかし、本書を読んでいけば、トッドの論はきわめて説得的である。そして、トッドがその説を展開するために利用するのは、教育の普及と女性が生涯に何人の子供を産むかという誰でもが利用できる統計学的な事実なのである。トッドの視野はきわめて広い、ギリシャ・ローマの歴史からイギリスの革命、現在のロシア・中国の変化までを見通す浩瀚なものである。
著者によれば、初等教育が普及していくと社会は均質化し、『大衆化』し、『民主化』していく。その民主化の過程で宗教的民族感情の爆発がおきる。しかし、大きな流れの中では爆発はだんだんとおさまり、社会は安定化していく。イギリスの清教徒革命も、フランス革命も、プリグリムファーザーズの熱狂も、日本の明治から昭和にかけての爆発も、現在イスラム圏でおきていることも、教育の普及がそれぞれの場所で、ずれた時間軸の中で進行していることを示している。現在、さまざまな場所でみられる危機や虐殺は、人間の退行現象ではなく、近代化の過程で過渡的に生じる変調なのである。現在イスラム圏でみられる多くの問題は、70年代後半からのイスラム圏における識字率の上昇と密接に関連している。サウジアラビアパキスタンでは今後20年くらいは危険地帯であり続けるだろう。いま、イスラム圏でおきていることは、ルターの宗教改革の時代のスイス人の心情ととくに変ることはない。イスラム圏は長い目でみれば沈静化しつつある。
 そして教育がさらに普及し、高等教育が普及してくると、社会は階層化し、民主的ではなくなり、寡頭支配的になっていく。現在のアメリカで進行している社会の再階層分化はその表れである。
 教育が普及し、女性が覚醒してくると、女性が子供を産むかどうかを選択できるようになる。その結果出生率は下がり、その社会の人口は減少にむかう。教育が普及し、一時の宗教的民族的な感情爆発を終え、女性の自覚が進み人口が減少していく社会は、活性の低い社会であり、そういう社会はもはや戦争ができなくなる。『民主的』国家同士の戦争はなくなる(教育水準が高く、満足すべき生活水準を持つ国民が、大規模な戦争を辞さない議員を多数選ぶことはない)。
 ある社会の構造は、その社会の家族構造を反映したものである。アングロサクソン流の民主主義は兄弟間を平等にあつかう伝統のあった社会からうまれたものである。長子が決定的に優遇されたきた日本において、民主主義はべつの形態をとらざるをえない。
 といった視点から歴史を見、現在のアメリカをみていくわけである。
 トッドの言の適合性についてはさまざまな見解があるであろうが、トッドの引いている補助線からはきわめて多くのものが見えてくることは確かである。
 ちなみに著者はフランス人であってシラク大統領の知恵袋的なひとでもあるらしい。

 さて、それならば、なぜアメリカは弱いのか?
 ある時期のアメリカが政治的自由と経済的秩序の保証人であったことは確かである。しかし現在のアメリカの戦略モデルは「狂人戦略」である。なにをしでかすかわからないという恐怖感を相手にあたえることにより、相手を怯えさせようというものである。しかし、これは大国がとるべき戦略ではない。
 多くの国にとって、アメリカは世界の不安定をわざと維持しようとしているようにしかみえない。アメリカはイスラエルパレスチナ問題を解決できる力をもった唯一の国であるのに、わざわざ混乱を助長しているのではないだろうか? 
 9・11からしばらく、アメリカは、軍事力によってではなく、その価値観・制度・文化の威信によって世界に君臨しているように見えた。しかし、その後の行動によって、そのような威信は雲散霧消してしまった。
 本来、9・11の経験により、アメリカは戦争被害の深刻さに目覚め、貧困者と弱者の問題に敏感になることが期待されたのである。しかし、その期待は裏切られた。
 世界はアメリカの行動様式を説明できるモデルがないことに不安を抱いている。
 現在の米国論は、アメリカが全能であるという仮定から出発している。しかし、その仮定はまちがっている。
 まず認識しなくてはいけないことは、アメリカは世界の中心からははずれているということである。世界の中心はユーラシアなのである。
 もしも、上に述べたように、長期的視野においては、世界中で教育が普及していき、その結果民主主義が普及し、民主主義国家同士の戦争はなくなるのであれば、軍事大国としてのアメリカは不要になり、アメリカは一民主主義国家にすぎなくなってしまう。この不安への怯えがアメリカの行動を規定している。
 1776年から真珠湾まで、世界の中心から遠いこと、世界から孤立していることはむしろ、アメリカの存在理由であった。それならば、アメリカはふたたび孤立主義にもどるのだろうか? しかし、それはできない。なぜなら、世界はアメリカを必要としないが、アメリカは世界を必要としているから。二度の世界大戦においては、世界が本当にアメリカを必要としていたのだが。
 現在、アメリカは自分の生産するものだけでは生きていけなくなっている。その生活水準を維持するためには、世界中からの輸入を続けることが至上命題なのである。
 世界中で民主主義が進行していくなかで、アメリカ・イギリス・フランスなどでは次第に寡頭制が対等してきている。民主主義はそれが弱体なところでは、前進しつつあり、強力なところにおいては後退しつつある。
 高等教育をうけた人間は、本当に自分が高級な人間であると思うようになる。そのような人間が支配層になり、次第に普通選挙の結果に耐えられなくなっていく。ギリシャの歴史をみても、民主制のあとに寡頭制がくることはありえる。
 エリート主義とポピュリズムの混在と対決が先進民主主義国で共通の問題となってきている。下方20%の要求を上方20%が抑圧するという社会ができてゆく。中間の60%と結託した上部20%が世の中を支配していく。選挙結果はどうでもよくなる。棄権率はどんどんと増えていく。民主主義はその誕生の地で衰退をはじめているのかもしれない。
 
 以上のことから、<世界が民主主義を発見し、世界はアメリカなしでやっていくやりかたを学びつつあるときに、アメリカは民主主義的性格を失おうとしていて、しかも自分は経済的には世界なしではやっていけなくなっていることを発見しつつある>という現状認識がでてくる。
 したがって、現在のアメリカの目標は、民主主義的あるいは自由主義的な秩序の擁護ではない。それはアメリカ自体の内部においても内実を失いつつある。現在は世界の資源を政治的手段によって統御することがアメリカの目標となっている。
 そのために、世界にはアメリカを必要とする問題がつねにあると思わせること、その国力を誇示するため、イラン・イラク北朝鮮キューバなど二流の国と「対決」すること、ダントツの兵器を開発すること、がおこなわれる。しかし、どのようなことをしようとも、かつてソビエトが崩壊にむかったように、今アメリカも崩壊への道をたどりつつあるのである。

 グローバリゼーションとは、世界に偏在する安い労働力が利用可能になるということであり、その結果、賃金は安く抑えられ、需要は縮小する。
 経済ばかりに目をむけることなく、もっと大きく文化がどのようにかわっていくのかをみるためには、大衆識字化の全般化と、受胎調節の普及という因子が重要である。
 現在貧しい国のほとんどどこにおいても識字率は急速に上昇しつつある。それほど遠くない将来において、地球全体が識字化されるであろう。若い世代だけをとれば、2030年にはそれが実現するであろう。識字化ができていない地域には工場の移転はできない。現在まだ、アフリカに工場を作れないのはそのためである。
 女性が読み書きができるようになると受胎調節がはじまる。1981年において、世界全体の出産率指数は 3.7 であった。それが2001年には 2.8 になっている。この傾向から2050年には世界の人口が均衡化することが予想される。
 ある地域において宗教的背景の違いなどにより、近接する民族間で出生率が異なることは大きな危機のもとになる。人口が減少はじめた民族がいまだ増大しつつある民族に対し、危機感をもつからである。
 フクヤマが提唱した<世界には方向があるという見方(かれは世界が自由と民主主義の方向に向うとしたわけだが)>は、世界が識字化しつづけ、その結果出産が統御される方向にあるという点をみれば、有意義な見解かもしれない。識字化は自由と民主主義の方向をめざすということはいえそうである。それは大きな傾向であるとはいえるだろうが、その最終形態が欧米的なものに収斂するとは言えない。
 アングロ・サクソン自由主義は、イングランドの家族形態:親子関係の相互独立・兄弟間の平等主義と関連している。
 フランス革命は、その当時のパリ盆地の農民の、親子間の自由と兄弟の平等を反映している。
 ロシア農民は、子供を平等には扱ったが自己の支配下にいつまでも置いた。これがロシアの共産主義の形態を規定した。同様の家族形態をもつ、中国・ユーゴスラビア・ヴェトナムでも、この形態は踏襲された。
 ドイツは、一世代に一人の跡取という厳格な権威主義的で不平等な家族形態があり、それがナチズムに反映している。その緩和された形態が日本とスエーデンにみられる。
 アラブ・イスラム圏では、妻帯した息子が父親と結びつく家族形態であり、ロシア型に近い。
 近代化以前の農民の習慣はその後の近代化した社会での形態を大きく規定する。違う過去をもつアメリカと日本と中国とロシアとイランが同じ型の社会に収斂することはありえない。
 いえることは、近代化のある局面を過ぎると社会沈静化し、大多数が受け入れる非権威主義的な統治形態に進むという程度のことにすぎない。そして、沈静化した社会同士の間では戦争はあまりおきそうもない程度のこともいってもいいであろう。かつてドイツとフランスの関係を考えるならば、現在の両国間の沈静した関係は隔世の感がある。
 近代化の過程においては、どこでもヒステリー現象がおきる。今アラブでは自分たちがいかに西欧社会とは異なっているかを強調している。その社会では女性の地位が低いとされている。しかし、そこにおいても受胎調節は確実に普及しつつある。現実には女性は解放されつつあるのである。
ローマは領土拡大の遺伝子をもっていたかのごとくであり、政治・経済・芸術などはすべて軍事に従属した。それに対して、アテネは商人と職人の町であり、軍事はペルシャの侵入によってやむをえず引き受けることになったにすぎない。スパルタとともにペルシャを破っあと、スパルタが軍事から身を引いたため、海軍強国のアテネデロス同盟を組織することになった。
 アメリカは海軍強国である。真珠湾までの孤立主義と、欧州からの要請で作ることになったNATOは本来アメリカがギリシャ型の国であることを示している。
 ローマが地中海全体に版図を広げるにつれて、イタリアの農民は職人は無用の存在になっていった。イタリアは一部の支配者と大部分の無用の平民層に分解していった。後者には慰撫のためパンとサーカスが与えられた。
 スミスとりカードによって開始された自由貿易の理論は、現在そのほとんどがアメリカで生産され、アメリカの主要な輸出品の一つとなっている。その理論によれば、各国は同等の地位をしめ、共同の利益のために働くことになっている。しかし、現実には、そうはなっていない。世界はアメリカが消費するために生産するという構造になっている。アメリカは生産国ではなく消費国なのである。アメリカが輸入しているものは原材料ではない。石油の輸入も微々たるものである(2%程度)。アメリカは先端的工業製品の輸入国であることで、赤字になっているのである。GNPの数字に惑わされてはいけない。貿易収支は大赤字なのである。アメリカのGNPは金融・保険・不動産などの寄与によって膨大である。しかし、工業生産はそうではないである。エンロンの破産で1000億ドルが消えた。これはGNPの1%である。アメリカのGNPは本当のものなのか?ヴァーチャルなものなのか?
 現在アメリカとの貿易で最大の黒字を出している国は中国である。今世界は消費不足で悩んでいる。アメリカは世界のために消費しているのである。
 グローバリゼーションが需要を停滞させることを認めることは、正統的経済学においてはタブーとなっている。しかし需要は停滞している。その状態において、アメリカは通常の国家におけるケインズ政策の景気刺激策としての無駄使い的消費の役割を一手にひきうけていることになる。
 アメリカ国民は全世界からの投資でパンとサーカスを楽しんでいるようなものである。
 ローマが帝国として機能できたのは普遍主義(道路、水道、法と平和)をもっていたからであった。ある時期アメリカは普遍主義をもっていた。現在ではそれは失われてしまった。そうかといって、その軍事力もまた世界を統括できるほど強力ではない。
 アメリカの陸軍は弱い。これは第二次世界大戦でも、朝鮮戦争でも、ヴェトナム戦争でもそれは繰り返し証明されている。だから死者なき戦争などということをいいだすのである。
 共産主義の崩壊後、アメリカは一つの大きめな国民国家としてやっていくという手があった。しかし経済が脆弱になるにつれ、軍事でそれをカバーするしかなくなっていった。
 なぜアメリカが大幅な貿易赤字であるにもかかわらず、ドルの価値が下落しないのか。それは世界中の資金がアメリカに流れこんでいるからである。しかし、もしもアメリカの軍事力が大したものではなかったら、その信用が消失したら、ドルの価値は維持できなくなる(正統経済学の説明によれば資金がアメリカに流入するのは、アメリカ経済が活力に富み、利益を約束するからであるということになっているのだが・・・)。
 グローバリゼーションによってアメリカのみならず、世界中で一握りの上層階級には膨大な資金が蓄積している。この金がアメリカに流れこんでいるのである。しかし、アメリカの経済には実体はないのだからいずれある日突然これが崩壊する可能性はきわめて高い。

 帝国は普遍主義、諸民族を平等に扱うという能力をもたねばならない。アテネとローマの差がここにある。中国は普遍主義の国であった。イスラムも同様の傾向をもつ。ロシアもソビエト以前からその傾向があり、フランスも同様である(ナポレオン法)。これらはもともとそも民族がもっている家族構造に依存する部分が大きい。イギリスの間接統治というやりかたは、帝国的でない帝国という独自の方法であった。
 問題はアメリカがどのような家族構造の伝統の上にできた国であるかである。その出自からすれば、徹底的に普遍主義的な国である。ヨーロッパのすべての民族を受け入れた(白人というカテゴリー)。しかし一方では、インデアンと黒人という同化しない他者がいる。インデアンは消滅し、現在ではヒスパニックがその位置にいる。
 ある時期アメリカは懸命に黒人を同化すべく努力した。冷戦の圧力で普遍主義をえらばざるをえなかったのである。なぜならソヴィエト共産主義フランス革命以来最大の普遍主義イデオロギーであったからである。共産主義の崩壊によりアメリカは普遍主義から後退しはじめたのである。現在のアメリカ黒人の乳児死亡率の上昇は黒人の同化が失敗したことを如実に物語っている。
 それと平行してアメリカはイスラエルを内部とあつかうようになっている。その合理的説明はできない。可能な説明は以下のようなものである。アメリカ自身が不正をおこなっていることを内心忸怩たる思いでいるので、イスラエルが不正なことをしているのを見て心が休まるのである。
 実は「悪の枢軸」などと言い出すのも、そのようなアメリカの強迫観念のあらわれなのである。1950年から1965年までのアメリカは、表現の自由・社会的権利の拡大・市民権の拡大をめざす普遍主義の国であったのに、それを放棄した後ろめたさがあるのである。アメリカは世界を支配する力がないゆえに、世界が多様であることがゆるせないのである。
 アメリカの軍事力は、海軍と空軍は疑問の余地なく強力であるが、陸軍はそうではない。ということは、ある地域を長期直接統治下にはおけないということである。
 経済的には依存、軍事的には不十分、普遍主義感情は後退、これが現在のアメリカである。
 ある時期、ソヴィエトの崩壊後もロシアは一定の強さを保つだろうと思われていた。しかし1996年ごろにはロシアという国家はほとんど消滅しかかっているようにさえみえた。その故にアメリカは世界唯一の大国であり、帝国であるという幻想を抱いてしまったのだ。
 しかし、アメリカは本当は強くない。だからイラクとか北朝鮮のような弱小国をいじめるしかなくなっているのである。

 以上、相当長々と要旨をまとめてきたが、いろいろと考えさせられる本である。
 まず古来からの<歴史に方向があるか?>という問いへの答えとして、人間の識字率が向上するのが歴史の方向であるというのは、きわめて説得的な答えであるように思われる。そして、教育の普及によって大衆(ニーチェの末人)が出現する(「教育の普及は軽薄の普及なり」福田恆存)、その過程でそれまでの文化との齟齬により一時にはヒステリー現象がおきるが、やがて長期的には社会は安定化していく、とくに女性の場合にはそれが出産児数の低下という形であらわれ、それによる人口の減少により人間は平和になっていくという主張もとても説得的である。日本の少子化というのは平和の結果なのである。朝日新聞は安心していいわけだ。
 さらに、高等教育が普及すると再び階層分化がおき、投票率が低下するというのも日本の現状の説明としてうなづけるものである。わたしが選挙にいかない理由がやっとわかった。
 最近日本で強調されている個人の自立ということも、この文脈でかんがえるととても理解しやすい。大衆として生きるのはやめなさいということでもあり、階層が分化してきているのだから、上の階層にいけるようにがんばりなさいということでもあるのだろう。
 問題はこの階層分化が新たな哲人国家的な志向に結びつくかであろう。ポパーによれば、世界を不幸にしてきた最大の思想は賢者が統治するという思想なのである。共産主義はその集大成であり、20世紀に巨大な不幸をもたらした。トッドは、エリートによる賢人統治の思想は、識字化した大衆による民主主義とバランスしていくだろうとしているようである。その点で歴史には方向があり、識字化というある点で禁断の木の実をたべてしまったものは、もうあとには戻れないと考えているようにみえる。ここが最大の問題であろう。<近代化>を人間の不幸の根源であるとする<反近代>の思想にはきわめて根深いものがある。原始人のなかにしか<幸福>はないという思想、人間は原初から堕落しつづけているという思想もまた根強い。マルクスは生産性の向上が人間と体制をかえていくとした。トッドは経済ではなく、教育がその原動力になるとしている。マルクス主義は失敗におわったにもかかわらず、その思想の根本にある、人間の根底において規定するものは経済であるという発想からは、われわれはまだまだ自由にはなれていない。トッドの説が奇矯にみえるのも、教育が人間と体制を変えていくという主張が、われわれにはまだなじみが薄いものだからなのであろう。
 世界の経済体制は広い意味での市場経済で運営していくしかないのだろうが、その運営法については、それぞれの地域が過去にもった家族構造に依存するというのもきわめてわかりやすい。日本がドイツに似た家族形態をもつということと、日本における普遍主義の欠如、大東亜共栄圏の運営の失敗も大いに関係がありそうである。日本はローマのやりかたもイギリスのやりかたも採用できないのである。
 グローバリゼーションの進行により先進諸国の需要が減少するというのも理解しやすい。岩井克人氏の言う「差異」の問題であり、かつての高度成長期の農村からの低賃金労働者の流入が中国の低賃金労働者に置き換わったのであれば、国内においては需要が低迷するのは当然である。その中国の労働者も、教育を受けているからこそ、労働者として使えるのだというのも、当事者には当然のことかもしれないが、きけば納得である。
 それに加えて、アメリカのドルが強いのはアメリカが強いと思われているからだ、というのは、岩井氏の「貨幣が通用するのは、それが通用すると思われているからだ」という議論と通じるものであり、ある日誰かが、アメリカはあぶないのではないかと思った時点で崩壊するバブルなのであるというのも説得的である。
 アメリカがイスラエルを支持する理由というのも、こんなにわかりやすい説明をきいたことがない。
 この本で著者が示している何本かの補助線は、これからわたくしがいろいろなことをかんがえていく上での、きわめて有用な補助線になりそうである。
 世の中には頭のいいひとがいるものである。
 ところで、トッドの論は下部構造が上部構造を規定するという思潮の中にある。ただ、マルクスの経済の代わりに教育を代入しているのであるが。つくづくと、この議論は反論がしにくいものであると思う。「そんなことをいうのは、お前が持てる側にいるからだ!」「それはお前が高等教育を受けていることによる偏見だ!」という議論にどう反論したらいいのだろうか?