内田樹「私の身体は頭がいい 非中枢的身体論」

   新曜社 2003年5月15日 初版


 内田氏はフランス思想の研究家であると同時に武道家でもあって、その内田氏の武道論である。
 ところでこの題は、橋本治の「「わからない」という方法」(集英社新書)に由来している。正確には「自分の身体は頭がいい」(p250)である。内田氏によれば、この一言で橋本治は20世紀を代表する世界思想家であることがわかるのだそうである。橋本治によれば、われわれが一度覚えたがその時は必要がなく忘れたと思っていることでも、本当に必要であることは身体がおぼえているのだそうである。すべての経験と記憶は身体にキープされるのであるという。身体は現場に生きる。脳という抽象ではなく、身体という具体を生きるということが「私の身体は頭がいい」ということの意味なのであろう。
 ということで、武道論、身体論が展開するのであるが、わたくしは武道というものにまったく関心がない人間であるので、その内容を頭で理解することはできても、身体的に理解することはできない。ということは凡そ本書のいい読者ではないということになるので、最後の「コミュニケーションとしての医療−ナースのミッション」というインタビューのみをとりあげる。「看護学雑誌」に掲載されたものということである。
 インフォームド・コンセントについて:「自己決定]が無条件でいいことなのだろうか?インフォームド・コンセントは「自己決定」や「主体性」が強く肯定的に捉えられている社会ではよくなじむのであろうが、そうではない社会も多いのではないか?
 病人は、医療機関に身を委ねることで「自己決定しなくてはならない」というストレスから解放されるという部分もあるのではないか? 自分の健康管理についての「責任がなくなる」のは心理的には救いとなるひとも多い。まるごと受身になるということの治療効果には大なるものがあるのではないか? 患者にできるのは、治療を受けるかうけないかという選択であって、A、B、Cどの治療を選択するかという自己決定は現実的にはできないのではないか?
 医療の原則はできることはなんでもやれ、役にたつことは何でも利用しろであるから、インフォームド・コンセントも、それにより治療効果があがるならばどんどんやればいい。
 医療はいまだ生成中のシステムである。完成したもの完璧なものではない。試行錯誤をくりかえしている発展途上のものである。
 人間には自己決定したいという部分と、誰かに身をまかせたいという部分の両方がある。
 プラセーボ効果などを考えても、医者と患者が「物語」を共有することは治療上きわめて有効である。「わたしは自己決定した」ということが、患者に生きる力をあたえるような文化においては、インフォームド・コンセントは有効なのかもしれないが、だが日本はそういう文化ではない。
 また、インフォームド・コンセントには医者の判断能力の低下という側面もあるかもしれない。
 ナースの仕事:ナースはヒーラーの系統に属する。医師は職人の系統である。そうであれば本来ナースのほうが医療者としては医師よりも上であるのだが、一方、医師が上である、という「物語」をつくることで医療が「呪術的に」うまくいくということもある。
 病院という場所は、医者という「王様」をナースという「臣下」がとりまき、そこで患者という貧民が救いを求めるという舞台装置があって、それが治療効果を高めている側面があるかもしれない。しかし、これが治療のための虚構であるということを忘れてしまうと、それは一大事である。

 以上、内田氏の主張の概略であるが、医療の呪術性というのは本当に難しい問題である。医師もかつてはほとんど呪術者として以外には何もできない時代があり、最近はようやく職人としても何事かをできる部分ができてきて、その呪術性という暗い過去を忘れようとしている。呪術性の部分を意識的に残しているのは精神科あるいは心理療法の分野だけではないだろうか?
 ナースは医師よりもさらに呪術性の部分を現在でも残しているのかもしれないが、その部分を自分の仕事の主張すべき存在理由とかんがえるものは少なく、大部分のナースにとっては、克服すべき過去ととらえられており、医師のあとをおって自分たちもまた[職人」への道を歩むことを求めているように見える。
 そうすると治療のために有効であった虚構はどんどんと医療の現場から消えていくことになる。
 そして患者側の意識も「すべておまかせ」という態度は稀になっていくであろう。わたくしの感じているところでは、現在の患者がもとめているのは「十分な説明」につきるように思う。何の説明もなしに「自分にまかせなさい」としても多くの患者はついてこないのではないかと思う。ある病状について「十分に説明」をうければ、たとえその内容のほとんどが本当は理解できなかったとしても、自分が相手にされたという感覚、コミュニケーションが成立したという感覚をもつのではないかと思う。かつての医療、医師の裁量権に全面的に委ねるというやりかたは、一方的な施しではあっても、相互のコミュニケーションではもはやないと、とらえられているのではないだろうか?
 つまり現在では医療の場において呪術が成立する条件として、現在では医師による十分な説明ということがあるように思われる。アメリカにおいては呪術が成立するために、インフォームドコンセントをうけ、自己決定したという形が大事である。日本においては(少なくとも現在においては)十分に説明をうけたうえで、「まかせます」というのが一番呪術性を発揮できるいきかたなのではないだろうか?
 ということで、「コミュニケーションとしての医療」というのは医療の永遠の課題である。内田氏の疾病観はかなり全体論であり、個別臓器の系統別の疾患理解という西洋医学のドグマにどっぷりとつかっているわたくしとしては、しっくりこない部分もあるが、インフォームド・コンセントの考え方などたくさん示唆に富む部分のあるインタビューである。