内田樹「疲れすぎて眠れぬ夜のために」

   角川書店 2003年4月30日初版


 何か変な表題だが、<疲れすぎて眠れない>なんてことは本来あってはならない変なことなのだから、そういう時に、これを読んで考えなさいということであろうかと思う。
 現代は「いくら欲しいものを手に入れても、まだ欲望がみたされずにつねに飢えている人間」、つまり資本主義の駆動原理に汚染されている人間が大部分である時代なのであるが、そういう人間は疲れてしまうに決まっている、そういうことは何か変ではないですか、というわけである。ということで本書は、第一に<資本主義原理>へのアンチの本である。
 オヤジの特徴は「不愉快な人間関係に耐えられる」という点にある。そういうことが人間の器量の大きさであるとか、人間的な成熟の証であるとか、錯覚しているのである。しかし、不愉快な人間関係に耐えていると、生命エネルギーがどんどん枯渇していく。我慢なんかしないほうがいいのである。
 アメリカ文化というのは女性嫌悪の文化である。それは開拓時代の西部では男数十人に女一人というような環境であった名残である。そこで、女なんてろくなもんじゃない。男同士の友情のほうが大事、女が選ぶ男はろくな男じゃない。女はいつも間違った男を選ぶ、ほうとうの男は、女に選らばれることなく死んでいく、という西部劇の原型パターンが生まれた。そういう背景があるからこそ、それへの贖罪として、アメリカにフェミニズムが生まれたのである。そういう原型をもたない日本がなぜ、フェミニズムを受け入れるのか? 罪もないのに罰だけ受け入れるというほは変ではないだろうか?
 アメリカ人が、「おれは成功したい!」といってもさもしい感じはしない。しかし日本人が「おれは成功して勝ち組になりたい!」というと、とてもいやしい感じがする。これも文化の違いである。
 人間の本質はコミュニケーションであり、やりとり、交換なのである。歴史において、ものが余ったから交換がはじまったのではなく、交換したいから必要以上に作りはじめたのかもしれない(三浦雅士説)。
 明治20年生まれは敗戦時60歳くらい、明治30年生まれは敗戦時50歳くらいであった。戦後の奇跡的な復興を荷ったのは明治生まれなのである。彼らはそれまでに波瀾万丈の人生を送ってきたから、「甘い」ことは考えないリアリストである。そういう彼らが、その「甘さ」を十分に意識してあえて賭けた幻想が「戦後民主仕儀」なのである。かれらのそれまで経験した人生の悪夢を払うための「夢」であったのである。かれらはそれが夢であり、書割であることは十分に自覚していた。そういう明治20年以降に生まれたリアリスト世代が第一線からほぼ消えたのが70年代である。そのあと「戦後」世代が実権をにぎる。戦後世代は、それまでの世代のような大きな価値変動は経験していないので、「甘い」。
 その「甘い」世代が実権を握った結果が、最近の連続する不祥事なのである。「この社会はオレが支えなくても誰かが支えてくれる」とみんなが思うようになったときに堕落がはじまる。
 日本の恥の文化は決して世間という「外」の目を意識しているというようなことではなく、それが自分の中に内面化している。「型」というのはそのことをさす。「型」は「らしくふるまう」ことをもとめる。
 「らしくふるまう」というのは「ありのままの自分を出す」との対極にある生き方である。
 「ほんとうの自分」というのは「作り話」である。過去の中から、そうと思いたい自分像に合致するものを選び出して編集したものにすぎない。それは相手にそう思ってほしい自分像である。
 「ほうとうの自分」幻想は国家像にも生じる。「ほんとうの日本」などというものは存在しないが、国際社会の社交の中で、自分の「顔」を名刺代わりに提示することは必要なのである。
 村上春樹の主人公たちが自分をまもるためにとる戦略は「礼儀正しさ」である。しかし今の若者は、礼儀正しくふるまうことは、敗北的なみぶりであり、傍若無人にふるまうのが勝利者のやりかたであると思っている。しかし礼儀正しいほうが、自分の利益が大きくなるのである。本当に利己的な人間は礼儀正しい。自己の長期的利益を測定できない短視眼的な人間が、自分らしさにこだわる。
 制度には賞味期限があり、国民国家・人種概念・階級制度・一夫一婦制などはあと数十年の命運であろう。しかし、欠点はあるがまだ使えるという視点は大事である。
 一夫一婦制もそろそろ駄目であろう。しかし、愛情だけで結ばれたカップルというのも、関係維持に要するエネルギーが関係からえられるエネルギーより過大になりやすいというきわめて大きな欠点をもっている。基本的に一対一の関係というのは維持が難しいのである。
 種の存続のための戦略としては「らしさ」のほうがポイントが高い。しかしそういう動物としての種の本能に抗しても、欲望を駆動するシステムがある。それが資本主義のシステムである。資本主義は人間のシステムなのである。<システムの安定>と<欲望の充足>は二律背反である。前者は動物に起因し、後者は人間に起因する。人間の歴史は後者が段々と優位になってくる歴史である。人間は生態系の安定よりも欲望の充足を優先させる唯一の動物なのである。この一点が人間を動物とわかつ。資本主義は人間の欲望を均一化しようとするが、動物としてのシステムの安定の観点からは、欲望はばらけていたほうがいい。その資本主義の制度に都合よく飼いならされた人間を「大衆」と呼ぶ。微妙な差異への欲求が資本主義を駆動する。高度な資本主義国である日本は各人の欲望がきわめて均質化されてしまっている。これは危険である。自分が個性的であろうとするとみなが均質化してしてしまうというパラドックスがそこに生じる。自分が個性的であろうとするのではなく、誰々のようになろうとするほうが、人間は多様になる。
 人間は自由に生きるほうがいい。なぜならその方が人間のあり方が多様化するから。
 人間はあまり自由にさせないほうがいい。自由にするとみな同じになってしまうから。
 多様性を確保するためには、各人を自由にさせておくほうがいいのか?型で縛ったほうがいいのか?
 これには答えがない。この根源的な矛盾が人間の自由と制約をめぐる問題すべてを規定している、そういう事実から目をそらさないことが大事である。

 以上、内田氏が述べていることは、昨今のグローバ・スタンダード議論へのアンチである。
 グローバル・スタンダードアメリカン・スタンダードであるのか?資本主義スタンダードであるのかは、アメリカが資本主義国でありかつ世界の覇者になっているから、それを区別できない部分が大きいが、世界が均一化することは危険であるという主張はきわめて明快である。
 そして問題は内田氏もいうように、資本主義を駆動するのは<人間の欲望>であって、ほとんど人間の本性に由来するものであるから、それを制御するのはきわめて難しいということであろう。
 それに対立するものとして、人間もまた動物であるのだから、動物が要求するシステムの安定にそれは反するのだという議論がどのくらいの説得力をもつかなのであろう。
 この本を読んで感じるのは、人間の一生の時間に比して、時代の変化のスピードが大きすぎるということである。明治の人間はそういう激変の時代に生きた。それと同時に比較的、「型」は一定していた。戦後の世代はそれに較べれば単線的な人生を送ってきているが、「型」は急速に消失しつつある。
 たしかに、一夫一婦制はいづれもたなくなるであろう。しかし普通は結婚生活は50年くらいのものであろうか? そもそも、その50年の間にわれわれを規定する「型」がまったく変わってしまったとしたら、安定した夫婦関係などというものはどのようにすれば構成できるのだろうか?
 たぶん、会社の「型」もここ10年くらいで様変わりしてしまうであろう。資本主義的な「型」が自壊する。しかし、それにかわる「型」はなにもない、という世界はかなり悲惨な世界である。
 いずれ遠からずそういう日がくる。だから自分の生きるやりかたは自分でリスクをとって自分できめるしかない、というのがたぶん村上龍あたりのメッセージなのであろうが、そういう世界は大部分の人間にとってはつらいだけである。そうかといって時代を逆もどりすることはできないであるが・・・。