橋本治 「乱世を生きる 市場原理は嘘かもしれない」

  [集英社新書 2005年11月22日初版]


 橋本治集英社新書に書くのは「「わからない」という方法」「上司は思いつきでものを言う」につき3冊目である。それらが三部作をなすのだそうである。前の二冊は相互にまったく関係のない本であると思っていたので、面食らった。三部作に共通するテーマは、「今の社会はテーマをはっきりさせてくれない」ということであり、その出発点は「今の日本の社会のあり方はおかしい」ということなのだそうである。なんだかわかったようなわからないような話なのだが・・・。
 それで、橋本はいう。「今の日本の社会のあり方」は本当におかしいのか? それは単なる橋本自身の欲求不満が言わしめる八つ当たりではないのか?
 「勝ち組・負け組」という二分法を考えてみよう。「勝ち組」がそう言うのなら、「改革への提言」になりえる。「勝ち組」でも「負け組」でもない人間が言うのならば、ニュートラルな提言であるかもしれない。しかし「負け組」なら、「社会のあり方からとり残された人間のひがみ」ではないだろうか?
 さて自分は間違いなく「負け組」である。出版という斜陽産業で、本を書くということをしているのだから。しかし自分は「勝ち組・負け組」などという考え方をしない。その二分法があることが、「今の日本の社会のあり方」のおかしさを表していると考える。「勝ち組・負け組」というのは結果論である。これは富んだものが勝ち、富めなかったものが負け、という判断である。富んだものが富めなかったものを嘲笑うというだけならいい。しかし、富めなかったもの、すなわち「負け組」のいうことには、誰からも耳も傾けてもらえない、というのはまずい。
 「勝ち組」は現在日本においてしっかりとした未来への展望をもっているもの、「負け組」はそうではないものとされている。時代は変革を必要としているのに、それに対応できないものが「負け組」とされるのである。問題は、その基準が「経済戦争」の勝者になれるかという一点にしかないことにある。
 最近流行している「負け犬」は「負け組」のことである。それならば「勝ち犬」は「勝ち組」か? ただ結婚していて子供がいるだけでは駄目で、夫は高収入、自分自身は自由を謳歌、子供も優秀、そういう妻=セレブでなければ「勝ち組」ではない。
 なぜ、「勝ち組・負け組」などという区分がでてきたのか? それはバブル崩壊後の日本がどうしていいかわからない状態に陥っていたからである。その状態の中で、なんとかなった、なんとかしたしたものが「勝ち組」なのである。勝ったか、負けたかしか判断の基準がなくなったのである。
 バブル崩壊後は「どうしたらいいのかわからない」のだから、乱世である。日本の乱世は戦国時代である。しかし、戦国時代は室町時代という統一的な行政機関があった時代に生まれている。これは高度資本主義体制下で生まれたバブルの崩壊とパラレルである。
 バブルが崩壊した時に、「このままでいいわけではないが、しかし、どうしたらいいかわからない。このままでなんとかなるのではないか」という思考停止におちいった大企業経営者は、室町時代守護大名なのである。それなら戦国大名が「勝ち組」である。
 室町時代にも「朝廷」はあった。守護というのは、本来「朝廷」に帰属する地方行政単位の長である国司の権限を奪っていく形で定着していったものである。したがって「朝廷」の存在基盤は侵食され、ないに等しものとなっていった。
 今度の選挙での刺客騒ぎは、鎌倉幕府国司がいる地方に守護を送ったようなものでもある。だから小泉純一郎は、守護大名的な古い体質の政治家・官僚という抵抗勢力に対しては、勝ち組の立場であるが、鎌倉幕府の立場であるとすれば負け組の要因ももっていることになる。
 室町幕府自民党守護大名が大企業、戦国大名が勝ち組だとすると、われわれは何に該当するのか。「戦火に踏みにじられる農民」なのだろうか? それは社会主義的な考え方である。われわれが該当するのは「朝廷」なのである。ほとんど力はもっていないが、本来は主権者であるはずのもの。そういうことがぴんとこないのはわれわれの中でまだ民主主義が根づいていないからなのである。それは政治家がわれわれを代表するものではなく、われわれを支配するものであるという時代がづっと続いてきたから。支配者がいるということは、支配してもらうと楽という側面をつねに持つ。自分で考えなくてもいいから。面倒なことをしなくてすむから。
 「地方」はかつては、中央を支える経済基盤であり、中央に貢ぎ物を送るところであった。それが今では、中央が地方を支えるということになってしまった。地方からみれば中央はまだあるが、中央に住んでいるひとは自分を中央だなどとは考えてはいない。いまや中央と地方の関係は「年老いた両親の介護に疲れきった子供」あるいは「離れて住んでいる年老いた両親のことを忘れたい子供」といったものに近い。
 バブルの崩壊によって倒産に追い込まれたようなものは明白に負け組である。しかし、その他大勢のあまりぱっとしないまま、何の手も打たず、また打てずに旧態依然のままであるような企業は、なんとか倒産もせずされとて儲かりもせずでありながら「負け組」にもカウントされず、隠されてしまった。
 本当は「日本経済そのもの」が「負け組」であった。それにもかかわらず、「勝ち組・負け組」という言葉でそのことが隠蔽されてしまった。日本経済の仕組みそのものは批判を免れてしまったのである。それを意図して隠そうとしたものは誰か? それは投資家である。投資家はどこかに投資対象があるという神話を維持しなければならない。だから「このままでは、日本は世界経済の負け組となる」という言い方はしても、日本経済そのものがもう終わったなどとは言えないのである。エコノミストは経済そのものを否定することはできない。経済自体が破綻するという未来は想定できないのである。21世紀は、経済はその根底ではに絶対に崩れないという前提をもって動いている。
 私橋本は世界経済が破綻したらどうなるのということを一番知りたいのであるが、誰もそれを教えてくれない。自分にとっては、それは「贅沢いわなければ食って行ける」ということであるとしか思えないが。今という時代のややこしさ、あるいは窮屈さというのは、本来なら破綻しかねない、あるいはすでに破綻しようとしている“ある秩序”を守り続けることを絶対の前提としていて、そのために世界全体が一つの方向に進むことを(暗黙の内に)何も考えずによしとしていることによる。
 日本のある種の停滞を作ったのは永遠に変わらない自民党政権であるという思いは多くの人びとに共有されていた。だから小泉純一郎はあれだけの支持を得ることができた。しかし、かれは自民党全体を変えたのだろうか? 大部分のひとは小泉を本気では支持せず、ただ風をしのぐために小泉にぶらさがっているだけではないのだろうか? 大部分の大企業が「勝ち組・負け組」の二分法に隠れて自分の反省はなしですませてきたのと、それは似ている。勝ち組でもない負け組でもないぱっとしない中間組が、どこかに隠れてしまうのである。隠れることで生き延びようとしている。本来ならば小泉首相はそういう人間も切り捨てるべきである。だが、小泉首相はそういう人間を利用してでも郵政改革をするのが改革であるといっている。それが本当なのかが問われなくなってしまっている。なぜなら改革など必要ないという勢力がほとんどなくなってしまっているからである。
 日本では体制の中からは現状を覆すものが現れにくい。そのシステムを構成する人間たちの利権がそこに存在してしまっているから、完成しているとされているものは修理がしにくいのである。修理をしようとすると壊れてしまう。だから現在小泉にぶら下がっているものたちは現状維持派なのである。既得権益をまもろうとしているのである。改革とは既得権益を奪うものである。だから改革などはなくてもいい、というのが日本の基本である。
 それならば、改革をすれば自分たちの既得権益が損なわれるが、このままでいても自分たちの既得権益は減り続けるという状況になればどうか? 自分は何もしないが、誰かが何かをやってくれることを期待するのである。普通の時代であれば結果をだすのは容易である。しかし乱世ではそうではない。誰かが結果をだせば、その人は「勝ち組」である。その人にみなが依存するようになる。依存された人間は、もうおれは辞めるよというおどしでみんなをついてこさせることができるようになる。だから独裁者がでてくる。
 しかしある組織の危機は、一つの方向性しかもてなくなってしまうということである。独裁者がでてきたらといって別の方向を打ち出せるというものでもない。複数の方向性をもつ世界に変えることにしか、組織の危機を回避する方法はない。世界は独裁者がどうにかできるような便利なものではなく、もっと不便な融通のきかないものなのである。
 経済とは循環するものの云いである。ぐるぐる回ることである。利潤を得るというのは経済のごく一部である。その一つの方向だけがクローズアップされてしまったというのが現代の不幸である。たとえば、そこでは感情もまた回るのである。感情が回るとわれわれは豊かになるのである。モノや金が動くのと一緒に、何かがまた回る。それは「生きることが幸福でありたい」という感情である。経済というのは、社会的諸関係の総体のはずなのである。われわれが幸福であるようなあり方を模索することがそのまま経済活動であり、また経済とはそのための具体的な方法の一つであるべきなのである。
 経済が複雑になるのは、そこに国家が絡んでくるからである。それは日本では、国家が経済を指導するとかいうかたちで、経済そのものが国家のあり方と深く重なってしまっている、すなわち経済=経済政策とすぐなってしまうからである。しかし、社会主義国家は没落したのだ。
 日本の自動車産業は自動車の本場であるアメリカにまで自動車を売りにいった。いい度胸である。とにかく会社はどんどんと大きくなった。するとアメリカは会社を大きくするのはもういい加減にしろ、社員の給料をあげて、もっと使わせろ、といいだした。その基本には経済が飽和状態に達した、ということがある。いままでに経験したことのある経済の破綻ではなく、経済が順調すぎて飽和状態になるという事態である。これからはわれわれがどうするかを考えなくてはいけない。指導者の時代は終わったのである。
 経済が満杯になるとは、フロンティアが消滅したということである。昭和30年代には商店街は確固としていた。スーパーマーケットは新興住宅街を相手にするしかなかった。そこで力を蓄えたスーパーはやがて都市にも侵入していく。スーパーは家族を相手にしていた。そこに今度は個人を相手にするコンビニがでてくる。
 日本がアメリカに自動車を売り込んだというのはアメリカをフロンティアにしたということ、本場をフロンティアにしたということである。こういうことを軍隊と戦争なしに実現した国は日本だけである。その後のアメリカが日本につきつけた内需拡大要求は日本自体をフロンティアにしろということである。その日本のフロンティアとは「欲望」であった。「いるかいらないか?」ではなく「ほしい!」である。アメリカという最後のフロンティアが消滅してしまうと、もういるかいらないかで売る余地はなくなってしまった。あとはいらないものを欲しいと思わせて買わせる、である。それがその時、経済大国になっていた金持ち大国日本に課せられた役割だった。
 その過程で生産を前提とする経済活動から、投資を中心とするものへと、世界経済は軸足を移していった。フロンティアが消滅した世界経済のはたしてどこにフロンティアは存在するのか? 欲望がフロンティアなのである。ある人は中国がフロンティアであるという。おそらく中国は日本がたどった道をおいかけていくのであろう。官僚主導の「社会主義国」日本と国家主導の共産中国はとてもよく似ている。では中国がバブルになり、バブルがはじけたらどうなるのだろうか? 経済発展以外の選択肢もあるのだよということを日本は示さなくてはいけないのである。
 「経済がもう飽和してしまった」なら、「もう経済の発展を考えてもしかたがない」である。しかし実際には「それでも経済を発展させなければならない」ということになる。これは矛盾である。そうではあっても、昔は良かった!、昔に帰れ!ではない。ここで必要なのは弁証法、正反合である。過去を踏まえ、現在を踏まえた未来である。
 スーパー・マーケットはある時期、必要なものであったのである。いるものはいる!のである。そこを直視することが必要である。
 「いるかいらないか?」と「ほしい!」をわけるものは我慢である。「欲望」の侵入を食い止めるものは「我慢」である。「我慢」は貧しさから出ている、と思えば「我慢が不必要になるのが、豊かな時代」である。
 しかし「我慢」とは現状に抗する力なのである。我慢する主体は我々である。我慢を受身のものと考えて、主体を現状と考え、現状が我々に我慢を強いていると考えるなら、我々は現状を追随するものでしかないことになる。
 平和がだった60年間の間に日本からは世襲制度というものが消えていった。それは「お父さんの仕事を継承しなくてもいいんだよ」という考え方が親子間で継承されていったからである。「お前の職業はお前の自由で選んでいい!」という甘い呟きである。
 これは実は家長が担ってきた教育機能の放棄なのである。しかしそれでも、男は一家の長でなければならないという責任感までは放棄しなかった。だから会社と一体感をもつようになったのである。とすれば、子供と女に社会人としての基本原則が欠落してしまうのも当然である。
 さて、日本のフロンティアは「女」だった。「オタク」だってフロンティアになった。「若者」もまた。ただ「オヤジ」だけがまだフロンティアになっていない。まだ「オヤジ」だけは欲望ではなく、必要によって生きているのである。というか「オヤジ」の欲望は仕事の中で垂れ流されてきたからである。
 団塊の世代の定年をねらって「オヤジ」を新たな経済のフロンティアにしようという動きがある。もうそうなれば日本は崩壊するかもしれない。「社会の基本単位であろうとする義務感」は今ではわずかに「オヤジ」の中だけに保存されているのだから。
 ところで年金制度ができる前、人生リタイア後の扶養は「家」という単位でおこなわれていた。年金制度の破綻は、世襲制度の崩壊とも深くかかわっているのである。
 
 本書を読んでいて、つねに村上龍のことが念頭にあった。「文科中の文系の極北」を自認し、「数字がでてくると、なんだかわからない話がはじまったと思う」と嘯き、「データってなんだよ?と不貞腐れる」という橋本氏は「経済学」の教科書を勉強することなどまずしていなであろう。一方、村上氏はすぐに放り出してしまったなどと書いていたがスティーグリッツの「経済学」などをとにかく勉強しようとするのである。村上氏はここでいわれる「負け組」にならないようにするためにはどうしたらいいかということをさまざまな形で展開している。そして、「おじいさんは山に金儲けに 時として、投資は希望を生む」などという変な童話絵本?まで書く。そこで村上氏は「現在で重要なのは、正直に生きるか、欲張りになるかではなく、いかにして無知から脱却するかだ」と書いている。ここで村上氏がいっている「投資」は橋本治がいっている「投資」、世界の大金持ちたちが自分の資産の運用を図るというようなものではなく、人生を前向きにとらえてリスクをとっていく生き方の一手段としてのリスクの分散法といったものに近い。そして明らかに村上龍は改革派よりである。
 日本の「改革派」対「守旧派抵抗勢力?)」をみていると、「守旧派」は平等志向、協調志向、集団志向であるのに対して、「改革派」は格差肯定、競争志向、個人志向である。「守旧派」は「みんな仲良くが日本の美風である」といい、「改革派」は「そんなことをいっていたら日本は滅びてしまう」という。その中で橋本治は個人志向の協調志向とでもいうような独特の立ち位置にいる。指導者がいて、その指示のもとに自分の頭では何も考えないでいわれたことをしていくというやりかたを否定する一方で、生きることで一番大事なのは、人相互の感情の交流であるともする。前半はまったく村上と同じである。しかし村上龍が同時に狎れあいを嫌い、湿った人間関係を嫌うのに対して(中田英寿坂本龍一といった日本社会には適合できそうない個性が村上龍の友達である)、人間関係の中にしか人の幸せはないと橋本治はするのである。そもそも「生きることが幸福でありたい」などと臆面もなく「幸福」などということを書く作家も珍しい。
 村上龍が何よりも重視することは自立ということで、自立のためにはお金がいる。そのお金の確保のために投資、そういう段取りになる。
 改革派にとって、一人で生きようとする「個」の足をみんなでひっぱるような社会がいままでの日本社会である。能力がある人がその能力の限界にまで挑戦できる社会が望ましい社会である。だから改革派にはどこかに人間嫌いの匂いがする。
 橋本治の特異なところは不思議なくらい人間嫌いの感じがしない点である。インテリは概して人交わりが下手であり、人の群れから逃げたがる傾向があるが、橋本治は全然インテリ臭くないインテリなのである。氏が「「わからない」という方法」で「知性する身体」などというのは、そのこととかかわっているであろう。頭ではなく身体なのである。頭でないから人間嫌いにならずにいられるのでる。
 最初橋本治を読み出したころ、このひとのいっていることは理屈としては正しいが現実は・・・、などと考えたものである。しかし、この本を読んでいて、氏のいっていることは「宇宙船地球号」の話なのだと思うようになった。フロンティアがなくなったというのは地球が有限の空間であるということである。有限の空間の中での無限の成長は無理ということである。
 わたくしも数字がでてくると敬して遠ざける(理科系?の中での)究極の文科系の人間である。少し前に経済学の啓蒙本を何冊か読んだことがある。数字は飛ばし読みであるから定性的理解がやっとで、それすらもおぼつかないが、そこで得たものは「経済学は有限性に関する学問なのだな」というようなこと、あるいはそれと同じことなのかもしれないが「ただ飯というようなものはない、というのが経済学なのかな」というような、まことに書くのも恥ずかしいようなことだけだった。また小室直樹の何かの本で、経済学ではいつも、あることについて鶏が先か卵が先かというような議論になるが、それは本来一つのものであり、後先はないのだということがわかったときに経済学の真髄が理解できるといったようなことを書いていたのも覚えている。これは経済とは循環するものというのと同義なのであろうか?
 社会主義というのは「ただ飯というものが実現しうるかもしれない」という夢想だったのかもしれないし、ある時期の日本では「国家がただ飯を無限に配り続けてくれる」という幻想が支配的だったのかもしれない。その幻想がさめて、あれもこれもというのは実現不可能なのだという「有限性」の理解に日本はようやくいたっているのかもしれない。
 「クルーグマン教授の経済入門」では最初の方で、生活水準を「上げるには」ほとんど生産性の向上しかないということを言っている。ここで橋本治が言っていることは、「上げなくていいのではないの!」ということである。「生活水準が上がる」=「欲しいものが買える」 そうなら、「もう欲しいものがない」=「生活水準を上げる必要がない」 そういう議論である。しかし、資本主義社会では、組織の自動運動により、売れるものがなくなったら別の売れるものを探せということになる。生活必需品がいきわたってしまったら、必要のないものを売れ、必要のないものでも欲しいと思わせろ、欲望に火をつけろ、という方向になる。欲望は必要とは無関係であるから、実際上は際限がないことになる。しかし、地球は有限である、ということである。
 一時期の改革派の議論は、すでに必要とされなくなった過去の時代遅れの産業に人と資金がまだたくさんあって、必要とされている部門には人も資金もいかない、そういうミスマッチが景気停滞の原因である、そういっていたような気がする。その必要とされている部門とはIT産業であるといわれていたような気がする。しかしIT部門というのがとてもではないが膨大な需要を喚起するものではないことがはっきりしたきた。携帯電話というのは広い意味でのIT産業であるかもしれないが、それが最後のまともな大きな需要なのだそうである。あとは隙間産業ということで、携帯電話のストラップなどというものが最近のヒット商品などというのは世も末であると、橋本治がどこかに書いていた。そんなものは「生きる上での必要」とはまったく縁のないものである。
 「生きる上での必要」でないものは贅沢である。しかし欲望の充足と贅沢はどこか違うものであるような気がする。贅沢とは余裕のあるものであり、ひとを幸せにするものであると思うが、欲望の充足は切りがないものであり、つねに飢餓感をともなって、ひとを幸せにしないものであるように思う。文化とか文明とかはすべて「生きる上での必要+α」なのであろうから、本来贅沢なものである。たぶん、贅沢というのは必要なものなのである。しかし、喚起された欲望というのは本来は必要がなかったものなのである。
 橋本治のいうように中国はこれから日本の後を追いかけ、急速に発展し、ことによるとバブルになり、それが崩壊するというようなことも経験するのかもしれない。しかし、それを日本の過去の過ちを範として、違う道をいかせるというようなことができるのだろうか? まだ中国は《いるものはいる!》の段階であって、必要のないものを欲望に点火されて買っているのではないだろうと思う。もっとも中国に消費の喜びを教えたのは、もはやフロンティアがなくなった先進工業国なのであろうが。岩井克人がどこかで「資本主義は差異により成り立つ」というようなことを言っていた。中国はその差異がもっとも大量に存在する場所であり、それが膨大なポテンシャル・エネルギーを生むのであろう。橋本氏もいうように、そうすると有限な地球はメルトダウンしてしまうかもしれない。しかし、誰かそれを止めさせることができるのだろうか? 橋本氏の著作にその力がないことだけは確かである。少なくとも中国があるいはインドが存在する限り資本主義は回り続けることができるのである。そしてその燃料が燃え尽きるときにその運動は止まるのであろう。あるいはその時には今度はアフリカがフロンティアになっているのだろうか? 橋本氏はもうそろそろ止め時ではないだろうかという。しかし、それはとめることはできず、ただある時に持続できなくなって、止まるだけなのではないだろうか?
 ここに書かれているのは日本経済の話であるが、読みながら医療の問題とパラレルであることを強く感じた。医療の世界もまた「必要」から「欲望」へと転換しつつあるのではないだろうか? 医療も産業の世界に組み込まれてしまっており、産業の自動運動の中で、本来必要ではないものも“欲望”を喚起させることで、必要とされてきているのではないだろうか? 最近、タミフルというインフルエンザ治療薬の副作用が報告され、そのタミフルの世界使用の8割近くが日本で消費されているということも報道された。これはいろいろな意味で日本の医療の現状を象徴している事例であるように思うが、これは氷山の一角なのであろうと思う。本来必要でないものをいつの間にか必要であると思わされてしまっているものというものは多々あるのだろうと思う。本当に必要な医療はわれわれがおこなっている医療の何分の一かであろうと思う。
 最近QOLということが盛んにいわれる。生活の質である。前にとりあげた浜氏の本でも自立ということが強調されていた。しかしこれは身体面である。“幸福”というようなことは測定のしようもない。幸福に60歳まで生きるのと、不幸ではあるが90歳まで生きることのどちらを選ぶが、ということの選択に答えがあるだろうか?
 関川夏央「戦中派天才老人山田風太郎」にある風太郎「ヘイケイ物語」:女性の閉経は平均51歳である。それを端折って50歳とする。理論的には50歳までは子を産める。子供は一人では生きられないから15歳元服までは母親が必要であろう。とすれば65歳までは生きてもいいが、あとは余計である。男も65歳で閉茎期。その辺りで消滅すれば国も助かる。風太安楽死案:国立劇場ガス室にする。そこに数多の老人を集め、ベートーベンの第九かなにかを聴きながら、まとめて世を去ってもらう。早く死にたいという人は意外とたくさんいる。そういう人々を募って、死ぬ前に百万円渡し心おきなく楽しんでもらう。百万円なんて彼らが際限なく生きてしまうことを考えたら安いもの。死んだら第二靖国神社へ。そう語る風太郎、時に73歳。(そうであるなら「失楽園」(渡辺淳一の方)は国策に沿った話であるわけだ)
 風太郎いわく、今のスーパーに食べ物があふれているところを戦争で死んだ連中に見せたら発狂するであろう。しかし、今が頂点。また戦争中に戻るよ。「天才老人」は1995年刊である。またいわく、たったいま日本が沈没しても、世界の誰にも惜しまれないのではないだろうか? たったいま、日本から60代、70代の人間すべてが消えても誰にも惜しまれないように。ただ美しい娘さんだけは、この世に生まれてきたほうがよかったような気がするね。でもそういう人も80歳、90歳まで生きてしまうのだ。
 山田風太郎は生涯列外の人である。欲のない人である。資本主義の宣伝で欲望を喚起させられるというようなことからもっとも遠い人である。しかし世の中には風太郎さんのような人ばかりがいるわけではないのである。
 今日(11月20日)の朝日新聞の「読書」欄で柄谷行人がイバン・イリイチの本を紹介しているのを読んで、橋本治は日本版イリイチなのではないだろうか、というようなことをふと思った。この二人似ても似つかないけれども、根源的な資本主義制度の批判者である。ただイリイチの根底にはカソリック思想があるので、反資本主義世界のあるべき姿は聖書が示してくれる。それに対して橋本治は、今の社会はこんなにおかしいのだぞということを指摘するだけで、それに対する解答をもっている人は誰もいない、誰かが正解をもっているという思考が今の不幸を生んだのだから、解答が与えられるのを待っていてはならない、自分の頭でそれを考えていかなくてはならない、と言う。そういう点においてはイリイチと正反対の位置に立つともいえる人なのでもあるが。
 柄谷氏は朝日新聞イリイチ紹介で、イリイチがカール・ポランニーに共感し、互酬制的な経済を理想としたと書いている。橋本のいう「経済とは循環するものの云いであって、ぐるぐる回ることであり、利潤を得るというのは経済のごく一部であって、そこでは感情もまた回る。感情が回るとわれわれは豊かになる。モノや金が動くのと一緒に、「生きることが幸福でありたい」という感情もまた循環する。われわれが幸福であるようなあり方を模索することがそのまま経済活動であるべきなのである」というのは互酬制そのものであるように思える。ポトラッチにおける蕩尽はまさにお互いの感情のやり取りであり、贅沢ではあっても、欲望とは正反対な何かである。
 橋本治はおよそ学問的用語は用いないし、引用文献もほとんどない文章を書く人であるが、最先端の根源的な知につながっている人なのであると思う。


(2006年4月1日ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/より移植)